お早う御座います。 水戸と薩摩、長州の関係は一寸面白いですね。長州ですが皆様が神のように拝めた吉田松陰は五回程水戸を訊ねています。此れは嘗てお送りしました「新論」ですが、此れが幕末の尊皇攘夷の原本の様に言われています。松蔭も此れを読んで国体「日本国」の存在を認識したと言われています。特に徳川時代は国とは藩で日本ではなかった。松蔭も会沢正志斎の「新論」を読んで会沢を訊ねてはるばる来た次第です。薩摩は藤田東湖と西郷隆盛との関係が斉彬と斉昭との関係の様に良く何回も水戸小石川藩邸を訊ねています。朝廷から攘夷の実行指令が直接水戸に来た事があるのですが此れが水戸藩を大きく分けて革新派と門閥派に分裂しその結果井伊大老の攘夷派投獄と更に桜田門の変と連動しています。このとき攘夷の実行指令が出る事を西郷が察知し京都に飛んだのですが間に合わなかった。その後桂小五郎が水戸を視察し藤田東湖の三男(妾腹)の小四郎を煽り筑波山挙兵となります。この時は、禁門の変、寺田屋事件等々、薩摩、長州とアメリカ、イギリス等の戦争が水戸に伝わり難くなり一般に尊王倒幕に変ってゆく中、水戸は内部抗争に入ってしまった次第です。重要人物の死が大きな分かれ目になっているようです。地震で藤田東湖が死に,そのため天狗派が門閥派の結城寅壽を惨殺してるのですが此れで水戸藩は指揮系統が崩壊し5000人近くの人達が死ぬ事になりました。水戸藩は殿様は藩運営には関係なく単なるお雛様であった事も大きな要因です。「黄門さん、斉昭等有名な藩主が出ていますが藩運営にはなんら関係なく単なるお飾りであった事も沢山の人が死んだ大きな要因でした。」水戸藩の武士団3800人位ですが明治6年に内部抗争が終るのですが、この時の人員は800位といわれています。只実際の構成は農民、その他が約六割ですからこれ等の何倍かの人数が殺されているようです。
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