[中世の講]
中世社会の講には大別して宗教的講と経済的講とがある。寺院における講経,法会の講は講会 (こうえ) といわれるが,法華経を講ずる法華八講,最勝王経を講ずる最勝講などがあり,のちには念仏講,往生講,舎利 (しやり) 講などがある。鎌倉時代以後の新仏教宗派のうち,浄土真宗の報恩講,日蓮宗の法華講などは,宗派の教線拡大と教団の維持を意図して組織されたものである。民間での宗教的講の初見は,平家追討のため讃岐に進軍した源義経の軍勢が,金仙寺で開かれている村人の観音講の座に遭遇したことである。 1424 年 (応永 31),近江国甲賀郡三雲郷の野村殿講という名称の熊野講は,地侍,中小農民,女性,僧侶など 16 人で構成され,野村殿という地侍を講親として郷村の諸階層が講に結集している。講は構成員の平等を志向するが,講を生み出す地域社会の条件が反映され,野村殿講のような地侍主導の講が成立するのである。
経済的講は本来,宗教的講の運営のために経済的な基盤が必要であり,講員が拠出した米銭や田畑林野などを共有財産とし,これを講員の相互扶助に使用したことから発する。宗教的機能と経済的機能をあわせもつ講として伊勢講があげられる。伊勢講は伊勢参宮のための講で,掛銭をして当番の家で飲食し,講員が輪番で一生に一度の参宮を期待した。伊勢講は伊勢信仰の中に参宮の娯楽的機能をもっている。宗教的講から経済的講が独立する形態は頼母子 (憑支) 講, 無尽講である。 1275 年 (建治 1),高野山領紀伊国猿川, 神野,真国の 3 ヵ荘の荘官が,〈憑支と号して百姓の銭を乞取る事〉をしないことを高野山に誓っているのは,荘官が憑支講を介して百姓の銭を搾取していることを裏書きしている。 また 1358 年 (正平 13 ‖延文 3),近江国蒲生郡島村の憑子衆中 9 人が,共有財産の田地,山林を奥島社大座衆中へ売却しているのは,講中が財政的基盤の上に結成されていることを示している。 1416 年 (応永 23),同国同郡得珍保 (とくちんのほ)蛇溝郷の憑支講は, 讃岐公という聖 (ひじり) 僧が講親となっている。得珍保は比叡山延暦寺領荘園であるから,讃岐公は延暦寺から出た聖僧と考えられ,郷村内の宗教活動を主導するとともに,村人の相互扶助活動の一環である憑支講を主催していることは注目される。また得珍保今堀郷では鎮守の日吉十禅師権現社神田の収納米が,郷内の憑支衆中に融通されており,郷村の宮座と講中との相互依存関係をあらわしている。
仲村 研
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