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家系研究協議会掲示板

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3168.歴史の間違い 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2017年4月8日(土) 16時41分
歴史の間違いを本家である私が正さず誰が正してくれるというのだろうか?

3166.棟札の証拠を出してください 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2017年3月22日(水) 20時25分
棟札に、檀那である名前が無く役職名だけが 書いてある、棟札があるならば
ぜひ見せてください。

3165.棟札の読み方 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2017年3月19日(日) 22時8分
棟札の定義
沼田頼輔は、『棟札とは神社仏閣その他建築物を建築物を建立もしくは修繕したる時、その事柄を後世に記念せんがために、
その建立もしくは工事に与かりし人々の氏名及び建立の成りし年月日等を木札もしくは銅版に記して、これを棟及び梁に釘付
としたるものをいう。然れども右の如く木札若しくは銅板に記さずして、直接に棟梁に記せるものもあり』(『考古学雑誌』
第八巻第七号、現代文に改めた)と定義している。
『国史大辞典』(吉川弘文館)には、『上棟式のとき、建物名・願主・工匠名・上棟年月日など書いて、棟木に打ちつけた板。
新築に限らず、大修理・屋根替の時にも造られる。古くは棟木の下面に直接書いた棟木銘が多いが、鎌倉時代の中ごろ以後は
棟札がふえ、南北朝時代以後はほとんど棟札となる』(大田博太郎執筆)と書いて増す。
また、『棟札の研究』(水藤 真 著)を 読んでもらえれば解ると思いますが、沙汰人や檀那に当たる人の名前が無く役職名
だけの棟札など存在しません。まして、役職名に(御)を付けるなど おかしいです、なぜ 領家は、御領家と、しないのですか。
また、高知の歴史家は、願主を檀那 扱いにしています。このように、棟札のことを知らない人が あーだこーだと歴史のことを
いっています。
本家(ほんけ)と書きたいならば、〇〇〇本家△△△領家次第沙汰人というように名前を書いてから役職名を書くのです。
こんなことも知らない人が、(ろくに調べもせずに家系詐称した)鳥越俊太郎氏、ろくに調べもせずでたらめな知識で私を否定する
あなたと どこが違うのですか?

3163.全て解りました 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2017年3月11日(土) 23時36分
志和薬師寺の棟札に御本尊(みもとのみこと)領家領所次第沙汰人と書かれた理由とは、
紀州武田の分家である御本家(みもとけ)は熊野本宮大社に仕えており土佐の仁井田庄は、
熊野の荘園でありその領家として土佐に渡り志和城主となりました、その時 願主である秦宗重に頼まれ
熊野本宮に仕える身である御本家は、棟札に御本尊(みもとのみこと)と書かれたのです。
その後(江戸後期)に書かれた南路志を書いた著者は、この棟札の写しを見て御本尊の部分を
改めて御本家と直したのですが、そのことを知らない歴史家が、写しのほうは御本尊(ごほんぞん)
と読み意味が解らず 南路志のほうを御本家(ごほんけ)と読みここの近くで力のある土佐一条氏
あると勘違いし願主の秦宗重を志和城主とし無理やりこじつけて歴史を作ったため土佐一条氏の家来にあたる
はずの秦氏の名前は家来の名にないのです。御本家(みもとけ)という名前のため歴史じょう 御本家(ごほんけ)
と読まれその土地の有力者の名前に置き換えられ現代に至っています。
事実は 志和城主であった御本師重(太郎)は、志和薬師寺に出家し後に志和氏を名乗っています。
御本家を継いだのは御本経重(三郎)です。
それから、志和氏は 御本家の最初の分家となりました。その後 志和氏を含め窪川氏、西原氏、西氏、東氏
土佐の仁井田五人衆となり勢力強めていきます。その証拠に 三重県熊野市紀和町和気に応仁文明の乱に際して
畠山義就方として戦った御本西家が存在し御本師房の系だと三重県環境生活部分化振興課県史さん班から連絡が
ありました。この西家は、長宗我部地検帳に紀州尉として載っています。
そして、土佐七雄であるはずの津野氏を家来に向かえています、その証拠に津野氏の城 須崎城(140m)を見下ろす
位置に針木城(200m)はあり城主は三本六左衛門である。しかしこの三本家歴史じょうまったく無名である。
話を もどしますが、この土佐仁井田庄には たたら場(鉄を作る所)が無いにもかかわらずたくさんの鍛冶場があり
刀から鉄砲まで作っており かなりの力をつけていました。
そのため、土佐一条氏を倒すべく久礼の佐竹氏に(同じく源氏の血をひく)協力してもらい 
たいした戦もせず現在の四万十川である 歴史で有名な 渡川の戦いで土佐一条氏を倒したまではよかったのですが、
一条氏は親戚でもある長宗我部氏に援軍を申し出ており、後ろから来た長宗我部氏にやられて御本家は、負けてしまいました。
その後は、皆さんの知っている歴史どうりです。
土佐一条氏は、熊野族である御本家に また、熊野信仰にかなり驚いたのでしょう。
この戦の後、キリスト教に回心しています。
御本家は、さすがに公家を倒そうとしたことはまずかったのでしょう。
長宗我部氏が、支配した土佐で 御本(みもと)と同じ意味である三本(みもと)として
名をかえひっそりと暮らしていたのでしょう。
そして、土佐山内氏は、今までのことを知った上で 大庄屋として むかえてもらったようです。
大庄屋となってから、針木城のあった須崎で暮らして、その後志和薬師寺のあった仁井田庄で暮らし
山内家の領土であった黒岩に来ました。
大庄屋は、村長や警察と同じような役職であり 藩主の命令であちこちに飛ばされるので自分の好きな所には
いけないはずであるのに、三本家は好きなところ関連のある所で大庄屋をしています。
それでも、江戸後期には 徳川家の力が無くなったのか大庄屋は分家にゆずり土佐市や久礼に転々と
しています。なぜ徳川家が出てきたのかというと徳川家も源氏の出であるということです。
本当は違いますが。また、土佐藩山内家は誰の おかげで藩主になれたか考えれば三本家にやってきた
ことは、わかるでしょう。
また、武士とは血筋を大事にします。親戚関係にある土佐一条氏を兵力も持たない(一条氏ほど)
長宗我部氏が倒すでしょうか?
今回歴史を調べて解ったことがあります。歴史家とする人は漢文も読めず、書いても無いことを付けたし
素人の僕たちに、これはこうだと ねじふせてきます。
理屈が とうらないことでも今までの歴史書が、こう書いているからといって認めません。
歴史は、所詮人間が作り出してきたことなので、理屈や道理が とうらないことは、おかしいのです。
そんなこともわからない 歴史家が存在すること自体わからない。



3167.Re: 全て解りました
名前:三本一博    日付:2017年3月25日(土) 21時28分
> 志和薬師寺の棟札に御本尊(みもとのみこと)領家領所次第沙汰人と書かれた理由とは、
> 紀州武田の分家である御本家(みもとけ)は熊野本宮大社に仕えており土佐の仁井田庄は、
> 熊野の荘園でありその領家として土佐に渡り志和城主となりました、その時 願主である秦宗重に頼まれ
> 熊野本宮に仕える身である御本家は、棟札に御本尊(みもとのみこと)と書かれたのです。
> その後(江戸後期)に書かれた南路志を書いた著者は、この棟札の写しを見て御本尊の部分を
> 改めて御本家と直したのですが、そのことを知らない歴史家が、写しのほうは御本尊(ごほんぞん)
> と読み意味が解らず 南路志のほうを御本家(ごほんけ)と読みここの近くで力のある土佐一条氏
> あると勘違いし願主の秦宗重を志和城主とし無理やりこじつけて歴史を作ったため土佐一条氏の家来にあたる
> はずの秦氏の名前は家来の名にないのです。御本家(みもとけ)という名前のため歴史じょう 御本家(ごほんけ)
> と読まれその土地の有力者の名前に置き換えられ現代に至っています。
> 事実は 志和城主であった御本師重(太郎)は、志和薬師寺に出家し後に志和氏を名乗っています。
> 御本家を継いだのは御本経重(三郎)です。
> それから、志和氏は 御本家の最初の分家となりました。その後 志和氏を含め窪川氏、西原氏、西氏、東氏
> 土佐の仁井田五人衆となり勢力強めていきます。その証拠に 三重県熊野市紀和町和気に応仁文明の乱に際して
> 畠山義就方として戦った御本西家が存在し御本師房の系だと三重県環境生活部分化振興課県史さん班から連絡が
> ありました。この西家は、長宗我部地検帳に紀州尉として載っています。
> そして、土佐七雄であるはずの津野氏を家来に向かえています、その証拠に津野氏の城 須崎城(140m)を見下ろす
> 位置に針木城(200m)はあり城主は三本六左衛門である。しかしこの三本家歴史じょうまったく無名である。
> 話を もどしますが、この土佐仁井田庄には たたら場(鉄を作る所)が無いにもかかわらずたくさんの鍛冶場があり
> 刀から鉄砲まで作っており かなりの力をつけていました。
> そのため、土佐一条氏を倒すべく久礼の佐竹氏に(同じく源氏の血をひく)協力してもらい 
> たいした戦もせず現在の四万十川である 歴史で有名な 渡川の戦いで土佐一条氏を倒したまではよかったのですが、
> 一条氏は親戚でもある長宗我部氏に援軍を申し出ており、後ろから来た長宗我部氏にやられて御本家は、負けてしまいました。
> その後は、皆さんの知っている歴史どうりです。
> 土佐一条氏は、熊野族である御本家に また、熊野信仰にかなり驚いたのでしょう。
> この戦の後、キリスト教に回心しています。
> 御本家は、さすがに公家を倒そうとしたことはまずかったのでしょう。
> 長宗我部氏が、支配した土佐で 御本(みもと)と同じ意味である三本(みもと)として
> 名をかえひっそりと暮らしていたのでしょう。
> そして、土佐山内氏は、今までのことを知った上で 大庄屋として むかえてもらったようです。
> 大庄屋となってから、針木城のあった須崎で暮らして、その後志和薬師寺のあった仁井田庄で暮らし
> 山内家の領土であった黒岩に来ました。
> 大庄屋は、村長や警察と同じような役職であり 藩主の命令であちこちに飛ばされるので自分の好きな所には
> いけないはずであるのに、三本家は好きなところ関連のある所で大庄屋をしています。
> それでも、江戸後期には 徳川家の力が無くなったのか大庄屋は分家にゆずり土佐市や久礼に転々と
> しています。なぜ徳川家が出てきたのかというと徳川家も源氏の出であるということです。
> 本当は違いますが。また、土佐藩山内家は誰の おかげで藩主になれたか考えれば三本家にやってきた
> ことは、わかるでしょう。
> また、武士とは血筋を大事にします。親戚関係にある土佐一条氏を兵力も持たない(一条氏ほど)
> 長宗我部氏が倒すでしょうか?
> 今回歴史を調べて解ったことがあります。歴史家とする人は漢文も読めず、書いても無いことを付けたし
> 素人の僕たちに、これはこうだと ねじふせてきます。
> 理屈が とうらないことでも今までの歴史書が、こう書いているからといって認めません。
> 歴史は、所詮人間が作り出してきたことなので、理屈や道理が とうらないことは、おかしいのです。
> そんなこともわからない 歴史家が存在すること自体わからない。
訂正します。
長宗我部地検帳に紀州尉ではなく、紀伊守でした。
それと熊野信仰 自体がキリスト教やユダヤ教によく似ている

3162.三つ葉葵について 返信  引用 
名前:匿名    日付:2017年3月10日(金) 23時28分
6、7年前祖母の葬儀の時に、私の母が着ていた、着物の紋が三つ葉葵でした。
当時、わたしは病気でフラフラだったので、かなり大変だったのですが、記憶を辿ると、私が20代の頃に紋の入った喪服の着物を作っていた。その着物を私か妹にやたら着せたがっていた。
今時、喪服に着物なんか着る人なんていないよと、全く私が相手にしていませんでした。亡くなった祖母が、うちの家は凄い家だから胸を張っていい。
親戚の叔母が、私が中学生か高校生の頃に、私が外国の音楽にはまっていて、将来は外国人と結婚するといった時に、お前は◯◯家の名をけがすつもりかと怒鳴られた。
祖母の葬儀の時に、実母になぜそんな水戸黄門と全く同じ紋所の着物を着てるの?と聞いた時に、実母が凄い顔をしていた。
わけが分からなかったので、何処の家も着物はその家紋なんやよな?と聞いたら、違うと叫ばれた。
うちの家は、親戚は立派な人だらけなのですが、うちの家は私をはじめトンデモ一家なので、あり得ないとは思うのですが、最近体調がマシになってきたのと、わたしが闘病で生活保護を受けなければならなくなってしまって、親戚からあり得ないよな扱いを受けてきた事、妹が私が保護を受けている事を、妹の旦那さんやその家族さんに隠していたのですが、妹の結婚以来わたしが全く働いていない事を勘付かれだし、もしかしてと聞かれたらしいです。
もしも、ありえない話しですが、徳川家と何かしら関係があるのなら、親戚の人たち、亡くなった祖母や祖父、先祖に申し訳がないです。
変な話しですが、私が徳川家の末裔、子孫という事はありえる事なのでしょうか?
名字は徳川ではありません。
なにかの情報を掴みたくて、恥を承知でここに書き込ませて頂きました。
どんな、お話し情報でも良いので、察知お分かりになられる方がおられたら情報をお願いします。
かなり稚拙な文章ですが、よろしくお願い致します。



3169.Re: 三つ葉葵について
名前:TW    日付:2017年4月9日(日) 16時57分
貴家の苗字、出身地、菩提寺、家紋(葵紋にも数種有り、家紋の詳細画像)などが分からないので、はっきりしたことは分かりませんが下記のような可能性が考えられるのでは?

1)徳川氏、松平氏、結城氏、賀茂氏などに関係している可能性・・・?
2)前田氏、島津氏、伊達氏、毛利氏、黒田氏、本多氏、池田氏などが徳川家から松平姓や葵紋の使用を許されていた時期が有るので、それらに関係している可能性・・・?
3)功績等により葵紋を拝領した・・・?
4)明治期以降に、勝手に葵紋を使いだした・・・?

など、他にも貴家にしか分からない特殊な事例なども有るかも知れませんが・・・?
墓石の家紋や戸籍などを遡って調べたり、菩提寺、本家などを尋ねれば詳しいことが分かるのではないでしょうか?
先祖供養の意味も兼ねて家系調査をすれば、あなた様の体調や生活なども良い方向へ向って行くのではないでしょうか・・・? あなた様の健康と幸福を願うばかりです・・・ 御参考まで。

3160.姫路の平井氏について 返信  引用 
名前:平井    日付:2017年1月30日(月) 20時33分
高祖父【平井正太郎】は姫路書写の人【高祖母・子孫の話】

明治期 大阪本田二番町で舟具商【人物録あり】

戸籍は保存期間上,大阪時代から前には遡れない。

高祖母【杜川氏】は天満村【揖保郡】出身で代々東酒屋を継いでいた。

杜川氏先祖の資料は市立図書に現存。

もし可能であれば先祖調査を願う。

3159.家系が確かな方にほどDNA検査を勧めたいです 返信  引用 
名前:DNA検査を広めたい人    日付:2017年1月14日(土) 16時26分
初めまして。
私は子供を産めないことから、主人の御先祖様に申し訳ない気持ちに至り、せめて科学的な情報でも残そうと、主人のY染色体DNA検査を実行致しました。

主人の家系は、言い伝え・お寺やお墓・郷土史の文献により確認しましたところ、「戦国時代に由良氏に仕えた武士だが、派閥争いに負けて帰農した」と判明しております。
しかし、南北朝時代に今の土地に土着したと言い伝えられている他、更に前にどのような家系だったのかわかりませんでした。
その疑問が解けたのは、主人のY染色体遺伝子が「中国人特有のもの」であったことです。
そのDNAの特徴と言い伝えなど照らし合わせて出た結果は以下のようなものです。
主人の血筋はおそらく奈良時代辺りに大陸からやってきた新参者だったので、うまく源氏などを名乗る事が出来ず、郷士としてぽっと出てきた感じの経歴になったようです。
西に流れ着き、帝によって異動を命じられた可能性が高い。
郷里を追われたか捨てる覚悟で移住した彼らは、自分達が大陸の外国人だという事を忘れ去ったか隠したかで、子孫には伝えませんでした。
そして、何代の間に力を蓄え、戦国の機に乗じて武士の名乗りをあげました。

そしてこれは私の憶測ですが・・・もっと以前から日本に土着した大陸系の方は、主人の家よりも上手い事出世したかもしれません。
没落した古代日本人の名族に成り代わっている場合もあると思います。
または、実は生粋の縄文人から始めた日本の古代豪族だとされていた一族が、実際は創始者から古代大陸系だったという場合もあると思います。
少し言い方が悪いとは思いますが、すみません。
差別とかではなく、事実が知りたいのです。

本当にしっかりとした家系が判明している方に程、民族的特徴が顕著に現れる男子のY染色体検査をして頂きたいと、お願いしたいと思います。
*更に詳しく科学的に分析出来る、核DNA検査というものも出てきておりますが、それはまだ一般人が受けられるサービスではないので。

ご興味がある方は是非。 
検査キットは通販で買えます。英語ですが・・・。
ナショナルジオグラフジックのGENO2.0NEXT
もしくはFamily treeでの検査が一般的です。

最後に、ここでは「古代からの生粋の日本人=DNAから見て大陸人とは異なる特徴を持つ集団=縄文人」とさせて頂きました。

3156.いちよう書きます 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2016年12月13日(火) 19時54分
四万十町の志和薬師寺は臨済宗 リンザイシュウ 妙心寺派 ミョウシンジハ の寺社であり本尊は、釈迦如来であり
大和薬師寺の本尊は、薬師如来ですので薬師寺が一緒でもまったくちがいます。
私は、名字が 一緒というだけで祖先だと思うほど乱暴な考えはもってません。そんな乱暴な人がいるということを はじめてしりました。
江戸時代は、大庄屋でしたが その時ただの大庄屋でありながら 行きたいところに行き土佐 山内家の小さな領土で 分家でもある深尾家の領土に囲まれた地区で、そこには 豪族片岡氏の家臣で
源氏の出の山本家その後 横畠と名を変えた源氏が住む所であり 隣は平家の里と呼ばれる町もあり 山内氏は ここに源氏の里をつくろうとした痕跡もあり
大庄屋の前は、須崎市で1500石 針木城の城主であったことまで 調べてあります。
そして、今でも三本家の本家として ここに住んでいます。

3154.捜索方法 返信  引用 
名前:奈良県桜井市在住    日付:2016年11月27日(日) 14時51分
私の先祖は、姫路城で「改発」の苗字で武士?か何かで勤めていたらしいのですが、どうやって先祖のルーツを探したら良いのか分からずにいます。。



3155.Re: 捜索方法
名前:小次郎    日付:2016年11月27日(日) 20時5分
改発さん こんばんは

姫路藩には多くの史料が現存しており、すでに書籍化されていますので、それをお調べに
なって下さい。

http://www.library.pref.hyogo.jp/ref/kashin.html

兵庫県史は奈良大学の図書館に全巻開架であります。
私は奈良市の図書情報館も頻繁に利用していましたが、兵庫県史を開架して
ございませんでした。蔵書されているかどうかは、ホームページで検索してください。

個人的には、奈良大学の方が判りやすいと思います。一般に開放されていますので、
受付で申し込み手続きをしてくだされば、即日利用できます。

3153.中世の御本氏へぜひでてきてください。 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2016年11月25日(金) 20時36分
土佐に住む、御本氏の末裔の方、他県に住む御本氏の末裔の方ぜひお話が、
したいです。
いろいろ調べていて、いきずまっています。御本と名前が付く方でもかまいません。
ぜひ、連絡待っています。

3150.追加します 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2016年11月24日(木) 22時25分
源氏の子孫である御本ですが、土佐に住むとありますが、土佐の資料を調べても
どこにもありません。流人が流されてくるような土佐で 中央部から来た左兵衛尉
の位を持ちながら、どこにも記載が ないのは、おかしくないですか?
流人で流されてきた人の、記録はあるのに どこにも、記録がないのは おかしいと思う
のですが



3151.Re: 追加します
名前:小次郎    日付:2016年11月24日(木) 23時12分
三本さんへ

史料が残っていないのが普通です。京都の寺社仏閣だからこそ中世の史料が残っているのです。

過去に私がいくつかレスしたのを読まれたと思いますが、皆さん手順を踏まずに、中世、
近世の同姓著名人の後裔ではないか、それについて何か証拠になるものはないかとご質
問になられます。

貴家の家系を他人が知っている筈はありません。ましてやネットの上だけのお知り合いです。

家系は個人情報そのものです。もし中世の御本氏の後裔がおられたら、貴方が書き込まれ
たことをどう感じられるでしょうか。過日の鳥越俊太郎氏と同じことになりませんか。

判らないものは判らなかったで済ませておきましょう。あとは私のブログを読まれてご判断下さい。

3149.偽りだと思ってもかまいません 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2016年11月24日(木) 22時7分
確かに尊(みこと)読むことは、非常におかしいことです、だからこそ、誰も信じられないことです。
中世の文章では、絶対に出てこないでしょう。中世の文章とは、どこで書かれた文章ですか?この時代
土佐は尊良親王が流人としてくるような場所ですよ、中央部とは、時代遅れでも まったくおかしくな
いと思われます。
また、(さて、この棟札に書かれていることは、ご本尊は御本家・領家の沙汰人によって、(大和
薬師寺より)手配されるという意味です。この場所の御本家・領家は共に大和の薬師寺
であったのでしょう)とありますが、地元では(御本家の志和城主が、建てたことになっています)まったく違う解釈です。
なぜ、同じ言葉で解釈が違うのでしょうか?
それとも、どうとでも解釈ができるのであれば、持論も間違いではないことになります。
あと、誤解かもしれませんが 紀州武田の系図がデタラメでしたら湯川庄司も存在しません。

3147.よみまちがいです。 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2016年11月24日(木) 0時52分
御本尊(みもとのみこと)です。これは、志和物語の写しは忠実に写されたもので(ごほんぞん)
と読まれないように、あえて 南路志で、御本家(みもとけ)としたものです。
志和物語と、南路志は まったく同じ意味であることです。
昔は、偉い人の名前のあとに 尊や命などをつけて(みこと)と呼びました。
あなたの説では、御本尊(ごほんぞん)(寺院などで、礼拝の対象として安置される、最も主要な仏・菩薩 (ぼさつ) 像。画像・曼荼羅 (まんだら) ・名号
などのこともある)、御本家(ごほんんけ)(一族の中心となる血筋の家)であり、どちらも、非常に似た意味なので間違いやすいですが 御本尊(ごほんぞん)
は、モノです、それに対して御本家(ごほんけ)は、ヒトです。
この書物は、どちらも同じことを書いているのですよ、御本尊(ごほんぞん)、御本家(ごほんけ)が同じ意味ですか、ちゃんと調べてからいってください。
(みもとのみこと)(みもとけ)と読めば、どちらも同じことを書いています。
そして、これこそが御本家がきた証です。



3148.Re: よみまちがいです。
名前:小次郎    日付:2016年11月24日(木) 2時27分
お怒りを買ってしまったようで、申し訳ないことです。

彼是45年近く中世の文書を読んでいますが、この時代もそう書くんですね。
初めてお聞きしました。勉強不足で申し訳ないことです。

この掲示板でコメントすると時々お叱りを被ることがあり、注意はしているのですが、甘かったのでしょう。

先日の鳥越俊太郎氏の家系報道問題でここに少し書きましたが、私のブログにももう少し突っ込んで
書いてあります。「家系の遡及」で検索して頂ければ出てきます。
またお叱りを頂戴することになるかもしれませんが、参考になれば幸いです。

3144.証拠をお送りします。 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2016年11月22日(火) 23時58分
Original Size: 749 x 603, 199KB Original Size: 656 x 605, 175KB

まだまだ、これから証拠を集めなければいけませんが、その一部をお送りします。

http://www.eonet.ne.jp/~sensyushi/REKISHI/kisyu/kokujin/yukawakeizu1.html

紀州武田家の系図です。

そして、これが御本家のルーツである 御本明神社です。

http://www.keyspot.info/fudoki/wakemura.html

それに、土佐の南路志の一部と志和物語の一部を添付します。

この年代はどちらも1300年ごろ

棟札は、1335年(建武2年)に薬師寺を建てたときです。



3145.Re: 証拠をお送りします。
名前:小次郎    日付:2016年11月23日(水) 12時42分
今日は 三本さん

早速史料のご添付有難うございました。

ご自分でも気づいておられると思いますが、この棟札の御本尊(ごほんぞん)を御本家
(みもとけ)と読むのは無理です。

建武2年と言えば、鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐天皇による親政が開始された頃で、
中世庄園も新政府の無茶苦茶な論功行賞により、大混乱を起こしていた時です。

拙家が地頭として蟠踞していた場所も、庄園領主であった某寺が地頭職を欲しいと願い
出て、綸旨が出され、新政府誕生について、極めて大きな働きをした遠祖が何の行賞も
なく、反対に地頭職を剝奪された時代です。尤も実力で守り抜いておりますが。・・・・・。

さて、この棟札に書かれていることは、ご本尊は御本家・領家の沙汰人によって、(大和
薬師寺より)手配されるという意味です。この場所の御本家・領家は共に大和の薬師寺
であったのでしょう。

土佐の薬師寺を建立するについて、願主や大工、寄進した方々のお名前が書かれて
いますので、全く異論の余地はございません。

御本氏が沙汰人として建立したと考えることは、私には出来ないです。

それから紀州武田氏の系図ですが、土州に住すというだけで、何処に住まいしたか
までは判りませんよね。
この武田氏は既に紀州で土着しており、「庄司」と称しておりますので、百姓身分です。
尤もこのころは百姓も武装していますから、土豪と言った方が良いかもしれません。

また拙家のことになりますが、同族(同姓)の分家が室町時代後期に土佐へ行ったとの
伝承があります。
室町幕府武家奉行人を出してきた家の一族ですので、土佐の守護細川氏の奉行人
として、請われて行ったようです。

現在の土佐龍馬空港付近に3000貫の領地を貰っていたようで、平城ですが中世の城址
も確認されているようです。

わたしはとてもこちらまで手が回りませんが、機会があれば城址の見学をしたいものだと
思っています。

最後に、家系の遡及は一代づつ丁寧に調べてゆかねばなりません。
貴方が遠祖のご位牌を継承されているのですか?
菩提寺でその位牌と墓石・お寺の過去帳と照合されましたか?

余り先へ一度に飛んでしまうのではなく、ひとつひとつ丁寧に調べてゆかれるのが、
結局は近道だと思います。無理をせずにゆっくり取り組んで下さい。


3146.Re: 証拠をお送りします。
名前:小次郎    日付:2016年11月23日(水) 19時21分
少し訂正します。

この湯川庄司は著名でして、確か太平記にも出てきたと思います。
紀州の御家人として、京都六波羅探題の篝屋守護人も務めていたと思います。

すみません。ここは私の勘違いでした。バリバリの武家です。

3141.全て、事実です。 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2016年11月22日(火) 20時44分
事実だけ、言います。
推測は、言いません 紀州武田の御本家(みもとけ)が、土佐に住むと家系図に載ってます。
そして、四万十町の志和薬師寺の棟札に御本家領家次第沙汰人とはっきりのこされています。
問題は、どこにも記されていない読みなのです、これを(ごほんけりょうけしだいさたにん)
と読んでいることです。



3142.Re: 全て、事実です。
名前:小次郎    日付:2016年11月22日(火) 21時52分
今晩は 三本さん

早速コメント有難うございました。

紀州の系図のことはその通りなんでしょうね。記載されている時代はいつ頃なんでしょうか。
問題は下記とつながるかという事ですね。

荘園制度の中で「沙汰人」というのは色んな場合で使われていまして、一概にこうだと
言い切れないのですが、ご存じのとおり庄園制度は領家・本家・雑掌・沙汰雑掌・荘園の政所
に所属する地元有力者で農政の指導的役割を担った沙汰人もあり、何とも判断しにくい処です。
そのほかに地頭も何か所も領地を持っている場合は、代官を差し向けて庄園経営をしました。
その代官の支配下にある有力農民も沙汰人になっている筈ですし、断定はできないです。

その棟札が掲げられたのは何時代ですか? 何度か建て替えでいるでしょうし、江戸時代になって
からだと、沙汰人がどのような役割を果たしていたのか、私の理解の範疇を超えてしまいます。

歴史学者の読み下しは、地域の歴史をよく知らないで、院生などに読ませて、教授があとで文字
と確認だけすることも多々ありますので、読み違いは良くあることです。

拙家の苗字も古くは塙保己一の時に読み間違えたものが、今日そのまま活字化され、それに基づいて
論文を書かれたりして、困ったことになっています。

他には○○村史が作られた時と県史が作られたときとで、人物の苗字の推定を変えていたりして、
気づいたときは私も困ったことになった・・・・と思いましたが、本人がわかってるからそれ以上荒立てる
必要もないかと、放置していることもあります。

棟札の現物があるでしょうから、それを見せて頂いて、ご自分で読み下し、後は地域の歴史を
こまめに検証してゆかれたら、何か見つかるのではないでしょうかね。

もし、これを「みもとけ」と読むのでしたら、また、江戸期に庄屋をされていたというのなら、県の歴史
研究機関へ出向かれて、江戸期の年貢算用帳など、歴史史料が残っていないか調べられる
ほうが早いと思います。

活字化されていないでしょうから、図書館や資料館で公文書閲覧請求になるかと思います。

県によっては公開していない処もありますので、ご自分で史料の在処を探して下さい。

私は奈良県にいます。県の図書情報館で古文書・明治初期から大正にかけての公文書が公開
されていますので、この10年ほどは史料の点検を続けました。

http://www.library.pref.nara.jp/
http://www2.library.pref.nara.jp/nlmc/
http://opacsvr01.library.pref.nara.jp/mylimedio/search/search-input.do

砂漠の中に落ちている(かもしれない)小さな真珠を探すようなものです。
幸いなことに幾つか見つけましたが、99.99%は空振りです。

長い時間をかけて、コツコツやって下さい。

>そして、四万十町の志和薬師寺の棟札に御本家領家次第沙汰人とはっきりのこされています。
>問題は、どこにも記されていない読みなのです、これを(ごほんけりょうけしだいさたにん)
>と読んでいることです。


3143.Re: 全て、事実です。
名前:小次郎    日付:2016年11月22日(火) 22時49分
ご期待に添えないで申し訳ないのですが、棟札に書かれているものを見ていませんので、
いい加減な推測になりますが、中世の庄園の経営を考えますと、

この棟札が掲げられた時の行事を、御本家(皇室領)と領家(公家・寺社領)の(両方の)沙汰人(庄園の在地支配人・江戸時代でしたら庄屋です)が取り仕切った棟上げ式の次第

本家を山内氏・領家を深尾氏に置き換えますと、理解できないことはありません。

沙汰人まで書いて、名前は書いてないんでしょうか。これもチト不思議な気がします。
苗字がなくて名だけなんでしょうか。その辺を申し少し深く調べられたら如何でしょうか。

3137.いくつか纏めてコメントします 返信  引用 
名前:小次郎    日付:2016年11月17日(木) 21時22分
>片平さんへ

インターネットに書かれていることなんて、長い歴史から見れば僅かなものです。
それに、家系というものは、近日で言う戸籍謄本に当たります。そんな大事なものは
他人に見せるものではありませんので、余程のことがないと公開されていません。

東寺の百合文書がデータベースで公開されています。
これをひとつづつ丁寧に調べて活字化し、その時代の歴史を考察されてきたのが
中世日本史に多いに役立っています。

片平さんの家系は、貴方が伝承されてきた、又、受け継いできた歴史史料によって
考察する以外には、戸籍を探り、墓所を探し、鵜池継いできた位牌をもってお寺へ
行き、過去帳と照らし合わせてもらうしかありません。

努力を惜しんでは出来ないことです。歴史は漫画ではありません。血なまぐさいものです。

>神山さんへ
お尋ねのことは、まさに個人情報そのものにあたると思います。

>本間さんへ
長岡藩は牧野氏が入部されてから明治まで藩主の交代がありませんでしたので、
伝承されてきた佐渡本間氏の一族というのは、納得できるものと考えます。

中世の本間氏は佐渡の領主と言っても良いくらいの実力者でしたので、是非佐渡へ
ゆかれて、本間氏関連の地域を訪ね、史料館や地元の古老にお話を聞かれると
何かでてくるかもしれませんね。

想像ですが、貴方のご先祖は牧野氏入部の時に、人質みたいな形で出仕させられ
ていたと思います。(拙家が似たような形で出仕しています)

何年も掛けて、何度も足を運んでください。在地史料の調査を怠らないようにして下さい。

>三本さんへ
ご論説拝見しました。私は土佐のことはわかりませんが、中世の荘園史は素人乍ら
少し齧っています。
一条家の家卒として土佐へ下り、殿下は京へ帰られたが、ご先祖は土着したという
ことですね。無いことはありませんが、それが本当かどうかは史料がないことには何とも
申し上げられません。また、紀州武田の御本氏の一族が土佐にとのことですが、これ
との関連は推測だけですね。何かございましたのでしょうか。

素人の言う事ですので、以下は適当に流して頂きますようお願いします。

御本(みもと)という名ですぐ思いつくのは、熊野三山「御師」です。
熊野御本宮の本(元)にいたので御本とは考えられませんでしたか。

熊野には中世の史料が少し残っておりますので、調べてみたら如何でしょうか。

何れにせよ、現在の貴方と江戸期の庄屋をしていた家と、ちゃんと祭祀を継続してこら
れているのかどうか、まず、そこからだと思います。

「憶測が憶測を呼ぶ」 私はいつもこのことを心に留めております。
これは過去に大失敗した経験に基づいています。

ご研究が進みますよう、願っております。

3136.わすれられた、源氏 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2016年11月15日(火) 14時44分
本家とされる、当家 三本家の伝説として一条家と一緒に この土佐に来たと残っているのだ、そこで子供のころから先祖に興味がありこの歳になりインターネットや市史 町史などで調べ 間違った憶測などをしてようやく事実にたどり着いたと思ったら、現在の歴史の認識が間違っているのだ。
当家は、大庄屋であり現 須崎市の針木城の城主であったところまでは行き着くのだが、由緒正しい豪族となっている。ただそれなら、一条公と一緒に来たという伝説はなんなのかと思い継続して調べてみると 一つ面白いことが浮かび上がってきたのだ。
紀州武田の御本家が、浮かび上がってきたのだ。そしてこの、御本家(みもとけ)のルーツだと思われる三重県 和気村御本明神社がでて、これを調べると御本は、三本とも書くと でているではないですか。
また紀州武田家の系図を見ると、御本家の二代目 師親が土佐に住むとあり この時代荘園制度によって役人などが地方に行っています。このことから土佐に移ってきたことは、間違いないと思うのですが土佐の資料を見ても最初は ありませんでしたが、現 四万十町志和薬師寺の棟札に
御本家領家次第沙汰人とはっきりあるのだが、(ごほんけりょうけしだいさたにん)と読まれて誰のことだかわからないことになっている。また、別の書物には棟札の写しとして残っているのだが それには、御本尊領家次第沙汰人(ごほんぞん―)と読まれて誤写扱いである。その昔偉い人名前の後ろに、
という尊 命などを付け(みこと)ということを、考えれば (みもとけ)(みもとみこと)と読めるはずですが、なにぶんこの御本家は特に歴史にでず、御本明神社の禁殺生が、家訓なら武士としては致命傷でしょう。700年たった今でも読まれない御本から三本に変わったのではないでしょうか?
また、大庄屋になってからもあまり転々とせず好きなところを代わっていったようなところが、みうけられ当の三本家の本家が住んでいるところは(平家の里)と呼ばれる場所のすぐ隣にあり、ここには源氏の末裔と呼ばれる家があり土佐藩山内家の家臣 深尾家の領地に囲まれながら山内家の領地で
あったことを ふまえれば山内家はここに 源氏の里を作ろうとしたのではないかと憶測だが思う。そして、その山内家が江戸時代の間ずっと治めてこれた証の一つではないだろうか?
長々とお付き合いありがとうございます。

3135.家紋について 返信  引用 
名前:本間昭一    日付:2016年10月24日(月) 12時56分
私の祖祖父は長岡藩士、本間万五郎重顕で、菩提寺は長岡市神田の安善寺です。当家の家紋は小さいマス目が十六個、四角に縦横に並んだものですが、最近,この紋には四角が菱形状に立ったものや円で囲んだものもあると知りました。当家の正しい家紋は、本当はどの様なものなのか、又、その謂れの様なものが分かればご教示を頂きたく、よろしくお願いいたします。更に、当家先祖が長岡藩に仕える以前は佐渡島の河原田本間と称していたとの聞き伝えがありますが、その信憑性につきましても、ご教示を頂けたらと思っています。突然の面倒なお願いで誠に恐縮ですが、重ねてよろしくお願いを申し上げます。す。 

3134.コワダ家の系図 返信  引用 
名前:神山    日付:2016年9月16日(金) 23時20分
小和田と書いてコワダと読む。今の皇太子妃の小和田とは字は同じながら読みが違う。この家は明治から昭和にかけて東京都墨田区立川にあった。当時は本所区林町の名で登場。小和田金八−鎌太郎ー辰三郎と続いたが、末代は戦地から復員後にマラリアで死亡して家は絶家。元の家業はメリヤス工場主というが、人名事典などには登場しない。空襲で戸籍が焼け、金八の前を知りたいが、わからない。情報を求める。

3132.インターネットによる先祖を探す事の難しさについて。 返信  引用 
名前:片平記央    日付:2016年8月16日(火) 6時21分
GoogleやYahoo!では、ありとあらゆる情報を提供しており、例えば、テレビドラマや漫画のセリフを入力しただけで、そのドラマや漫画のタイトルが検索結果として出て来る程です。ところが、実在した過去の人物、都道府県立の図書館には、はっきりと名前が出ている人物も、GoogleやYahoo!では出て来ません。これは何故なのでしょうか。その為インターネットで先祖を探すのに非常に苦労しています。どなたかお詳しい方がおられましたら御教示下さい。

3131.(untitled) 返信  引用 
名前:玉矛の道しるべ    日付:2016年6月25日(土) 21時26分
長い歴史と伝統を誇る日本は
それぞれの家にそれぞれの長い歴史がある
長い歴史を紡いでいる家にはそれなりの権威(磁力)があった

しかし日本は戦争に負け
CHQの反日占領政策によって
日本に誇りの持たない先祖も郷土も
大事にしない日本人を大量に作ってしまった

今じゃ家族葬が流行し
葬儀でもぜんぜん人が人が集まらない

家族は小さな国家
先祖に誇りを持てない家族は
いずればらばらになって流浪する

小さな国家が無くなれば
いづれ大きな国家
日本も滅びる
それに気づいた人達は自分の先祖がだれなのか調べた方がいい
日本を取り戻す為に


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