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家系研究協議会掲示板

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3202.オメガスーパーコピーN級品 返信  引用 
名前:オメガスーパーコピーN級品    日付:2018年7月26日(木) 20時38分
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3201.なぜか優秀 返信  引用 
名前:匿名TTT    日付:2018年6月27日(水) 19時16分
父方は、広島県の豪族で毛利元就に仕えていたようです。
母方が茨城の士族と群馬の士族だったようです。
母方は、医者・中学校の教員などなどで、
父方は、医者・大学教授・歯医者・会社経営者・三菱商事勤務者
などなど、なぜか優秀です。
 わたしも、会社経営者です。社員はいませんが。 
 なぜ、起業しようと思ったかというと、ご先祖のことを知ったり
自分の身に起こる不運が、いつの間にか幸運に転嫁したりすること
が多いからです。
 

3200.(untitled) 返信  引用 
名前:小次郎    日付:2018年6月23日(土) 12時35分
ご無沙汰しています。
「家系を調べたい方へ」という駄文をアップしておきましたので、ご一読下さい。
google で検索しますと7番目くらいに出てきます。

3199.加賀江沼志稿巻12の日谷村について 返信  引用 
名前:河端信男    日付:2018年6月21日(木) 15時4分
村里・城西村村16村。〇日谷 府城ヨリ一里八丁 53軒家数、185人内96人男高持、25人内17人男無高、18疋馬、鍬91。
この当時人名は知る事が出来ますか教えた下さい。日谷村吉郎右衛門江戸病死(1840年)高祖父名

3198.長留の地名について 返信  引用 
名前:山邉尚幸    日付:2018年6月7日(木) 17時31分
長留の地名を調べています。『日本姓氏語源辞典』に「ナガトメ 長留 
鹿児島県・山口県・愛知県。永留姓あり。鹿児島県伊佐市の
菱刈(旧:長留名)は室町時代に記録のある地名。」とありました。
伊佐市菱刈は旧長留名で、室町時代ら記録があることですが、いろいろ
探しましたが、具体的な記録がなんなのかわかりません。ご存知の方
がおられましたら、教えていただけないでしょうか。

3197.薩摩 寺尾氏 返信  引用 
名前:能川和幸    日付:2018年5月16日(水) 9時58分
Original Size: 1166 x 649, 82KB

亡母の家系を知りたく、お便りします。
母は鹿児島県出身でで、生前「武士の家系で平氏だった。」といっておりました。渋谷五宗の入来院の流れを汲んでいるのではと思いますが。
ちなみに母方の祖母は天文館初代館長の水阯ヌ実の孫です。


3196.垪和氏!竹内氏! 返信  引用 
名前:垪和竹内    日付:2018年5月8日(火) 12時16分
僕は垪和に住んでいる者です。垪和もしくは垪和氏、竹内氏の縁がある方とお話しがしたいです。

3194.家系研究への投稿について。 返信  引用 
名前:市川@武州荒木    日付:2018年5月4日(金) 17時50分
当会会員No.153の市川です。

去年から今年の前半は、故親父の七回忌などもあり、仕事も多忙でしたので、何も出来なかったのですが、漸く時間に余裕が出来て来たので、これまで調べたことを纏めて、当会の会誌である家系研究に発表させて頂こうと思っております。

基本的には、国会図書館所蔵の青木家譜系図ならびに八代家系譜並びに故中倉茂氏からご提供頂いた甲斐源氏系譜から、甲斐市川氏の市川行房の真系が源義清ー方原師光ー市川行光ー市川行房であることを論証し、覚義系市川氏の系図については、古代氏族研究会のホームページで、真野信治さんが公開された系図の原史料は、国会図書館所蔵の本朝武家諸姓分脈系図には、曽根氏関係の系譜には、覚義系市川氏の記述はなく、あとは静嘉堂文庫の百家系図稿全冊を精査する以外ないので、6月に、静嘉堂文庫にて調査させて頂こうと思っています。それで確認出来ない場合は、真野信治さんの書き込みでは、当会会長でもあられる宝賀寿男先生がご存知であるとのことなので、今年の東京例会に参加させて頂き、宝賀先生がご出席ならば、直接、お話をお聞きしたいと存じております。

つきまして次号への投稿の原稿締め切り日と、四百字詰めの原稿用紙で、何枚程に纏めればよろしいかご教示下さい。



3195.Re: 家系研究への投稿について。
名前:市川@武州荒木    日付:2018年5月4日(金) 18時6分
表門神社の宮司家の市川家文書についてですが、2014年にお伺いして、お聞きしましたところ、かつて膨大な量の古文書が存在したが、昭和時代、東京大学教授を名乗る人物が来て、貸して欲しいとのことで、信用して貸し出したところ、返却されず、現在に至っているとのこと。宮司家伝来の古文書は、山梨県の重要な歴史史料として、文化財級の価値があり、信濃市川氏文書に匹敵するものと思われ、所持者は1日も早く宮司家に返却され、山梨県などの専門機関により翻刻され、山梨県民ないし市民の共有遺産として、山梨県の歴史研究に活用されるよう祈っております。

3193.家系の事で教えていただけますか? 返信  引用 
名前:河端 信男    日付:2018年2月9日(金) 17時51分
先日お世話に成つた会員の216の河端です。よろしければお願いします。

3187.訪ね人 返信  引用 
名前:堀丈次郎の生い立ちと家族歴    日付:2017年11月1日(水) 13時54分
私は丈次郎の孫です。

3186.(untitled) 返信  引用 
名前:野村庄右衞門    日付:2017年10月13日(金) 22時16分
初めて書き込みさせていただきます

私の父は婿養子で来ているのですが、父方の男系を辿ると外波山(とばやま)という名字になります。かなり珍しい名字のようで、静岡県浜松市の寺脇町に集中しているようです。菩提寺(臨済宗妙心寺派寶圓寺)もその町にあります。何かヒントがないかと問い合わせると、外波山氏の大本家の六右衛門という人物がそのお寺を開基建立したとのことでした。しかし、わかったのはそこまでで外波山姓の由来や発祥はわかりませんでした。同じ読みで鳥羽山姓も同じ町にあるようで、多分同じ一族ではと思っています。また、浜松市には鳥羽山公園という場所がありかつて鳥羽山城(二俣城の関連)もあったようです。図書館等で調べてみるものの関連を見つけることができず、名字の由来発祥もわかりません。外波山家の家紋は組井桁です。井伊谷もそう遠くない場所なので井伊氏との関連もあるのか?と想像したりもします。

どんな小さな情報でも構いませんので、ご教示願えますでしょうか?

よろしくお願い致します。

3185.備中松山藩士菅沼家について 返信  引用 
名前:俊弘    日付:2017年9月29日(金) 23時23分
私は備中松山藩士菅沼家の末裔です。
備中松山藩の前は伊勢亀山藩にいたところまでは身内から聞かされているので分かるのですが、それ以前が知りたくて質問させて戴きます。
膳所藩士に繋がっているのかどうか知りたいです。家紋は丸に隅立ち四ツ目です。
菅沼家で検索すると菅沼俊弘という名の方が実在したので、とても興味があります。
もし分かればでいいのでお調べ下さいませ。

3168.歴史の間違い 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2017年4月8日(土) 16時41分
歴史の間違いを本家である私が正さず誰が正してくれるというのだろうか?

3166.棟札の証拠を出してください 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2017年3月22日(水) 20時25分
棟札に、檀那である名前が無く役職名だけが 書いてある、棟札があるならば
ぜひ見せてください。

3165.棟札の読み方 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2017年3月19日(日) 22時8分
棟札の定義
沼田頼輔は、『棟札とは神社仏閣その他建築物を建築物を建立もしくは修繕したる時、その事柄を後世に記念せんがために、
その建立もしくは工事に与かりし人々の氏名及び建立の成りし年月日等を木札もしくは銅版に記して、これを棟及び梁に釘付
としたるものをいう。然れども右の如く木札若しくは銅板に記さずして、直接に棟梁に記せるものもあり』(『考古学雑誌』
第八巻第七号、現代文に改めた)と定義している。
『国史大辞典』(吉川弘文館)には、『上棟式のとき、建物名・願主・工匠名・上棟年月日など書いて、棟木に打ちつけた板。
新築に限らず、大修理・屋根替の時にも造られる。古くは棟木の下面に直接書いた棟木銘が多いが、鎌倉時代の中ごろ以後は
棟札がふえ、南北朝時代以後はほとんど棟札となる』(大田博太郎執筆)と書いて増す。
また、『棟札の研究』(水藤 真 著)を 読んでもらえれば解ると思いますが、沙汰人や檀那に当たる人の名前が無く役職名
だけの棟札など存在しません。まして、役職名に(御)を付けるなど おかしいです、なぜ 領家は、御領家と、しないのですか。
また、高知の歴史家は、願主を檀那 扱いにしています。このように、棟札のことを知らない人が あーだこーだと歴史のことを
いっています。
本家(ほんけ)と書きたいならば、〇〇〇本家△△△領家次第沙汰人というように名前を書いてから役職名を書くのです。
こんなことも知らない人が、(ろくに調べもせずに家系詐称した)鳥越俊太郎氏、ろくに調べもせずでたらめな知識で私を否定する
あなたと どこが違うのですか?

3163.全て解りました 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2017年3月11日(土) 23時36分
志和薬師寺の棟札に御本尊(みもとのみこと)領家領所次第沙汰人と書かれた理由とは、
紀州武田の分家である御本家(みもとけ)は熊野本宮大社に仕えており土佐の仁井田庄は、
熊野の荘園でありその領家として土佐に渡り志和城主となりました、その時 願主である秦宗重に頼まれ
熊野本宮に仕える身である御本家は、棟札に御本尊(みもとのみこと)と書かれたのです。
その後(江戸後期)に書かれた南路志を書いた著者は、この棟札の写しを見て御本尊の部分を
改めて御本家と直したのですが、そのことを知らない歴史家が、写しのほうは御本尊(ごほんぞん)
と読み意味が解らず 南路志のほうを御本家(ごほんけ)と読みここの近くで力のある土佐一条氏
あると勘違いし願主の秦宗重を志和城主とし無理やりこじつけて歴史を作ったため土佐一条氏の家来にあたる
はずの秦氏の名前は家来の名にないのです。御本家(みもとけ)という名前のため歴史じょう 御本家(ごほんけ)
と読まれその土地の有力者の名前に置き換えられ現代に至っています。
事実は 志和城主であった御本師重(太郎)は、志和薬師寺に出家し後に志和氏を名乗っています。
御本家を継いだのは御本経重(三郎)です。
それから、志和氏は 御本家の最初の分家となりました。その後 志和氏を含め窪川氏、西原氏、西氏、東氏
土佐の仁井田五人衆となり勢力強めていきます。その証拠に 三重県熊野市紀和町和気に応仁文明の乱に際して
畠山義就方として戦った御本西家が存在し御本師房の系だと三重県環境生活部分化振興課県史さん班から連絡が
ありました。この西家は、長宗我部地検帳に紀州尉として載っています。
そして、土佐七雄であるはずの津野氏を家来に向かえています、その証拠に津野氏の城 須崎城(140m)を見下ろす
位置に針木城(200m)はあり城主は三本六左衛門である。しかしこの三本家歴史じょうまったく無名である。
話を もどしますが、この土佐仁井田庄には たたら場(鉄を作る所)が無いにもかかわらずたくさんの鍛冶場があり
刀から鉄砲まで作っており かなりの力をつけていました。
そのため、土佐一条氏を倒すべく久礼の佐竹氏に(同じく源氏の血をひく)協力してもらい 
たいした戦もせず現在の四万十川である 歴史で有名な 渡川の戦いで土佐一条氏を倒したまではよかったのですが、
一条氏は親戚でもある長宗我部氏に援軍を申し出ており、後ろから来た長宗我部氏にやられて御本家は、負けてしまいました。
その後は、皆さんの知っている歴史どうりです。
土佐一条氏は、熊野族である御本家に また、熊野信仰にかなり驚いたのでしょう。
この戦の後、キリスト教に回心しています。
御本家は、さすがに公家を倒そうとしたことはまずかったのでしょう。
長宗我部氏が、支配した土佐で 御本(みもと)と同じ意味である三本(みもと)として
名をかえひっそりと暮らしていたのでしょう。
そして、土佐山内氏は、今までのことを知った上で 大庄屋として むかえてもらったようです。
大庄屋となってから、針木城のあった須崎で暮らして、その後志和薬師寺のあった仁井田庄で暮らし
山内家の領土であった黒岩に来ました。
大庄屋は、村長や警察と同じような役職であり 藩主の命令であちこちに飛ばされるので自分の好きな所には
いけないはずであるのに、三本家は好きなところ関連のある所で大庄屋をしています。
それでも、江戸後期には 徳川家の力が無くなったのか大庄屋は分家にゆずり土佐市や久礼に転々と
しています。なぜ徳川家が出てきたのかというと徳川家も源氏の出であるということです。
本当は違いますが。また、土佐藩山内家は誰の おかげで藩主になれたか考えれば三本家にやってきた
ことは、わかるでしょう。
また、武士とは血筋を大事にします。親戚関係にある土佐一条氏を兵力も持たない(一条氏ほど)
長宗我部氏が倒すでしょうか?
今回歴史を調べて解ったことがあります。歴史家とする人は漢文も読めず、書いても無いことを付けたし
素人の僕たちに、これはこうだと ねじふせてきます。
理屈が とうらないことでも今までの歴史書が、こう書いているからといって認めません。
歴史は、所詮人間が作り出してきたことなので、理屈や道理が とうらないことは、おかしいのです。
そんなこともわからない 歴史家が存在すること自体わからない。



3167.Re: 全て解りました
名前:三本一博    日付:2017年3月25日(土) 21時28分
> 志和薬師寺の棟札に御本尊(みもとのみこと)領家領所次第沙汰人と書かれた理由とは、
> 紀州武田の分家である御本家(みもとけ)は熊野本宮大社に仕えており土佐の仁井田庄は、
> 熊野の荘園でありその領家として土佐に渡り志和城主となりました、その時 願主である秦宗重に頼まれ
> 熊野本宮に仕える身である御本家は、棟札に御本尊(みもとのみこと)と書かれたのです。
> その後(江戸後期)に書かれた南路志を書いた著者は、この棟札の写しを見て御本尊の部分を
> 改めて御本家と直したのですが、そのことを知らない歴史家が、写しのほうは御本尊(ごほんぞん)
> と読み意味が解らず 南路志のほうを御本家(ごほんけ)と読みここの近くで力のある土佐一条氏
> あると勘違いし願主の秦宗重を志和城主とし無理やりこじつけて歴史を作ったため土佐一条氏の家来にあたる
> はずの秦氏の名前は家来の名にないのです。御本家(みもとけ)という名前のため歴史じょう 御本家(ごほんけ)
> と読まれその土地の有力者の名前に置き換えられ現代に至っています。
> 事実は 志和城主であった御本師重(太郎)は、志和薬師寺に出家し後に志和氏を名乗っています。
> 御本家を継いだのは御本経重(三郎)です。
> それから、志和氏は 御本家の最初の分家となりました。その後 志和氏を含め窪川氏、西原氏、西氏、東氏
> 土佐の仁井田五人衆となり勢力強めていきます。その証拠に 三重県熊野市紀和町和気に応仁文明の乱に際して
> 畠山義就方として戦った御本西家が存在し御本師房の系だと三重県環境生活部分化振興課県史さん班から連絡が
> ありました。この西家は、長宗我部地検帳に紀州尉として載っています。
> そして、土佐七雄であるはずの津野氏を家来に向かえています、その証拠に津野氏の城 須崎城(140m)を見下ろす
> 位置に針木城(200m)はあり城主は三本六左衛門である。しかしこの三本家歴史じょうまったく無名である。
> 話を もどしますが、この土佐仁井田庄には たたら場(鉄を作る所)が無いにもかかわらずたくさんの鍛冶場があり
> 刀から鉄砲まで作っており かなりの力をつけていました。
> そのため、土佐一条氏を倒すべく久礼の佐竹氏に(同じく源氏の血をひく)協力してもらい 
> たいした戦もせず現在の四万十川である 歴史で有名な 渡川の戦いで土佐一条氏を倒したまではよかったのですが、
> 一条氏は親戚でもある長宗我部氏に援軍を申し出ており、後ろから来た長宗我部氏にやられて御本家は、負けてしまいました。
> その後は、皆さんの知っている歴史どうりです。
> 土佐一条氏は、熊野族である御本家に また、熊野信仰にかなり驚いたのでしょう。
> この戦の後、キリスト教に回心しています。
> 御本家は、さすがに公家を倒そうとしたことはまずかったのでしょう。
> 長宗我部氏が、支配した土佐で 御本(みもと)と同じ意味である三本(みもと)として
> 名をかえひっそりと暮らしていたのでしょう。
> そして、土佐山内氏は、今までのことを知った上で 大庄屋として むかえてもらったようです。
> 大庄屋となってから、針木城のあった須崎で暮らして、その後志和薬師寺のあった仁井田庄で暮らし
> 山内家の領土であった黒岩に来ました。
> 大庄屋は、村長や警察と同じような役職であり 藩主の命令であちこちに飛ばされるので自分の好きな所には
> いけないはずであるのに、三本家は好きなところ関連のある所で大庄屋をしています。
> それでも、江戸後期には 徳川家の力が無くなったのか大庄屋は分家にゆずり土佐市や久礼に転々と
> しています。なぜ徳川家が出てきたのかというと徳川家も源氏の出であるということです。
> 本当は違いますが。また、土佐藩山内家は誰の おかげで藩主になれたか考えれば三本家にやってきた
> ことは、わかるでしょう。
> また、武士とは血筋を大事にします。親戚関係にある土佐一条氏を兵力も持たない(一条氏ほど)
> 長宗我部氏が倒すでしょうか?
> 今回歴史を調べて解ったことがあります。歴史家とする人は漢文も読めず、書いても無いことを付けたし
> 素人の僕たちに、これはこうだと ねじふせてきます。
> 理屈が とうらないことでも今までの歴史書が、こう書いているからといって認めません。
> 歴史は、所詮人間が作り出してきたことなので、理屈や道理が とうらないことは、おかしいのです。
> そんなこともわからない 歴史家が存在すること自体わからない。
訂正します。
長宗我部地検帳に紀州尉ではなく、紀伊守でした。
それと熊野信仰 自体がキリスト教やユダヤ教によく似ている

3162.三つ葉葵について 返信  引用 
名前:匿名    日付:2017年3月10日(金) 23時28分
6、7年前祖母の葬儀の時に、私の母が着ていた、着物の紋が三つ葉葵でした。
当時、わたしは病気でフラフラだったので、かなり大変だったのですが、記憶を辿ると、私が20代の頃に紋の入った喪服の着物を作っていた。その着物を私か妹にやたら着せたがっていた。
今時、喪服に着物なんか着る人なんていないよと、全く私が相手にしていませんでした。亡くなった祖母が、うちの家は凄い家だから胸を張っていい。
親戚の叔母が、私が中学生か高校生の頃に、私が外国の音楽にはまっていて、将来は外国人と結婚するといった時に、お前は◯◯家の名をけがすつもりかと怒鳴られた。
祖母の葬儀の時に、実母になぜそんな水戸黄門と全く同じ紋所の着物を着てるの?と聞いた時に、実母が凄い顔をしていた。
わけが分からなかったので、何処の家も着物はその家紋なんやよな?と聞いたら、違うと叫ばれた。
うちの家は、親戚は立派な人だらけなのですが、うちの家は私をはじめトンデモ一家なので、あり得ないとは思うのですが、最近体調がマシになってきたのと、わたしが闘病で生活保護を受けなければならなくなってしまって、親戚からあり得ないよな扱いを受けてきた事、妹が私が保護を受けている事を、妹の旦那さんやその家族さんに隠していたのですが、妹の結婚以来わたしが全く働いていない事を勘付かれだし、もしかしてと聞かれたらしいです。
もしも、ありえない話しですが、徳川家と何かしら関係があるのなら、親戚の人たち、亡くなった祖母や祖父、先祖に申し訳がないです。
変な話しですが、私が徳川家の末裔、子孫という事はありえる事なのでしょうか?
名字は徳川ではありません。
なにかの情報を掴みたくて、恥を承知でここに書き込ませて頂きました。
どんな、お話し情報でも良いので、察知お分かりになられる方がおられたら情報をお願いします。
かなり稚拙な文章ですが、よろしくお願い致します。



3169.Re: 三つ葉葵について
名前:TW    日付:2017年4月9日(日) 16時57分
貴家の苗字、出身地、菩提寺、家紋(葵紋にも数種有り、家紋の詳細画像)などが分からないので、はっきりしたことは分かりませんが下記のような可能性が考えられるのでは?

1)徳川氏、松平氏、結城氏、賀茂氏などに関係している可能性・・・?
2)前田氏、島津氏、伊達氏、毛利氏、黒田氏、本多氏、池田氏などが徳川家から松平姓や葵紋の使用を許されていた時期が有るので、それらに関係している可能性・・・?
3)功績等により葵紋を拝領した・・・?
4)明治期以降に、勝手に葵紋を使いだした・・・?

など、他にも貴家にしか分からない特殊な事例なども有るかも知れませんが・・・?
墓石の家紋や戸籍などを遡って調べたり、菩提寺、本家などを尋ねれば詳しいことが分かるのではないでしょうか?
先祖供養の意味も兼ねて家系調査をすれば、あなた様の体調や生活なども良い方向へ向って行くのではないでしょうか・・・? あなた様の健康と幸福を願うばかりです・・・ 御参考まで。

3160.姫路の平井氏について 返信  引用 
名前:平井    日付:2017年1月30日(月) 20時33分
高祖父【平井正太郎】は姫路書写の人【高祖母・子孫の話】

明治期 大阪本田二番町で舟具商【人物録あり】

戸籍は保存期間上,大阪時代から前には遡れない。

高祖母【杜川氏】は天満村【揖保郡】出身で代々東酒屋を継いでいた。

杜川氏先祖の資料は市立図書に現存。

もし可能であれば先祖調査を願う。

3159.家系が確かな方にほどDNA検査を勧めたいです 返信  引用 
名前:DNA検査を広めたい人    日付:2017年1月14日(土) 16時26分
初めまして。
私は子供を産めないことから、主人の御先祖様に申し訳ない気持ちに至り、せめて科学的な情報でも残そうと、主人のY染色体DNA検査を実行致しました。

主人の家系は、言い伝え・お寺やお墓・郷土史の文献により確認しましたところ、「戦国時代に由良氏に仕えた武士だが、派閥争いに負けて帰農した」と判明しております。
しかし、南北朝時代に今の土地に土着したと言い伝えられている他、更に前にどのような家系だったのかわかりませんでした。
その疑問が解けたのは、主人のY染色体遺伝子が「中国人特有のもの」であったことです。
そのDNAの特徴と言い伝えなど照らし合わせて出た結果は以下のようなものです。
主人の血筋はおそらく奈良時代辺りに大陸からやってきた新参者だったので、うまく源氏などを名乗る事が出来ず、郷士としてぽっと出てきた感じの経歴になったようです。
西に流れ着き、帝によって異動を命じられた可能性が高い。
郷里を追われたか捨てる覚悟で移住した彼らは、自分達が大陸の外国人だという事を忘れ去ったか隠したかで、子孫には伝えませんでした。
そして、何代の間に力を蓄え、戦国の機に乗じて武士の名乗りをあげました。

そしてこれは私の憶測ですが・・・もっと以前から日本に土着した大陸系の方は、主人の家よりも上手い事出世したかもしれません。
没落した古代日本人の名族に成り代わっている場合もあると思います。
または、実は生粋の縄文人から始めた日本の古代豪族だとされていた一族が、実際は創始者から古代大陸系だったという場合もあると思います。
少し言い方が悪いとは思いますが、すみません。
差別とかではなく、事実が知りたいのです。

本当にしっかりとした家系が判明している方に程、民族的特徴が顕著に現れる男子のY染色体検査をして頂きたいと、お願いしたいと思います。
*更に詳しく科学的に分析出来る、核DNA検査というものも出てきておりますが、それはまだ一般人が受けられるサービスではないので。

ご興味がある方は是非。 
検査キットは通販で買えます。英語ですが・・・。
ナショナルジオグラフジックのGENO2.0NEXT
もしくはFamily treeでの検査が一般的です。

最後に、ここでは「古代からの生粋の日本人=DNAから見て大陸人とは異なる特徴を持つ集団=縄文人」とさせて頂きました。

3156.いちよう書きます 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2016年12月13日(火) 19時54分
四万十町の志和薬師寺は臨済宗 リンザイシュウ 妙心寺派 ミョウシンジハ の寺社であり本尊は、釈迦如来であり
大和薬師寺の本尊は、薬師如来ですので薬師寺が一緒でもまったくちがいます。
私は、名字が 一緒というだけで祖先だと思うほど乱暴な考えはもってません。そんな乱暴な人がいるということを はじめてしりました。
江戸時代は、大庄屋でしたが その時ただの大庄屋でありながら 行きたいところに行き土佐 山内家の小さな領土で 分家でもある深尾家の領土に囲まれた地区で、そこには 豪族片岡氏の家臣で
源氏の出の山本家その後 横畠と名を変えた源氏が住む所であり 隣は平家の里と呼ばれる町もあり 山内氏は ここに源氏の里をつくろうとした痕跡もあり
大庄屋の前は、須崎市で1500石 針木城の城主であったことまで 調べてあります。
そして、今でも三本家の本家として ここに住んでいます。

3154.捜索方法 返信  引用 
名前:奈良県桜井市在住    日付:2016年11月27日(日) 14時51分
私の先祖は、姫路城で「改発」の苗字で武士?か何かで勤めていたらしいのですが、どうやって先祖のルーツを探したら良いのか分からずにいます。。



3155.Re: 捜索方法
名前:小次郎    日付:2016年11月27日(日) 20時5分
改発さん こんばんは

姫路藩には多くの史料が現存しており、すでに書籍化されていますので、それをお調べに
なって下さい。

http://www.library.pref.hyogo.jp/ref/kashin.html

兵庫県史は奈良大学の図書館に全巻開架であります。
私は奈良市の図書情報館も頻繁に利用していましたが、兵庫県史を開架して
ございませんでした。蔵書されているかどうかは、ホームページで検索してください。

個人的には、奈良大学の方が判りやすいと思います。一般に開放されていますので、
受付で申し込み手続きをしてくだされば、即日利用できます。

3153.中世の御本氏へぜひでてきてください。 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2016年11月25日(金) 20時36分
土佐に住む、御本氏の末裔の方、他県に住む御本氏の末裔の方ぜひお話が、
したいです。
いろいろ調べていて、いきずまっています。御本と名前が付く方でもかまいません。
ぜひ、連絡待っています。

3150.追加します 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2016年11月24日(木) 22時25分
源氏の子孫である御本ですが、土佐に住むとありますが、土佐の資料を調べても
どこにもありません。流人が流されてくるような土佐で 中央部から来た左兵衛尉
の位を持ちながら、どこにも記載が ないのは、おかしくないですか?
流人で流されてきた人の、記録はあるのに どこにも、記録がないのは おかしいと思う
のですが



3151.Re: 追加します
名前:小次郎    日付:2016年11月24日(木) 23時12分
三本さんへ

史料が残っていないのが普通です。京都の寺社仏閣だからこそ中世の史料が残っているのです。

過去に私がいくつかレスしたのを読まれたと思いますが、皆さん手順を踏まずに、中世、
近世の同姓著名人の後裔ではないか、それについて何か証拠になるものはないかとご質
問になられます。

貴家の家系を他人が知っている筈はありません。ましてやネットの上だけのお知り合いです。

家系は個人情報そのものです。もし中世の御本氏の後裔がおられたら、貴方が書き込まれ
たことをどう感じられるでしょうか。過日の鳥越俊太郎氏と同じことになりませんか。

判らないものは判らなかったで済ませておきましょう。あとは私のブログを読まれてご判断下さい。

3149.偽りだと思ってもかまいません 返信  引用 
名前:三本一博    日付:2016年11月24日(木) 22時7分
確かに尊(みこと)読むことは、非常におかしいことです、だからこそ、誰も信じられないことです。
中世の文章では、絶対に出てこないでしょう。中世の文章とは、どこで書かれた文章ですか?この時代
土佐は尊良親王が流人としてくるような場所ですよ、中央部とは、時代遅れでも まったくおかしくな
いと思われます。
また、(さて、この棟札に書かれていることは、ご本尊は御本家・領家の沙汰人によって、(大和
薬師寺より)手配されるという意味です。この場所の御本家・領家は共に大和の薬師寺
であったのでしょう)とありますが、地元では(御本家の志和城主が、建てたことになっています)まったく違う解釈です。
なぜ、同じ言葉で解釈が違うのでしょうか?
それとも、どうとでも解釈ができるのであれば、持論も間違いではないことになります。
あと、誤解かもしれませんが 紀州武田の系図がデタラメでしたら湯川庄司も存在しません。


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