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17世日精は「造仏読誦」論者
日蓮正宗に「金口嫡々唯授一人血脈相承」は存在するのか?「本門戒壇の大御本尊」は本物か! 「二箇相承」は本物か? 「日興跡条々事」も本物か? 日目から日道の血脈相承はあったのか? 日蓮正宗宗規第二条は本当なのか!日蓮正宗の金口唯授一人血脈相承に、己義を改めさせる威力なし!

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163.17世日精は謗法法主  
名前:宿坊    日付:9月29日(木) 23時49分
もっとも、今回、法主日精の謗法が立証されたのであるから、その必要もなかろう。

宗門は偽りの歴史と、ご都合主義的法主信仰を以って日亨上人を愚弄し、創価学会を誹謗し、哀れな法華講員を欺いてきたことを認め、深い懺悔と訂正を天下になすべきである。

また、この責任を取り、阿部管長はじめ全僧侶は役職を辞任し、これ以上創価学会に迷惑をかけないよう還俗すべきであるが、悩乱の法主と臆病の弟子達には望むべくもあるまい。

当方は、なにも恥辱と汚猥にまみれた日蓮正宗・大石寺数百年の歴史をいたずらに暴露することを目的とするものではない。狂信的法主信仰に陥って、広宣流布を破壊せんとする悩乱法主をいさめることすらできない、日顕宗僧俗の臆病な信心を嘆き、一日も早く日蓮大聖人の弟子としての正しい信仰に目覚めることを切に希望するものである。



おわりに



まことに日顕宗の邪念には悲しむべきものがある。彼等が虚偽を為してまでも日精擁護に血道を上げるのは、それが崩れると、血脈絶対論や法主無謬論が崩壊して、自らの存在基盤を失う事を、誰よりも自覚しているからだ。信心の血脈を軽視し、流通正意の御本尊であることを忘れて、但形式と建前に依って権威を保持しようとすれば、行き着く先は日蓮宗に変わらぬ形骸化した祭礼仏教団体であろう。

過去の伝統をかなぐり捨てても、大聖人、日興上人の信心に立ち返る時こそ、常に本因妙の発動と広宣流布への停滞無き発展がある事を知らねばならない。

最後に日顕に盲従する哀れな僧俗の方々に、御書の一説を引いておく、



「徒に師資相伝の口決を信じ秘密の法力を行ずと雖も真実の験証無し、天地之が為に妖

蘖を示し国土之が為に災難多し、是れ併ら仏法の邪正を糺さず僧侶の賢愚を撰ばざる故

なり」(四十九院申状)

以上

平成十七年九月二十九日

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162.17世日精は謗法法主  
名前:宿坊    日付:9月29日(木) 0時33分
しつこいようだが、もう一度日亨上人の言葉を見てみよう。

「日昌より日啓まで大石九代の山主は要山出身たりと雖も初には大僧来り後には小僧を

教養せし傾向あり、兎も角多少の新儀を輸入し、殊に日精の如きは 云々」

「要山より晋める山主は始め日昌日盈の時は著しく京風を発揮せざりしが、但し其人柄

に依らんも日精に至りては江戸に地盤を居えて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂

に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり 云々」



日精の時代は、日昌上人が要法寺より招かれたことにより始まる「大石寺の要法寺化」の絶頂期であったのだ。「殊に」「著しく」「遂に」「全く」との日亨上人の指摘を、軽々に看過してはならない。要法寺と通用のあった時代の日精以外の法主達も多かれ少なかれ、「京風」と言われる要法寺の影響を受け、さらにそれが大石寺門流全体に影響を与えていたのである。日昌上人より日啓上人までの要法寺出身法主によって汚染された「富士の清流」は、日寛上人によって、かなり浄化されるのだが、除去しきれない汚染が大石寺門流に染み付いてしまい現在に至るのである。

しかし、本稿に於いては日精が造読家であったことを証明することが主眼であるから、この「暗黒の石要通用史」全体に関する考察は次ぎの機会にしてあげよう。それが明らかになったときには、「唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします」「(御本尊と法主という)根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません」「唯授一人の血脈法水は、まさに人法一箇の御法体です」(大日蓮 平成三年九月号〜いわゆる「能化文書」)などという戯言は、いくら恥を知らない日顕宗宗門といえど取り下げざるを得まい。「富士の濁流」の歴史の研究でもして、大石寺の真実の歴史を正しく認識しておくことを、その時までの宿題にしておこう。宗門がどんな愉快な言い訳を考え付くか、大変楽しみである。

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161.17世日精は謗法法主  
名前:宿坊    日付:9月27日(火) 1時1分
とある。隠居日精(この時の法主は日典上人、隠居が日精・日舜上人)が江戸表の末寺

代表として幕府に提出した「大石寺の法式」、現代で言えば「宗制宗規」は、日興上人の制戒に真っ向から反するものだった。



「一、衣の墨黒くす可からざる事」  (日興遺誡置文)

「一、直綴を着す可からざる事」   (日興遺誡置文)

「一、五人一同に云く、如法経を勤行し之を書写し供養す仍て在在所所に法華三昧又は

 一日経を行ず。日興が云く、此くの如き行儀は是末法の修行に非ず、又謗法の代には

 行ず可からず、之に依て日興と五人と堅く以て不和なり」 (富士一跡門徒存知事)



これらの日興上人の制戒は、いやしくも日興門流を名乗る者ならば破ること能わざる条

々である。これまでは、日精の仏像造立を中心に検証してきたが、日精の謗法は、それの

みに止まらず、色袈裟の着用、一部頓写千部読誦の執行等も行い日蓮大聖人日興上人の正義を破壊し続けたのである。

これは、日精自身の家中抄にも明確に書かれている。

「当家に風誦を読まざる事(中略)祖師称嘆の言を加ふ敢えて制止せざる故に当家に於て風誦を読むべきなり」

「頓写の事、凡そ四箇の法事は仏家の通用なり誓って修行せらるべきなり」

「過去帳位牌等の事、(中略)速に位牌を立て過去帳を立てらるべきなり」

「日待ち月待ちの事、(中略)富士諸寺に諸天堂を建立すること、本尊の如きは諸天を寺内に勧請する為、況や日待ち月待ちを制する事は全くなきなり」 (富要五・二六五)

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160.17世日精は謗法法主  
名前:宿坊    日付:9月25日(日) 10時29分
とある。つまり、「大石寺に於いても、一部頓写千部読誦・色袈裟着用は、寺法で認められていたはずなのに、それを日俊が突然翻し謗法呼ばわりすると言うのは、幕府を軽し

め、先師代々をなおざりにすることになる言語道断の行為である」と言うものである。

ここで、注目されるのは、寛文八年に大石寺が幕府に提出した「寺法」の内容である。

なんと、「一部頓写千部読誦執行仕り候儀、又僧階に依りて色々の袈裟衣を着用致し候儀又御免許に於いては色衣香衣を着用申し候」とある。俄かには信じ難い内容であるが、これが、大石寺憎さから北山日要がでっちあげたものでないことは、他ならぬ大石寺の反論から証明される。その文書とは、日俊上人が奉行所に提出した返答書である。その中に



「御当地抔に於いて大名高家の下に相住み候寺は大檀那の望に任せ或は一部頓写千部等

も読み申す事に御座候条、先年隠居日精下谷常在寺に在住持の節、江戸末寺代として御

公儀へ大石寺の法式書き上げ申す中に其子細御座候事」

「若し貴人へ出仕の節は色袈裟も懸け申す儀稀なる事に御座候事」

「去る寛文八年大石寺の寺法書き上げ候事先段に申し上げ候如く少しも相違仕らず候事」                          

(富要九・三二)

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159.17世日精は謗法法主  
名前:宿坊    日付:9月23日(金) 22時24分
いずれも、日興上人の門流であれば、当然至極の内容である。

しかし、つい先年まで(日精が生きていた間は)何の問題にもなっていなかったこれらのことで、突然責められた北山本門寺は、大いに怒り、大石寺を自讃毀他のかどで寺社奉行に告発するのである。北山日要が寺社奉行所に提出した訴状がある。その中に



「去る寛文八年申の三月十七日、御奉行所より仰せ出され候諸宗の寺法御尋ねの節、

大石寺より一部頓写千部読誦執行仕り候儀、又僧階に依りて色々の袈裟衣を着用致し

候儀又御免許に於いては色衣香衣を着用申し候儀証文差し上げ候処に、只今日俊等一

部読誦堕獄等の邪儀を申し立て候は、御公儀を軽しめ申すのみにあらず仏法の大儀を

廃し先師代々をも忽諸せしむるの条、言語道断の至りに存じ奉り候事」

                             (富要九・三一)

158.17世日精は謗法法主  
名前:宿坊    日付:9月21日(水) 21時50分
これで、日精は造仏読誦の邪義を終生改めることがなかったということが、頑迷な宗門の諸氏にも理解できたことと思う。しかし、狂信的な法主信仰に陥っている、精神的文盲ともいえる人の為にさらに、日精が、日蓮大聖人日興上人の教えに背いた、謗法法主であったことを別の史料から検証してみよう。



前にも述べたが「大石寺と北山本門寺の係争」いわゆる「元禄出入」は、日俊上人が全く要法寺流の造読義に染まってしまった北山本門寺を責めたことに端を発する。

日俊上人の北山攻撃の内容は、元禄二年の客殿に於ける談義「辨破日要義」(歴代法主全書三・二三九)からも伺えるが、主に下記の四項目である。



法華経一部読誦は謗法堕獄

仏像造立安置は謗法堕獄

本尊書写は題目の下に筆者の名判を書くは師敵対

素絹五条薄墨色以外の袈裟衣は謗法の所作

157.17世日精は謗法法主  
名前:宿坊    日付:9月19日(月) 23時16分
では、日顕宗宗門にお尋ねしよう。日亨は、「日精上人の造仏は、御登座以後には一切なかった」「日精上人に御登座以後謗法など一切なかった」と仰せになられたことがあるのだろうか。万が一存在するのであれば、是非公表してもらいたいものである。

日亨上人は

「日精の如きは私権の利用せらるる限りの末寺に仏像を造立して富士の旧義を破壊せ

る」

「日精に至りては江戸に地盤を居えて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏

読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり」

と述べたのであって、登座以後日精自身がこれを改めたなどとは、それこそ「一切仰せになっておられない」ではないか。

造仏読誦の邪義を改めたのは、日俊上人以降の僧俗である。それは、日亨上人の

「日俊已来此を撤廃して粛清に努めたるのみならず日寛の出世に依りて富士の宗儀は一

層の鮮明を加えたる」

「其れも四十年ならずして同き出身の日俊日啓の頃には次第に造仏を撤廃し富士の古風

を発揚せる」

との仰せに明らかではないか。

156.17世日精は謗法法主  
名前:宿坊    日付:9月17日(土) 23時25分
日精による造仏が当時衆智の事実であったからこそ、日俊上人の仏像撤去に対しての説

得力のある反証として挙げたと考えるのが道理である。また「其所以を聞かず」とは、

日俊上人の仏像撤去の「理由を聞いていない」ということである。事実関係は確認する

までもなかったのだ。これは、北山本門寺の訴状からも明確である。

七について。もう言うまでもあるまい。日精の造仏は登座後にも及んだのである。

のみならず、日精は一生涯造仏読誦の邪義を捨てることがなかったのである。



宗門は「日亨上人は、日精上人の造仏が、御登座以後に及んだなどとは、どこにも述べられておらず、ましてや謗法などとは一切仰せになっておられないのである」と主張している。

155.17世日精は謗法法主  
名前:宿坊    日付:9月15日(木) 0時35分
一は、下谷常在寺の再建並に造仏が、寛永十五年であり日精登座後であることを宗門が認

めたと言う事である。日精登座後であるから造仏は考えられないというのは単なる宗門    

の悲しい希望にすぎない。

ニは、その通りである。

三も、その通りである.だからこそ仏像撤廃が四十年後になってしまったのである。

四も、その通りであるが、日永上人が下谷常在寺の住職になったのは天和三年(一六八三

年)の日精が死ぬ直前なのである。したがって造読家の日精が生きている間は仏像撤廃

は不可能だったのである。又、法主であった日精の過ちはやはり法主であった日俊上人

が正すのが筋であろう。日永上人は当時単なる末寺の住職に過ぎない。

五は、これこそが日精こそが造読家であったことの何よりの証であるのだ。この頃の宗内

で、造読思想を持っていたと思われる有力者は三人いた。法詔寺日感・敬台院そして日

精である。しかし、法詔寺日感は承応二年(一六五三年)に、また敬台院は寛文六年(

一六六六年)にそれぞれ亡くなっている。元禄年間まで生き残っていたのは日精ただ一

人なのである。仏像撤去の最大の難関とは、日精その人のことなのだ。

六について、「百六対見記」は寿円日仁が寛文十二年(一六七二年)に著したもので、今

問題になっている個所は後年の付け足しの部分である。この「日俊上は予が法兄なれど

も曽て其所以を聞かず」との「百六対見記」の文について宗門は、「(仏像撤去に対して)

日俊上人から、その話を伺っておらず、未確認であることも記している。だから、(百

六対見記の記述は)不確かな伝聞に基づく事実確認のないものである」としている。し

かし、寿円日仁は、同時代でしかも日興門流各本山と頻繁に交流のあった人物である。

寛文十二年には日俊に協力して真光寺の板本尊(日興上人御本尊彫刻)の造立に参加し 

ている事が該本尊の裏書に明らかである。(要集八〜二〇一)大石寺の造仏批判に反論 

するために、根も葉もないことを書くとは考えられない。

154.17世日精は謗法法主  
名前:宿坊    日付:9月10日(土) 0時4分
ここで寛永十五年(一六三八年)下谷常在寺の再建並に造仏を例にとって日精が登座後にも造仏を行っていた事実を、宗門のいい訳とあわせて検証しよう。



宗門の言い分をまとめてみれば、下記の通りである。

(時局協議会文書作成班一班「創価学会の日精上人に対する疑難を破す」十頁より)

下谷常在寺の再建は寛永十五年であり日精登座後であるから造仏は考えられない。

仮に仏像があったとしたら、日精が住職をしている常在寺から後輩の日俊上人が仏像を取り除くことはできない。

故に仏像の撤去は日精の死後となる。

常在寺後住は日永上人であり、日俊上人に仏像の撤去が可能なら日永上人にもできたはずである。

仏像撤去の最大の難関である敬台院はすでに死去している。

「百六対見記」は寿円日仁が大石寺を批判するために不確かな伝聞に基づいて書いたものであり、信用できない。

故に日精の造読思想は登座までであり、登座後には無かった。



何とも情けない言い分けであるが、この際一つづつ検証してあげよう。

153.17世日精は謗法法主  
名前:宿坊    日付:9月5日(月) 22時25分
関連事項を年表にしてみよう。



年代不明                日精 久米原等の五箇寺並に造仏

                    日精 半野妙経寺創建造仏

寛永 八年 一六三一          日精 牛島常泉寺造仏

寛永 九年 一六三二          日精 登座(実は寛永八年、根拠今は伏す)

                    日精 江戸法詔寺に造仏千部あり

寛永 十年 一六三三          日精 隨宜論を著作

寛永十三年 一六三六          鎌倉鏡台寺の両尊四菩薩御高祖の影

寛永十四年 一六三七          会津実成寺両尊の後響 日精助力

寛永十五年 一六三八          日精 下谷常在寺の再建並に造仏

正保 二年 一六四五          日精 法を日舜に付す

承応 二年 一六五三          法詔寺日感 寂

寛文 六年 一六六六          敬台院 卒

延宝 八年 一六八〇          日俊 登座

天和 二年 一六八二          日啓 登座

天和 三年 一六八三          日精 下谷常在寺を日永に付す

                    日精 死す

                    この頃より日俊造読批判を始める

元禄 二年 一六八九          北山日要 大石寺を批判

            三月      日俊 北山日要を批判

            七月      北山日要 大石寺を奉行所に訴える

           十一月      北山本門寺 大石寺を奉行所に訴える

元禄 三年 一六九〇  二月      日俊 奉行所に返答

            三月      大石寺本門寺 双方和解

152.17世日精は謗法法主  
名前:宿坊    日付:9月1日(木) 20時6分

「一、下谷常在寺は大石寺先代日精開基にて釈迦多宝の両尊上行等四菩薩鬼子母神等造

立仕り数十年の間安置せしめ候処に、日俊造仏堕獄の邪義を盛に申し立て、彼の仏像を

悉く去却せしめ候。しかのみならず牛島常泉寺にも古へより両尊四菩薩を安置せしめ候

処に、是をも頃年日俊悉く去却せしめ候。(略)

            元禄二年十一月十六日 北山本門寺」 (北山本門寺文書)



「隨宜論」そのものの真意を素直に見て、「百六対見記」「北山本門寺の訴状」等の史料を合わせて考えれば、日精が像読家であったこと、それを改めたのは日俊上人であり、それも四十年後の日精の死を待たねばならなかったことは、誰にでも容易に理解できる。

そこに浮かび上がる事実は要法寺の造読思想を身に付けた日精が、血脈相承を受けても大聖人の仏法の深義に達する事もなく、像読思想を改める事もなく、宗祖本佛・大曼荼羅正意に立つこともなかったと言う事である。まさに仏の予言通りの、六師外道の再誕とも言える,時代の妖怪出現の不思議な現証であり、「凡慮の窺うあたわざるところの、法水血脈相承という当家の秘儀にまします、御仏智の絶大威力」を完全に否定して余りある悲劇的な法滅の姿である。

151.17世日精は謗法法主  
名前:宿坊    日付:8月29日(月) 23時21分
とある。つまり、北山本門寺は大石寺からの批判を六年間はいろいろ遠慮もあって我慢したというのである。元禄二年の六年前は天和三年(一六八三年)である。よって、日俊上人が造読義の批判を始めたのがこの年であることがわかる。天和三年は、日精が死んだまさにその年である。日精は隠居してからも隠然たる権力を持っていたと思われ、後代の法主である日俊上人日啓上人ですら、不造不読を主張することができなかったのである。

さらに、これを裏付ける、北山本門寺が寺社奉行に再度提出した別の訴状がある。これにはさらに具体的に、日精が行った仏像造立の有様、さらにそれを撤去したのは日俊上人であったことが記されている。

150.17世日精は謗法法主  
名前:宿坊    日付:8月28日(日) 11時0分
とあり、「日俊上の時」とあるから、延宝八年(一六八〇年)以降であることが分かる。この文書では 日俊上人が仏像を撤去したとは限定できないが、この頃の法主は 日俊上人日啓上人であるから、この二人によるものであると考えるのが妥当であろう。それは、堀日亨上人の「 日俊日啓の頃には次第に造仏を撤廃し」との記述にも符合する。

又、それを裏付ける別の史料が存在する。元禄二年(一六八九年)に北山本門寺の日要が大石寺を寺社奉行に訴えた訴状である。これは 日俊上人が北山本門寺等の仏像造立・一部読誦・色袈裟・本尊書写・謗施納受等を高座において批判したことに対して、自讃毀他であり、幕府への逆心であると告発したものである。この訴状に



「上野村大石寺日俊累年の間御制法に背き自讃毀他の談義を致し奇怪の法を専ら申し弘

め候(中略)日俊並に衆檀共に悪口を致し候へども、種々遠慮御座候故六箇年の間堪忍

罷り在り候(中略)元禄二年七月五日 駿州富士北山本門寺判 日要判」

                       (富要九・三〇)

149.17世日精は謗法法主  
名前:宿坊    日付:8月26日(金) 22時10分
それではこれらの仏像を撤去したのはいったい誰で、それは何時頃なのであろうか。

寿円日仁の「百六対見記」によれば

「付たり寛永年中江戸法詔寺の造仏千部あり、時の大石の住持は日盈上人後会津実成寺

に移りて遷化す法詔寺の住寺は日精上人、鎌倉鏡台寺の両尊四菩薩御高祖の影、後に細

草談林本堂の像なり、牛島常泉寺久米原等の五箇寺並に像仏す、又下谷常在寺の造仏は

日精上人造立主、実成寺両尊の後響、又京要法寺本堂再興の時日精上人度々の助力あり、

然るに日俊上の時下谷の諸木像両尊等土蔵に隠し常泉寺の両尊を持仏堂へ隠したり、日

俊上は予が法兄なれども曽て其所以を聞かず、元禄第十一の比大石寺門流僧要法の造仏

を破す一笑々々」                   (富要九・七〇)


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