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皇統歴史探訪
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498.紫野大徳寺高東院が高桐院に変名の謎 返信  引用 
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:6月4日(木) 13時32分
児島宮の江戸初期の祖寛永八年四月二十日に没した、宮家甚九郎正勝は、宮家代々の紫野に住み、共にに、紫野大徳寺高東院に、埋葬されたと、寛永系譜帳、寛政従家譜帳は、記録している。

この最終、記録以外は、残されていない、が「寛政従修家譜帳」は、「寛永系譜帳」に、記載していない、甚九郎正勝の子息が、記録されていて、ここにも紫野大徳寺高東院に葬ると、していて、某としていて、記録していない、のに※注書きが添えていて、
この甚九郎正勝父、母は某としているだけ、であるが、
この某とは、何家かも、記録していない、のには、深い理由が、あるから、である。

そのつづきは、甚九郎正勝の、子息覧に掲載してある、某の名こそ、宮家甚九郎正成と、養子兄、の、某孫九郎と記している。
この甚九郎正勝の、長男が、宮家甚九郎正成である。

この『甚九郎正勝系図』には、九人の、子が記載されて、いて、
甚九郎正勝は弟母違いの信實と、もう一人に、財産を分け与えているとある。
「寛政従修家譜帳」は、寛政時にも、紫野大徳寺高東院と、明らかにしている。

ここに、寛政以降迄の家系を、明らかにしていない、のには、
この某とは、何家かも、記録していない、のには、深い理由が、ある。
これほど、極秘扱いに、されている家系は、他には見当たらない。

それは、ある事情?が、極秘扱いに、されている、からである。

このある事情?とは、宮家に関る(児島宮)極秘扱い、である。

陰謀が、かけめぐら、されて、いるのが、その、極秘扱いである。
これは、「寛政従修家譜帳」から、伺う事が、できる。
「寛政従修家譜帳」には、甚九郎正勝の子息の、何人かを、載せている。

甚九郎正勝ー某孫九郎と某甚九郎と、末尾に、女佐々家へ、とだけ、記していない。
ここに、極秘扱い、の訳を、秘密にしている。
佐久間信盛女、佐々家とは、甚九郎正勝の妹の事である。
佐久間信盛女外は他は、記録していないが、それは幕府に関る、重大な事情が、隠しているから、である。

「寛永系譜帳」の写しとしても、良い、「寛政従修家譜帳」であるが、
「寛永系譜帳」に、記録していない、部分が、「寛政従修家譜帳」には、記載している。
それは、佐久間信盛女外は、他にあり、
女の部分が決裂している。

それが、今の系図の、過ちに原因に、なっていた。
何事も、歴史も含め、相似しなければ、真実には、繋がらない。
それを頭に置(入れ)いて、次の、佐久間信盛女外は、他にあり、を、「寛政従修家譜帳」から、見る事が出来る。

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499.Re: 紫野大徳寺高東院が高桐院に変名の謎
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:6月4日(木) 13時33分
特に佐久間信盛女、項目に注目すれば、女何々家へ、で、伺いしれるのである。
「寛政従修家譜帳」には、佐久間信盛女、福島正則家へ
佐久間信盛女、奥山家へ
末尾が、女佐々家へと、記して、いて、現代架空の、記録の要因にも、なっている、佐々家の実情、から、児島宮歴研会で、明らかに、している。

通来、佐久間信盛女、は架空?の人物家、が、知れ渡っている、原因とも、なっている?
佐久間信盛女「寛政従修家譜帳」には、はっきりと、末尾に、女佐々家へと、記していて、佐々家の、実情が重複して、いないのが、誤解を紐解く。
佐々家は云わずと知れた、佐久間信盛の縁戚、となるのは、御器所住む、で、この頃は、佐久間家、と、佐久間信盛とは、母方の、方の縁戚が、続いていた事にあります。

佐久間家当主は、御器所住む、家勝から、に始まります
ここには二家の、隠された、系図が、あった。
それは、家系図から、見て見ると、佐久間信盛の住まいに、隠れている、祖の、信晴は、備後の国の、弟、佐久間の徳川家康父を、宝刀村雨で、肘罰するに、ありここで、確認でき、佐久間信盛系図が、重複している。

ここには、御器所和田、佐々木、武田家、とのつながりが、見られる。
これが、現実の、佐久間家、の系統である。
「子従」の関係が、佐久間家には、秘められていた事、が、ここで解る。

ここで、佐久間信盛の系図から、見て見よう。
佐久間信盛父は、信晴である、その先は、朝次、と、「寛永系譜帳」は記している。
この佐久間を名乗る、佐久間朝次は、備後の城、が、祖の居た、証拠となっている。
居城とあり、ここに、佐久間朝次の素性を、見る事が出来る。

つづいて、高東院が高桐院に変名の謎に移ろう。
高東院は、元来「寛永系譜帳」「寛政従修家譜帳」から、どちらも、重複していて、正当性が見えている、のが確認できる。

ここで、何故寛政以降、変名したのか?に、調査してみよう。
現実寛政以前は、紫野大徳寺高東院は、存在は、確認できるが、同名の現在の、高桐院は、寛政以前は、確認出来ない?

何故現代の、高桐院由来が、細川家の、高桐院由来に上げているのか?
説明は、完全に重複しない、ばかりか、高桐院は寛政以前は、確認する事は、出来ない。
ここに日本の、現代の不思議な、家系図が、浮かびあがってくる?

細川家と高桐院の関連は?インターネットで、探索できるので、由来項目には、高桐院と、云えば、細川家祖、細川忠興と忠興叔父の、墓守り、の伝来は、確認する事が、出来ます。
ところが、紫野大徳寺高東院由来は、どこにも、見当たらない、不思議?

ここには、紫野大徳寺高東院は、誰の家の、由来かに、関わっています。
まず始に、紫野大徳寺高桐院由来は、書き換えられた形跡が、「寛永系譜帳」「寛政従修家譜帳」で、確認する事が出来た。

紫野大徳寺高桐院由来は誰の手に、よって、書き換えられたので、ある事が、重複していない、部分で、不透明な架空の、紫野大徳寺高桐院由来が、見えてきた。
では、何故、という段階に、なってきた?

それは、現実寛政以前は、紫野大徳寺高東院は、存在しており、寛政以降には、改竄されたのが、わかってきた。
寛政以降を、調べるには?佐久間信盛女を、調査すれば、謎は見えている。

佐久間信盛女が、謎解きを、浮かび上がらせている。
佐久間信盛女には佐々に嫁ぐの外に、も、いろいろ、解き明かす記録は、残されている。
その@、佐久間信盛女には、狩野孝信へ、嫁いだ姉が、いる。
そのA佐久間信盛女佐々家、へと、ある事を、児島宮歴研会は調査したが、現在、伝えられている、佐々熊本城主の成政の、女と、なって、解説して、いるのは、佐々熊本城主の成政系図、とは、重複していませんでした。

はっきりしたのは、佐々熊本城主の成政には兄が居た。
この兄に、歴史の謎は、隠れていた?
現在の熊本城主の細川護照氏、の祖、に、関わっているのは?
細川忠興の妻、ガラシャ婦人、が、紫野大徳寺高桐院由来に、書き改められている。
確かに、これなら、紫野大徳寺との関連は重複している。
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500.Re: 紫野大徳寺高東院が高桐院に変名の謎
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:6月4日(木) 13時34分
ここで、熊本城を築城したのは、細川忠興ではなく、加藤清正であるが、加藤清正の後を、豊臣秀吉、から、受けたのは、徳川家康に、なって、からである。
この時点、では、紫野大徳寺高東院は、存在していた。

徳川家康の時代になり、要約、細川忠興が召抱えられる事になり、江戸に移り、同時に、江戸に移りになったのは、甚九郎正勝寄り合い席となり、徳川家康から家光迄、伽衆と、なっている。

ここには、細川忠興と紫野大徳寺高東院の、関係は、見えていなく、紫野大徳寺高東院との、関係が、始まったのは、細川忠興叔父、からである。
紫野大徳寺から移動した甚九郎正勝事不干斎、後を、細川忠興妻、ガラシャ夫人と甚九郎正勝事不干斎の、関係?から、託したのであろう。

ここで、重要なのは、ガラシャ夫人と甚九郎正勝事不干斎の、関係?を、知らねば、ならない。
ガラシャ夫人は、知られているように、父明智光秀、である。

ガラシャ夫人と甚九郎正勝事不干斎の、関係?とは?明智光秀の母は、甚九郎正勝の縁戚である、三宅家との、関係が結ばれて、からである。
土岐に嫁いだ、三宅女の、家が分家の、明智家であったのに、甚九郎正勝の縁戚が、始まっている。

この背景には、織田信長の、肘殺が、明智光秀と、云われているが、明智光秀は、甚九郎正勝の縁戚で、織田信長から、家が没収された、のは甚九郎正勝、と共に、土地までも、織田信長から、没収されたのは、共通する、何かが、あるからでした。

織田信長は両家にとって、天誅を下す理由が、起きたのである。
それは、徳川家康父の時と、重複した、天誅を下す理由が、ある。
宮家を、下扱いすれば、天誅肘殺を下す理由になるのは、織田信長自身、時、徳川家康父肘殺の時と、同じである。

織田信長自身、口にしたかどうかは、判らないが、この事に、秘められた、やはり、の一言が是非にも、およばず、の共通であった。
ここに、ガラシャ夫人が、夫、細川忠興、が、紫野大徳寺高東院内に、建てた理由が、始まったのには、ここ、
紫野大徳寺高東院内に、細川忠興本家、三淵家の、甚九郎正勝没による、殉死が、関係のはじまりと、なっていた。
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501.Re: 紫野大徳寺高東院が高桐院に変名の謎
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:6月4日(木) 13時38分
自分にとってお前は何だ

日本にとって、憲法とは何だ?答えは?日本人にとって、ものごとを決めるのは、何だ?に行き着く。

ものごとを決める標準とは、尋ねると、今の人間は、憲法と、とるだろう。
だが、それは諜報機関憲法上での、西洋人だけの、ものごとを謀る唯一基準としての決める、憲法でしかない。
日本には古来より、神と仏の、それぞれの、ものごとを計る基準、生きる為の神と、死後の世界の悟りの基準、で、決め事が、つちかわれていた。
これが、日本の基準で、なければ、ならない。

では、生まれて生きる為には神と仏、?どちらか、にいきつく?

世界中で、ただ日本だけしか、神がすべての、ものごとを、決める、知恵が明治以前までは、残っていた。

話は、変わり、日本とは何だ?そして日本人とは何だと、尋ねてみた、今や国民は皆憲法と、答える。
こにに実に不思議なことでは、ないだろうか?
例えば国土つまりは、住む土地のことになると、何故私たちは、税金を死ぬまで、払わなければ、ならないのか?だ図寝ると、今は、生きていく為と、答えがかえるだろう。

それは、あやまち、では?ないのか?
そこに出てくるのは、何故である、何故自分は、そうなるのか?何か後ろで、かく乱しているのでは、ないのか?が心の奥底で、わいて、きた。

これは不自然なことでは、あるまい。
考え方が、どこか?間違っているのではないのか、脳裏にわいてきた。どうも不自然である?
何かが、日本人を狂わせている?
そんなおり、変化について、ある自分の先祖の墓所の、寺の名の異変に、何か違和感が、わいてきた。
記録で調べて見ると、徳川初期に家光により編纂された、「寛永系譜帳」も「寛政従修家譜」にも、同じ、「高東院」と、記録されている。
ここに、不自然さに、いきついた?何故、そうなったのか?大徳寺館長に、尋ねたい?
私の先祖の、「高東院」はなくなったのか?と、言えば、今も墓所は、現存しているのに、ここにきて、日本の基準神の、ものごと、をきめる、基準は、どうなったのか?尋ねたい?
「高東院」は大徳寺建立から、はじまった宮家の、菩提寺であった。
貴方達は何から、始まったのか?そこにいきつくのはやはり、ものごとの、はじまりで、あろう。
忘れていまいか?何かが違う今のあり方や、決め方が奥底に、必ずある。
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502.Re: 紫野大徳寺高東院が高桐院に変名の謎
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:6月4日(木) 13時39分
これが現に今は、消えて違う、名前しか付いておらず、実に不思議である。
このような観点の事から、国内の異変に、心の中で、今の日本のすべての、不自然さに、いきついた。
何かが?日本人の中で、異変が起きている事に、不自然さに、とらわれた。

神の基準である、宮家の不自然さ?は、どうして、こうなったのか?
それは、「高東院」と同じ境遇に、なっているのは?何故なのかに、頭の中で、まとまらない?
日本人のすべての、物事を決める、はずの、神ではなく、西洋人の、ものごとを決める基準が、世界のアジア民族の中に、浸透していたのに、気づいた。

ここには、民族の中に何か、異変が起きていたのだ?
それは、今のものごとを、決めるため、使われているのが、人間の生き方が国会で、決められているという、不自然さに、陥ったのである。

このままで、果たして、日本人が、そして、アジア民族が、憲法の中に呑み込まれて、いて、生きる生息して、いけるのだろうか?脳裏に、整理がつかない?
川の水、も、はじめはきれいな、清い水から始まるが、そのうち次第に下流へ、と流れていくうちに、次第に、下流へと、流れていく中、周りから、合流していく中に、何かが混入して、汚れてしまう?
この中で、中心となる、基準自然観は世界共通であり、水原水の浄化された清水を(神の決め事)例える。
このまま、放っておいて、いいのだろうか?


心の中の心の中の、ゆがみが、人間狂わせている

人間は初心に返れの通り、まっすぐな、始に、かえり、始めなくては、人間では、なくなる。現に異変が起きている
すべての人間の、始まりは、今の憲法だったのか、という事になる?
人間創世、の通り、地球上以前には、人間は存在していない。

人間創世とは、ものごとの、決め方にあった、のは、いうまでもなく、神である。 仏は浄化されたものが、真になり甦る。
ここにあるように、物事の始まりは、神による、ものごとの決め方に、帰順する。

だが現に、今の日本人の中にも、神による、ものごとの決め方に、帰順から、放たれてしまい、西洋人の、ものごとの、決め方が、明治以降浸透しているのが、憲法が今の国会社会に見られる、ように、憲法が人間を従わせている。
ここに、日本人の不自然さの、原因が出ている。
人間は何の為に生きてきたのか?教えてほしい?
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503.Re: 紫野大徳寺高東院が高桐院に変名の謎
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:6月4日(木) 13時47分
答えは出来ないはずで、それは背景にある巨悪なる、西洋人の生き方が、日本人に浸透しているからだ。
ここに、セム系西洋人独特の、生き方、ものごとの基準憲法?が、はびこっているのだ。
何等理由は、関係ないのが、唯一ての正体で、日本でいうところの、お釈迦の律のことに相対する。
このお釈迦の律なる、゛ものの゛、決め方が、今の憲法に相似している。

これを見れば判るように、人間が生きるのには、仏は無用であったというところか?それは、仏とは死なのだ。
人間が生きるのには、神に殉じて、ものごとの゛決め方゛で、計らなくては、不自然になってしまう。
今神の託宣は、おりた、日本人に戻る為には、初心にかえり、ものごとの、決め方の間違いを、浄化しなくては、いつまでも、何も変わらないという、神のえである。
ただただ、今の境地に、気づくことである。

国会は人間が生きるのには、無用な存在である、その裏腹には諜報憲法があるからだ。
この憲法が人間を狂わせている。
物事゛を決めるのは、憲法では、ない、゛人間が生きていくのに゛、知るのは、゛善悪゛の二つの世界があるという、
神の教え、を理解する事にある。
生きる上で?すべて人間が決めるという、憲法には違和感がある。

国会で、日本人の生き方を論じる無駄よりも、日本人が生きていく上には、神の物事のきめかたを、守るほうが、大切で、税金も人間が゛生きる゛のには、無用でしかなかった。
嘘憲法は、人間を諜報機関憲法によって脱落させる。ここに追い詰める憲法でしかない国会は無用で、税金もいらなくなる。
人間が憲法から開放された時、人間らしく生きられる。これが本当の自然観である。
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496.三河広瀬城主三宅高貞 返信  引用 
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:5月21日(木) 15時2分
光安の内室は、三州広瀬の三宅氏から来ている
三宅高貞(みやけたかさだ)の女(むすめ)お鶴という

受継いだ政貞(まささだ)の子、康貞(やすさだ)が、天文十三年(1544年)生まれ、が家康の幕下に入った。
光春が備前児島の常山城主、

児島高徳の末裔児島徳直(のりおき)の次男の弥平次だという。
明智光安の養子ではなく、光継の四男の光久の養子にしている。
遠山景行の妻が三宅高貞の娘であることは、『明智年譜』あるいはその菩提寺である安住寺(明智町杉野)の記録からも間違いありません。

三河広瀬城主の三宅高貞は、この時代の三宅一党の統領であったのですが、跡を継ぐ男子がなかったため、摂津守高清を養嗣子とします。しかし、永禄三年(1561)、家康に広瀬城を攻められ、そのときに高清は戦死します。高貞はその後家康に従い、天正元年(1573)11月5日に没しています。
遠山景玄が三宅弥平次である

秀満が三宅を名乗ったのは、母方を継いだものです(母は三河広瀬城主三宅高貞の娘)。

(全孝)の子長七郎居城の時、御船、東広瀬城主三宅右衛門太夫貞保高貞、光貞らに攻められ、三宅帯刀が入る。

【児島】高徳【三宅】高光正綱正光ー甚九郎満盛ー甚九郎朝明助安ー甚九郎朝次弥平次ー甚九郎信晴(盛光改め)

三河広瀬城主三宅高貞

遠山 利景(とおやま としかげ、天文9年(1540年) - 慶長17年(1612年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。旗本遠山氏(明知遠山氏)の初代。父は第12代明知城主(現在の恵那市明智町)遠山景行、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘。

松平久子の娘(父は鈴木重直)は、遠山利景に嫁いでいる。利景の兄は、明智光秀の娘婿の明智秀満である。
足助の鈴木氏は忠親→重政→重直→信重→康重
と5代続き、16世紀に入ると、岡崎の松平氏との間で属離反を繰り返す。
豊田市東広瀬町

伝承では興国5年(1344)児島高徳が築城したといわれる。
明智光秀の妹が、母であるという斉藤利三の妹は、土佐の長宗我部元親の妻である。

東広瀬城主の三宅高貞(右衛門太夫貞保)と三宅光貞(帯刀)
喜多村家の系図
三宅高貞児島高徳子ー元貞三郎兵衛元興ー貞吉六郎貞次信濃ー国貞

国貞小四郎加賀ー貞信小四郎貞宣貞清ー清信清宣加賀ー貞次貞胤筑前

貞次貞胤筑前ー貞安貞保右衛門ー高明右衛門ー高信右衛門ー高貞右衛門


鷹見城
鷹見城跡【愛知県豊田市上高町古白】
1349年、児島高徳が築いた城とされる。高徳は東広瀬城、中金城も築いている。

三河 中金城
【愛知県豊田市中金町字宮狭間】
【歴史】1350年、児島高徳が築いたとされる。その後、東広瀬城主三宅氏の家臣が居城

http://sakuraoffice.com/matsudairahisako.html
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497.Re: 三河広瀬城主三宅高貞
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:5月21日(木) 16時10分
西広瀬城『三河国二葉松』によると、城主は佐久間信直・全孝とあります。
1554年佐久間九郎左衛門重行〔全孝〕の子長七郎

東広瀬城主三宅右衛門太夫貞保高貞、光貞がいる。
東広瀬(ひがしひろせじょう)
南北朝時代に児島高徳が築城した。
十一代当主・高清が織田方についたため、永禄三年(1560)に松平元康(後の徳川家康)に攻められ落城しました。



三河 西広瀬城1576年頃、佐久間信盛も居城した。
備前児島の常山城主、児島徳直(のりおき)の次男の弥平次。
織田信秀に通じた西加茂郡広瀬城主佐久間全孝


児島の常山城主上月隆徳、上野肥前守隆徳
常山落城は天正三(1575)年
備前国児島郡の常山城主上野隆徳
常山城主上野隆徳も信長の誘いを受ける
江戸時代の古い墓碑には笠の部分に「十六枚菊」の紋が入れてあります。
天正3年(1575)の「児島常山合戦」により落城城主上野隆徳(天正三年)
上野隆徳の娘、妙心禅定尼が死んだ。
隆徳の母、続いて息子の源五郎高秀、最後に隆徳の妹が自害し、隆徳は涙ながらにこの三人の首を落として合掌した。 時に妻鶴姫は、“私は三村の家に生まれ、この城主の妻
鶴姫は、城中へ引き上げ、隆徳と向かいあい、“お先に参らせていただきます”と自害した。

松山城主で三村氏主君の元親
織田方に組みすることになった(元親は常山城主上野高徳の妻鶴姫の兄であった)。

(「常山軍記」、以下同)と、15歳の嫡子高秀、舎弟高重ともども自ら迎撃に出て奮戦あり。
永禄9年(1566年)三村家親が宇喜多直家に暗殺された後、あとを継いだ、二男の三村元親は、あだ討ちを遂げていなかった。

五流尊龍院には、太平記で活躍した児島高徳の生誕地

正室の慈正院は、三河足助城主の鈴木滋直の娘で、その母は松平清康の妹で家康の育ての母松平久子。
天海が遠山景玄/三宅弥平次/明智秀満であったことは、その取り巻く人物からも頷ける。
『児島宮系図』
[範長の長女の子頼宴室子高徳]
三宅郷守─重範─児島範守(弟児島範勝、弟今木範光、弟範常)─範長─高徳(範長の長女の子)─高秀(弟三宅高光、弟三宅高貞)─高家─信徳─宇喜田久家(母児島高家女←藤原三条実家を婿とす)─能家(和泉守)─興家(弟義家、弟定安

三宅高貞─良覚、弟元貞─貞次─貞宜─清宣、弟貞次、弟清貞(周防守)─師行─行貞─正貞─〔三河拳母一万石〕康貞(弟広勝、弟勝清)─康信─康盛─康勝〔田原三宅家〕。

光秀の娘である秀満の妻は、先に摂津茨木城主・荒木村重の子息村安に嫁していたが、天正6年に村重が信長に叛したため、秀満と再婚す。父は地場の国人(地元武士)で三宅徳置といった。弥平次は、その次男である。

約400年の昔、城主上野肥前守隆徳の守る常山城は小早川隆景の先陣、浦兵部宗勝の軍勢に攻められ落城その後、常山城主 宇喜多源三郎

1585, 天正13, 児島全部が宇喜多領となる。
児島郡常山城主 宇喜多源三郎いる。

http://www.oshiromeguri.com/toyota/21higashihirose.html Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; WPS)

494.大徳寺高東院の創建 返信  引用 
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:5月18日(月) 20時49分
大徳寺高東院に葬られている、児島胤佐久間氏の宗家は、『寛永諸家系図伝』と『寛政重修諸家譜』から、同一の記録から伺える。
佐久間朝次して、家系を語らずと載せている。
朝次弥平次高東院葬るー信晴高東院葬るー信盛高東院葬るー信栄(正勝)高東院葬る。

この記録からしても、細川家と、高東院の関係は、ありません。
今の高桐院の始まりは、説明版によれば、
細川忠興(三斎)が叔父(父の弟)の玉甫紹j(ぎょくほじょうそう)
を開祖として慶長6年(1601)に父藤孝(幽斎)の菩提所として建立した
寺である。
この現院の名前は慶長6年(1601)に交代があったものと、著者は見ている。

同名の院が二つあったとは、記録にない、之には、『寛政重修諸家譜』から見ても、どこにも、高桐院の院名は、見えていない。
高桐院の院名は明治以降に改竄されたと、見ている。

では細川家は、高桐院の名にふさわしい、かと、言えば、何処にも、院号、と克ち合わない。
だが、高桐は天皇の、紋章の控紋として、五三の桐紋の関係は、ガラシャ婦人の母里、にある。

ガラシャ婦人の母里は、宗家の児島胤佐久間氏の分家、
西広瀬城 三河 児島高徳 佐久間氏
『三河国二葉松』によると、城主は佐久間信直・全孝とあります。
天文十八年(1549)、岡崎城主・松平広忠(徳川家康の父)は近侍の岩松弥八に刺殺されます。
この岩松弥八の祖は、新田家と言われています。
ここで、新田家の弟の子に嫁いだのが、児島高徳女がいます。

東広瀬町城平山城築城者児島高徳十一代当主・高清が織田方についたため、永禄三年(1560)に
松平元康(後の徳川家康)に攻められ落城しました。その後廃城。
後の城主は三宅氏ですが、三宅氏は児島氏の後裔です。
三宅氏は明応年間(1492〜1501)頃は、西三河において
かなりの勢力を保っていたようで、近くの広瀬古城なども三宅氏のお城です。

広瀬城・広瀬西城・西前城 【歴史】1460年頃、城主に佐久間信盛〔後の信長家臣。1467年頃、信 直、弟信重の名がある。
1554年佐久間九郎左衛門重行〔全孝〕の子長七郎居城の時、御船、東広瀬城主三宅右衛門太夫貞保高貞、光貞らに攻められ、三宅帯刀が入る。
牧野 康成 まきのやすなり家後胤は島津重豪室となり黒田長溥を生んだ。
三宅 重利 みやけしげとし (三宅藤兵衛)

明智光秀の外孫にあたり、熊本藩主細川忠利とは従兄弟の関係、三宅重利、山崎の合戦後に細川家に保護される、のちに細川家を辞去し寺沢家に仕え知行三千石、天草の乱では富岡城代として一揆軍と戦い討死した
天海(明智光綱)僧正の男、三宅重利
三宅 高貞 (みやけたかさだ)女が生んだ、ガラシャ婦人の祖父。

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495.Re: 大徳寺高東院の創建
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:5月18日(月) 21時12分
三河・広瀬城主、三宅右衛門尉高貞、松平清康に居城を攻められ討たれた。
「児島高徳が、その子の高貞(勘解由高盛という)のため興国年間に、現在西加茂郡
猿投町大字東広瀬とよばれる矢作川に臨んだ高さ五十メートル周囲四百メートルの孤立した天険の地をえらび築城し、その後この西加茂一帯を征圧していた」となっていて、没落したのは三宅右衛門高清のときとある。
松平清康と広瀬の三宅右衛門慰 寺部の鈴木日向守が対戦し、清康勝利。この時に、松平太郎左右衛門家の勝茂は、長男信茂と共に討ち死。
松平清康、猿投神社焼き討ち。三重塔社殿、神宮寺焼失。  織田信長小さな大名(守護代家老)の子として生まれる(尾張那古野城)。
天文前田利家、尾張荒子村(現中川区)に生まれる。前田利昌の四男。幼名、犬千代。一説に1537説もある。
12/26徳川家康、岡崎城に松平広忠の子として生まれる。父広忠17歳、母お大の方15歳。吉木山(妙昌寺文書には、「芳樹山」とある。)六所神社に礼拝さる。
天文17岡崎城主:松平広忠(24才)。近臣・岩松八弥に城内で暗殺される。

三河・広瀬城主、三宅右衛門尉高貞、松平清康に居城を攻められ討たれた 。
遠山景行の妻が三宅高貞の娘であることは、『明智年譜』あるいはその菩提寺である安住寺(明智町杉野)の記録からも間違いありません。

遠山景玄と明智秀満を同一人物
三河広瀬城主の三宅高貞は、この時代の三宅一党の統領であったのですが、跡を継ぐ男子がなかったため、摂津守高清を養嗣子とします。しかし、永禄三年(1561)、家康に広瀬城を攻められ、そのときに高清は戦死します。高貞はその後家康に従い、天正元年(1573)11月5日に没しています。

祖土岐成頼子土岐氏8代美濃守護子供:明智頼尚

土岐氏九代明智光継あけち みつつぐ 明智頼尚男子
別名:頼典、十兵衛尉
子供:長男…明智光綱天海(明智光綱)僧正、次男…山岸光信、三男 …遠山景行(明智光安)、四男…小里光忠(明智光久)、五男…原頼房、六男…明智光廉(三宅長閑斉)、長女…小見の方、次女…斉藤利賢の妻(後に石谷光政の妻)

明智光綱(あけち みつつな)天海(明智光綱)僧正

高東院の紋は五三桐であるが、元々信栄(正勝)家の紋章は十六葉菊紋と五三桐である。
これは神文とされ、古代より天皇紋として使われていたもので、信栄
(正勝)祖の後鳥羽院からの受け継ぎ紋である。

「ここに、高東院の真実」の、
佐久間朝次ー甚九郎信晴天文十一年歿高東院葬るー甚九郎信盛宗祏高東
院葬る。であり、信栄(正勝)高東院葬るに際して、三渕殉死とある事から、三渕の臣下の礼を、とってからの、細川忠興からの、高東院である事は、疑いなし。
出雲の阿国・その恋人吊古屋山三郎の菩提所高東院と総合して、高桐院になったと見られる。
他にもしきたりが、あったようで、歌舞伎役者も同所に、葬られている。

まだ他にも臣下の礼を、とった墓が、シュメール殉死形式、で葬られているが、間に、関係無しの、墓がふえて、いて、シュメール殉死形式、に戻す事を、児島宮は願っている。

誰の為の高東院なのか?判別が出来なくなっているのも、割り入っていた、墓が、大徳寺の名を、変えている事にもなる。
これは、大徳寺ばかりでなく、大覚寺、の中にも、新しく割り入った、大室明治天皇と大隈大正天皇と昭和天皇の位牌が、割り込んでいた事も、天皇の歴史まで、根底まで改竄、、されている事になる。

これらの、新しい天皇も明治以降、の天皇を号したもので、血縁の無い新天皇が、ここにも混じりこんでいた。
これらは、日本の歴史を根底から覆すものとなる。

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490.河野家譜から、真実の歴史が、解る 返信  引用 
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:5月2日(土) 15時15分
大通智勝仏から「通」の一文字をとって通清と名乗った。そして「通」が最後の当主通直まで代々、河野の家の「通字」となる。
通盛は通有の末男として養育され、河野氏の正系を継いだ。

通盛は通盛は出家遁世の志を立て、建長寺の長老南山士雲について剃髪し、善恵と号した。

宮方醐醍醐天皇の土居・得能両氏は義貞に従って京都に出征中
土居・得能両氏の勢力の掃討をはかり、宮方が占拠していた松前(まさき)城(伊予郡松前町)、油並城(伊予郡双海町)を陥としている。

土居通増、得能通綱は義貞に従って北陸に転戦し、二人とも討死する。
通盛は、尊氏の命を受けて河内国東条を攻め、その時の奮戦で武名を知られるようになった。

高徳の母方も、得能通綱の子東郷胤時、と、「太平記」中に、記している。
「太平記」の作者といわれる、児島法師とは、天台宗尊滝院に因んだ、呼び名である。
この中で高徳皇祖である、「越王勾践」を、取り入れた、のに、辛抱というくだり、が、この時の高徳の、心情である。
醐醍醐天皇に、虐げられたのと、相似している。

「太平記」には、河野通盛は鎌倉武士の中の武士と描かれている。
「太平記」は何故河野通盛は、宮方の醐醍醐天皇、ではないのか?
この時、河野通盛は、南朝・97代・後村上天皇から厚い信任を受けていたとある。

足利高氏は1333年4月29日幕府の二度にわたる無理な出陣命令に叛いて、突然天皇方に走る。

それから、南朝醐醍醐天皇天皇方は高氏に1335年11月26日、天皇の命令をきかないとして、高氏の官位を剥奪した。

ここが、高徳の父頼宴の、仲介が、あったと推測できる。
この時頼宴の室は、河野石清水家紀家弘、の女と、縁戚の、佐々木児島範長との間に、うまれた女、を母としたのは、児島高徳である。

頼宴が働きかけたのは、祖父の女良子を、頼宴の子を、後継に、亀山院の遺言を、破談にした、醐醍醐天皇への、肘罰で、あった。
足利尊氏に、子息の義詮との婚儀、が行われている。

ここに、頼宴が、一旦兵を引かせて、備後の児島へ、迎え入れ、そして、九州の、地領を、受けている、内、醐醍醐天皇へ忠誠を誓っている、宇佐に、一応出向いて、足利尊氏参加を、取り付けたのは、宇佐神宮と、石清水の連系であった。

これによって勢力は、大きく変動していく。
心変わりしないものは、今度は肘罰、の対称になった。
佐賀や長崎の武士は、鎌倉からの地頭人で、これらは、紀氏一族で、占められて、いた。
こうして、足利高氏は、幕府を、開いた。

控えて、児島高徳の後は、天皇側近に取り立てられ、たが、次第に、天皇側近から遠ざかるようになり、戦国末期までは、備後の、天皇領地に留まり、児島高徳の築いた城、を拠点に、して、織田信長に、就いた時から、佐久間信盛と姻戚が、活躍し、たが、織田信長の裏切りにより、父子は、遠祖の築いた高野山、に、隠遁するも、佐久間信盛はこの地で、没した。
この後、織田信長に許されるも、佐久間信盛子甚九郎正勝不干斎は、裏切った織田信長、を、一族天海の土岐一族や、藤原斉藤氏を、結集して、織田信長を肘罰した。
皇帝に習った肘罰、は世の中を平定するのに、用いなくては、ならない決まりが、不干斎に、先祖のように、課せられていた。

得能四郎太夫通俊の子深厳也 家勝子紀家弘後継タリー深厳

越智姓)【河野】通信──【得能】通俊──深厳

後鳥羽上皇─冷泉宮頼仁親王(児島宮)室佐々木信実室母北条時政女─東寺長者道乗──頼宴室児島範長女母紀家弘女─高徳

佐々木盛綱の子加地信実女ー道乗ー頼宴ー児島高徳
【加地】盛綱─信実─時秀─【東郷】胤時─【飽浦】【東郷氏】
紀仲子=崇賢門院
紀良子とは姉妹)
足利義詮がひそかに側室に迎えた紀良子がいる。

別当通清(道清)家弘のもう一方の女は、児島範長に嫁いでいる。
その女が頼宴僧正の室になっている。
通清は『石清水祠官系図』では「道清」「異本通清」とある。

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491.Re: 河野家譜から、真実の歴史が、解る
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:5月2日(土) 16時41分
宇都宮氏宗家は後醍醐天皇方の最強軍団となり、美濃の南朝方土岐氏と行動を共にした。
ここにも出てきた?

後に、佐久間信盛子甚九郎正勝不干斎との接点?
美濃の南朝方土岐氏と明智氏の姻戚は、佐久間信盛祖の居城、西広瀬城
美濃の南朝方・土岐氏といい、美濃の臨済宗・大徳寺派、妙心寺派とは、親密な関係があった。

広瀬城 西広瀬城 三河 児島高徳 佐久間氏

三宅姓を名のる者は美男美女として知られている、『三宅系譜』では、
「児島高徳が、その子の高貞(勘解由高盛という)のため興国年間に、現在西加茂郡
猿投町大字東広瀬とよばれる矢作川に臨んだ高さ五十メートル周囲四百メートルの孤
立した天険の地をえらび築城し、その後この西加茂一帯を征圧していた」となってい
て、没落したのは三宅右衛門高清のときとある。
児島高徳が、その子の高貞(勘解由高盛という)


今も続いている佐久間信盛胤児島宮家の墓は、大徳寺高東院と縁戚の妙心寺、智勝院である。
この智勝院に、智勝院主川島氏の御母から、お見せいただいた、古系図には、すべての縁故の氏の名前が、記されていた。

@初代 神武天皇の即位がBC661年1月1日とある。
 となると、中国の春秋戦国時代よりも古くなる。
ここにも、天照と神武天皇が、相似する、くだりが、記されていた。

何を表わしたのか?

白村江の戦いで唐の捕虜になった越智守興が唐の越地方から
逃げ戻り、後に越・捕虜時代の現地妻との間に生まれた、越智玉澄が伊予に
父を訪ねてくる感動の名場面。
この越で生まれた越智玉澄が松山の石手寺を建立。

越で生まれたから、おち、姓となった。
(おち)と越智
越智と河野
古く7世紀の斉明天皇の陵を越智山陵と呼んだのが一番古い
天皇の陵に越智(地名?)とつけた
延暦10年(791)12月の条に伊予国越智郡の越智氏が続日本紀に現れる。
連鎖するのが風習と日本の伝統である。
紀氏と越智氏の女の間で生まれた在手が誤って母方の越智姓を称したのを父方の紀姓に戻してくれと請願し許されたと書いてある。
これは、越智姓は天皇を表明し、紀姓は臣下になる。
神代の『越洲』とおおいに、関連がある。

越智守興の唐の越地方の歴史。桓武に連座している。かぶさると言う。
「姓を間違ったから訂正してくれ」と請願して許可を得た程度の事をを何故 国史とも言える「続日本紀」に記録として残した。

天皇系図と見間違いを、なくす為である。

宗家52代通能・1370年〜1394年京にて没の(後通義・幼名亀王丸・伊予守・牌名号温応院殿道番梅岩大居士)と通義通春(生まれは〜没年は1482年湊山城にて)なり。
古代倭の国は帰化人たちの連合国であった。事象の照合が一致するヤマタイ国。太一

平城京にあって、兄 大伴家持と一緒であった、腹違いの弟、大伴高多麿その人。
大伴旅人は夜須町の古代を、万葉集に残している。これが連座している

「越智」の字が現れるのは古く7世紀の斉明天皇の陵を越智山陵と呼んだのが一番古い。連座は邪馬台国である。
延暦10年(791)12月の条に伊予国越智郡の越智氏が続日本紀に現れるが、これは明らかに地名である。
持統4年(690年)の庚寅年籍と併せてすべて戸籍に登録し、部姓を主とする氏姓制度が完成した。

背景はなんなのだろう

湯築城主通尭は没年1379年なれば・・その後世・宗家52代通能・1370年?〜1394年京にて没の(後通義・幼名亀王丸・伊予守・牌名号温応院殿道番梅岩大居士)と通義通春(生まれは?〜没年は1482年湊山城にて)なり。
林通勝が、織田信長に追放されたのと、佐久間が追放されたのと、裏づけが出てきた。
織田信長は事前に、知っていたから、危険を感じたのだ。【談話室ゆづき】参考

天に逆らった者は天誅を受ける。

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492.Re: 河野家譜から、真実の歴史が、解る
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:5月2日(土) 16時42分
土岐氏は鎌倉期に伊予に入国し、南北朝期には荏原郷の浄瑠璃寺の再建を成し遂げるなど、荏原地域一帯に勢力を広げていた一族であったが、戦国期になると平岡氏の台頭の前に次第に勢力が衰えていくことになる。
『予陽河野家譜』によれば、永正8(1511)年、自立化をはかる宇和・山方衆を抑えるため、平岡次郎や八倉・出淵・得能氏らが攻撃をかけたとされる。
文明4(1472)年には、土岐氏はまだ荏原郷西方・久万山内青河等を保持していた。
1381(永徳元年/弘和元年):河野氏、東予2郡を割譲することで、細川氏と和議成立。
1392(明徳3年/元中9年):南北朝合一。

1457(長禄元年):河野教通の病により氏族が湯築城に参会する(予陽河野家譜)。

1463(寛正4年):河野氏家臣、重見、森山、南、得能、和田氏らが一揆を企て、細川軍を引き入れようとする。
通春および教通の弟通生は大内氏に救援を依頼し、共同して細川軍に対抗。(寛正伊予の乱)
1535(天文4年):「温付堀」の普請が行われる(国分寺文書・仙遊寺文書)。これは弾正少弼通直による湯築城拡張工事を示す記述あり。
河野教通から家直は、風早郡粟井郷の安岡名・友兼名・宮崎名の地を給与されました。(二神家文書)

土居氏:河野通継庶子通成の子孫
稲葉氏?:河野通直(刑部少輔)の子通貞の子孫
林氏(織田家家老職):河野通義の子通弘の子孫とか河野通尭の子通兼の子孫。
得能氏:河野通信嫡子通俊の子孫。

弘安 4(1281)―河野家譜「対馬守通有 上野介通継也、弘安四年蒙古襲来、大軍充満志賀・鷹島・能古等之海岸矣」 大宰府史料8
豫章記「通有〈河野六郎任対馬守〉弘安四年蒙古襲来ス、大軍志賀鷹・能古等島々海上ニ充満セリ」 大宰府史料8

衛門墓は則ち脇屋衛門佐(すけ)義治の墳墓にして新田谷の旧新田神社前古新田と称する地の田畦に今もなほ耕されずして一座の古塚あり、或いは義宗の古墳には非らざるか。和鬼谷は之を訓ずれば脇屋にして新田神社は其の鎮座する所なり。衛門墓の記に(井上保穐誌)

脇屋右衛門佐とて義貞公の甥にして新田の神と共に此国に住給ひて、この所むなしくなり給ふよし侍れば衛門の名を云つたへるにかあらんといふ、これによりておもへば定家卿の小ぐら百首を里遠き山かつまでも口すさひおほして赤染衛門などいひならひたるくせとして、衛門ととなふれば脇屋右衛門の佐のしるしとそしられ侍る。時は天明四のとし霜ふる月末の一日のことなり。

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493.後太平記人部巻
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:5月2日(土) 16時44分
其比新田武蔵守少将義宗、脇屋右衛門佐義治は出羽国羽黒山の麓に柴の扉と挑け深く蟄れて衰老の霜降る眉を顰(しか)めて坐しけるが天未だ時を逸し給はざれば徒に軍慮の枕傾き遺恨の鉾空く横り謀慮既に尽ける儘にける処に南帝北方御和睦坐し嵯峨へ遷幸在て三種の神器を渡されたり恪と聞かれしかば新田の一族驚き玉ひ泪を流され、さても無念の事どもかな苟(いやしく)も我普天の下に生まれ王土に身をよせ勅命離遁して一命を忠烈の上に抛(なげうっ)て我々家義を全し国を捨て家を滅する事皆南帝の論言重きが故なり、今礑南北御和平の上は一族忠にも義にも捨てたれば猛虎山を失ひ、萬星離天流行に異らず、今は出家遁世の身共なり、義貞、義興の亡魂尊霊の憤りをも可弔と思ひ極め玉へども凡武士の習に義を萬代に留る事は難く、身命を一時に捨てる事は易し、暫く世上の安否をも候ひ忍ばせ玉はば、若しや素懐の幡開くる時もや候はんと皆一言に諫めしかば、さらば自是四国の方へ忍び行き、土居得能村上と一手にならんとて、明れば正月二十一日の夜に紛れ出羽の羽黒を立出で玉ふ。女性小き人々も長き別れとなげき玉へば、流石別れの痛はしさに皆忍びやかに伴ひ玉ひ、煙霞遙の旅路の空雲井に掛けて捨たれ身は夢路を辿る御心地にて信濃路を経て伊勢の国に着き玉ひ、爰(ここ)にて暫く旅の疲れを休め玉ふ。是より和泉の堺に打越え各々船に取乗て四国をさして落ち玉ふ。此人々元弘の終りには富貴栄耀の門に立栄花の春を楽み玉へども世の転変夢中に来て今一業所感の浪の上、浮沈の御歎き痛しかりし事どもなり。

豫陽盛衰記の十二巻にも遁れて宇和島に住みし事を詳しく載せたり。
宇和島へ移り両年住み、其後来って義宗夫妻逝去の地とせり、宇摩郡下山村字新田と称する地に新田神社あり、其の社記には義宗逝去の地となし、義治は讃州大内郡に匿れ其処に終わるとあり、或いは得能氏家記には明徳元年正月義宗は桑村郡河内村に終り、義治は湯山に逝くと載せられたり、又、伊予郡大平村四ツ松に新田神社とて脇屋を祀れるあり、社記に建徳元年六月十三日当村に於て痢病のため逝去す、時に四十五歳、死に臨みて弓矢を流し甲冑を埋む、故に甲谷、冑谷、籠手谷、弓矢ヶ淵等の名残れりとあり、又、温泉郡湯山村にも遺跡あり芳闕嵐史に詳し。以上其逝去地と称する所甚多し、著者(久保氏)は右の諸説を悉く打破し全然我が宇和島の衛門墓および古新田の古墳を両公逝去の地なりと断言するものには非ずと謂うも、なほ旗幟を翻して堂々論陣を張るに難たからずと信ずるなり。

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313.大徳寺高東院の由来 返信  引用 
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:4月5日(木) 18時22分
大徳寺高桐院は昔から、創建されていたものではなかった。
今の高桐院の始まりは、
細川忠興(三斎)が叔父(父の弟)の玉甫紹j(ぎょくほじょうそう)
を開祖として慶長6年(1601)に父藤孝(幽斎)の菩提所として建立した
寺である。

この現院の名前は慶長6年(1601)に交代があったものと、著者は見ている。
この交代は徳川家光の時期、であろうか?
話は整理して、おかないと混ぜくりに、なる恐れがあるから、説明だけは
先にしておこう。

それには先ず、将軍家光の時期になるのか?が疑い深いところであろう。
そこで、高東院主の事から進めていきたい。
高東院主とは、
大徳寺創建よりずっと、引き継いできた家が存在していた。
これが高東院の主である。
寛政系譜によれば、佐久間氏項に記されている。
佐久間朝次して、家系を語らずと載せているのも、天海僧正も将軍家光も
知っての事で、そう記させていた。
何か秘密があっての事でしょう。
院主については、代々が此処を本拠として、住んでいたようである。
院主は勿論高東院主で寺名も以前から記されている事代々高東院に葬るとある。
又院主について、佐久間信栄紫野に住すと載せている事から、想像してもわかる。

ここで系図を再度

佐久間系譜』寛政系譜帳将軍家光製作となっている。

佐久間朝次ー甚九郎信晴天文十一年歿高東院葬るー甚九郎信盛宗祏高東
院葬る。

http://www.d5.dion.ne.jp/~ikeyoko/M-MIURASI.htm

佐久間系譜
朝明ー満盛ー朝次弥平次高東院葬るー信晴高東院葬るー信盛高東院葬る

ー信栄(正勝)高東院葬る  

これからも、以前から大徳寺高東院の院名があった事が判ろう。
ここで、細川氏が新たに創建したのは、土地ではなく建築物である事が判ろう。
故に大徳寺高東院創建とはならないのです。

住職松長剛山氏によれば、
信栄(正勝)の死にあたり、三渕家の者供が殉死したと、話されていた。
ここに、初めて三渕家が高東院に関わって居た事になる。
この時殉死したのは信栄(正勝)周辺に埋葬されていると、語られた。
歌舞伎役者お国も回りに埋葬されているところから、何らかの関わりがあった
のであろうか?
関わりがないのであれば、細川家の墓は今も現存していないはずだ。
縁もゆかりもないのであれば、ここ高東院に埋葬はされないはず?
高東院の紋は五三桐であるが、元々信栄(正勝)家の紋章は十六葉菊紋と
五三桐である。
これは神文とされ、古代より天皇紋として使われていたもので、信栄
(正勝)祖の後鳥羽院からの受け継ぎ紋である。

ではこで、三渕家との拘わりについて、述べなくてはなるまい。
三渕家とは足利氏より分家して家をたて、三渕を名乗ることに始まる。
ここで、三渕家はなんで、信栄(正勝)の家臣についていたのか?となる。
そこはまだ不明であるが、何らかの事が裏にあると思っている。
ここで、信栄(正勝)の一族に見える三宅氏は天海僧正の出た家であった。
信栄(正勝)祖の児島高徳の「太平記」の中に天海僧正三宅祖が記載されて
いるのが見える。
その祖の名前は東郷胤時といい、児島高徳の叔父になるとしている。
ここに誤解が生じやすい、ところなので、説明が必要であろう。
東郷胤時は児島高徳からいえば、祖父範長の兄弟にあたる。
ここに三宅東郷胤時とは佐々木一門の出であることが、判る。
児島高徳は児島宮の後胤であり、三宅氏との拘わりは、高徳母からに
なっている。範長ー女高徳母である。
この時期
範長の妻姉は紀家弘の女であった。
この紀家弘のもう一人の女妹が、足利氏に嫁いだ。
これが足利三代将軍の母となる。
ここに、児島佐久間?との縁の始まりとなっている。
三渕家が仕えたのには理由がここにあったのだ。

ここに佐久間信栄(正勝)と三渕家の関係が出来ていたのである。
この高徳の時期には、天皇胤である児島宮に対し
源足利尊氏は、身分は武士でその差は、天皇胤との違いがあったのかも
知れない?

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314.Re: 大徳寺高東院の由来と東郷胤時系譜
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:4月22日(日) 9時47分
佐々木盛綱男加地信実─時秀─東郷胤時─甥子児島高徳

佐々木盛綱流佐々木加地一族 信実には、系図上で九人の男子がいたことが確認される。冷泉宮を備後国豊岡荘児島の地に流すとこの警固を命じられている。
佐々木盛綱の子加地信実ー 武田ー逸見冠者清光ー逸見重氏盛綱女婿三宅定心ー玄孫家長ー紀家弘女婿児島範長ー女頼宴室ー児島高徳

後鳥羽上皇─冷泉宮頼仁親王(児島宮)室佐々木信実室母北条時政女─東寺長者道乗──頼宴室児島範長女母紀家弘女─高徳

佐々木盛綱の子加地信実女ー道乗ー頼宴ー児島高徳

伊予の守護、河野通信の長男通俊が鎌倉初期(十二世紀初期)土地の名前をとり得能を氏とした

得能四郎太夫通俊の子深厳也 家勝子紀家弘後継タリー深厳

越智姓)【河野】通信──【得能】通俊──深厳

備後氏(紀臣族 兼清ー兼信ー琳光(備後三郎、
祠官)
高徳は、幼い頃、名を高丸といった。父の大僧正の教えを受けて、和漢の学を学び、神童と呼ばれる程であった。高丸が七才の頃、花園天皇と後醍醐天皇の皇位継承について北条氏が介入した話をきき、また、かねがね後鳥羽上皇が承久の昔、北条氏のために讃岐に流されたことを父に聞いた。そんなことで大きくなったら武士になって、北条氏を亡ぼそうと思っていた。

父の大僧正は三宅範長と相談して、範長が高丸を手もとに引きとって、武士として教育することになった。三宅範長は、その頃までは、児島の五流尊滝院の付近に住んでいた。

しかし、孫の高丸を武士として、教育するには、生まれた近くより他の場所がふさわしいと思った。三宅範長は一党が住んでいた邑久町上寺山周辺に館を移した。

高丸は十五才、正中二年に元服した。そして児島姓を名乗らせた。大僧正の三男なので三郎とした。児島備後三郎高徳と名乗らせ、和田一門の頭領としたのである。

飽浦胤泰東郷胤時子加地時秀孫信実曾孫十郎左衛門. 信胤胤泰子三郎左衛門佐々木薩摩
延元頃. 信清美作. 行胤胤泰子左衛門 ... 基泰東郷胤時子七郎. 新発田長綱飽浦行胤子.
長経. 経綱. 治綱. 長綱. 能敦源次郎. 綱貞

【加地】盛綱─信実─時秀─【東郷】胤時─【飽浦】【東郷氏】
【加地】盛綱信実─【佐々】氏綱─景綱景綱【佐々氏】─宗綱
【加地】盛綱信実─【佐々】氏綱─経綱─宗経─氏宗【佐々氏】

紀家弘室の父東郷胤時ワ云エリ、家弘婿ワ、児島範長デ、範長ワ、今木
範俊ノ子ナリトテ、大平記ニ児島し河野は一族ニテ、児島祖六代孫ヲ今木備後高長トアリ

児島盛綱後継ぐ婿逸見冠者清光子重氏(号ス定心)子李房(相模国三浦郡和田邑ニ住み和田号ス)此レ母は和田義盛女也故、
児島盛綱ー信実ー時秀ー東郷胤時ー女紀家弘室ー女児島範長ー女頼宴室ー児島高徳トゾ

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315.紀家弘系譜女は足利尊氏の男に嫁三代将軍足利足利義満
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:4月22日(日) 9時59分
児島範長と紀家弘と母 ... 東郷胤時甥 子児島高徳 紀家弘の女は足利尊氏の男に嫁し、三代将軍足利足利義満となる。
三代将軍足利足利義満となる。
高徳とはいとこにあたる。
紀家弘 後光厳天皇の第二皇子。母は、広橋兼綱の娘、藤原仲子。仲子の姉妹の紀良子は足利義満の母で、後円融天皇と義満は母系

仲子は権大納言広橋兼綱の猶子となり、内裏に出仕して三位局、中納言典侍、梅町殿などとよばれ、北朝の後光厳天皇の寵愛をうけ、後円融天皇を生み奉り准三后となり、のち国母として弘和三年(一三八三)四月二十五日、女院号
左大臣 藤原(広橋) 兼綱 (姉妹)室町3代将軍義満母 紀良子

石清水八幡宮祠官・通清の女。左大臣藤原(広橋)兼綱の猶子となり、藤原(広橋)仲子とも記されます。
.後円融天皇即位の後、45才で准三后。48才で院号宣下あり崇賢門院と号し、本封の外に邑五〇〇戸を加えられました。 92才で崩ずる。一説に89才、また94才で崩じたともいわれます。
.『新後拾遺集』以下に八首入集。

後光厳天皇后妃
[女院]:紀 仲子..1336〜1427
.<姓又は藤原, 崇賢門院、号:中納言典侍・梅町殿>
父:石清水八幡宮祠官法印 通清
代父:左大臣 藤原(広橋) 兼綱
(姉妹)室町3代将軍義満母 紀良子
1357(22才) この頃、後光厳天皇(20才)に入侍か
1358(23才) 緒仁親王(後円融天皇)を生む
1371(36才) 後光厳天皇退位、後円融天皇即位
1374(39才) 後光厳上皇(37才)没
1380(45才) 准三后(1月)
1382(47才) 後円融天皇退位、孫・後小松天皇即位
1383(48才) 女院(崇賢門院)となる(4月25日)
1393(58才) 後円融上皇没
1412(77才) 後小松天皇退位、曾孫・称光天皇即位
1427(92才) 崩御〔5月20日〕
(華開院の墓所に葬られる)
所生の皇子女
1358〜1393.. 緒仁(後円融天皇;在位1371〜1382)
1362〜1437.. 永助入道親王[熙永親王](仁和寺御室)
1363〜1430.. 尭仁法親王(天台座主・四天王寺別当)
1371〜1388.. 尭性法親王(妙法院門跡)



相国寺
... 足利義満の創建です 足利将軍家ゆかりの禅寺で、 足利義満の 金閣寺(鹿苑寺) と、足利義政の 銀閣寺(慈照寺) は、 相国寺 の境外塔頭です いづれも、夢窓疎石が勧請開山になっています 相国寺 の初代住職は春屋妙葩です

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487.Re: 大徳寺高東院の由来
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:4月23日(木) 14時23分
朝次弥平次高東院葬るー信晴高東院葬るー信盛高東院葬るー信栄(正勝)高東院葬る。

住職松長剛山氏によれば、 高東院の紋は五三桐であるが、元々信栄(正勝)家の紋章は十六葉菊紋と、 五三桐である。
この紋章は宮家事、児島高徳胤だけの、紋章である。

これによると、細川家の紋所とは、九曜紋であり、この寺高東院の由来、は、宮家にゆかりのある、佐久間平山家の菩提所である事が判る。
高東院には歌舞伎の始祖として名高い、出雲の阿国の墓もあります。

出雲の阿国・その恋人吊古屋山三郎の菩提所
高東院と総合して、高桐院になったと見られる。
桃山時代が終焉し、東都江戸に、主信栄が江戸城に移った後、玉甫紹j(幽斎の弟)に託したのであろう。
ニ家の菩提所、とはならない、と見ている。

そこで、高東院主の事から進めていきたい。
高東院主とは、
大徳寺創建よりずっと、引き継いできた家が存在していた。

これが高東院の主である。
寛政系譜によれば、佐久間氏項に記されている。
佐久間朝次して、家系を語らずと載せているのも、天海僧正も将軍家光も知っての事で、そう記させていた。
何か秘密があっての事でしょう。

院主については、代々が此処を本拠として、住んでいたようである。
院主は勿論高東院主で寺名も以前から記されている事代々高東院に葬るとある。

又院主について、佐久間信栄紫野に住すと載せている事から、想像してもわかる。
住職松長剛山氏によれば、
信栄(正勝)の死にあたり、三渕家の者供が殉死したと、話されていた。

ここに、初めて三渕家が高東院に携わって居た事になる。
この時殉死したのは信栄(正勝)周辺に埋葬されていると、語られた。
歌舞伎役者お国も回りに埋葬されているところから、何らかの関わりがあったのであろうか?

関わりがないのであれば、細川家の墓は今も現存していないはずだ。

縁もゆかりもないのであれば、ここ高東院に埋葬はされないはず?
高東院の紋は五三桐であるが、元々信栄(正勝)家の紋章は十六葉菊紋と五三桐である。

これは神文とされ、古代より天皇紋として使われていたもので、信栄
(正勝)祖の後鳥羽院からの受け継ぎ紋である。
次助定頼は本姓三渕、祖父は 長岡重政、曽祖父が三渕好重つまり細川藤孝の弟である。
永禄八年、細川兵部大輔藤孝に従った十九歳の松井康之。

細川藤孝は、兵部大輔藤孝として将軍足利義晴、義輝、織田信長に仕え、幽齋玄旨と号した。
(藤孝が三渕晴員の子で養子。
藤孝の細川は傍流であること、藤孝と阿波細川氏は交流が無かったこと(藤孝が三渕晴員の子で養子だった。

高桐院…開基/玉甫紹j(幽斎の弟)建立者/細川忠興 (“茶の湯塔頭”の元)
細川忠興(三斎)が叔父(父の弟)の玉甫紹j(ぎょくほじょうそう)
を開祖として慶長6年(1601)に父藤孝(幽斎)の菩提所として建立した
寺である。


昭和18年 大阪府能勢町生まれ
昭和25年 大阪府長杉寺 松長元祥に就いて得度
のち 京都建仁寺僧堂で、竹田益州に参禅
昭和46年 大徳寺塔頭高桐院 住職

三重県上野市龍王寺住職を兼務
大徳寺禅語録集成編纂委員
久田流有栖川系茶道13代家元
細川三斉流茶道顧問

故に、


松長剛山
電話番号
075-492-0068
住所
〒 603-8231 京都府京都市北区紫野大徳寺町73
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488.Re: 大徳寺高東院の由来と細川の関係の始まり
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:4月23日(木) 16時6分
細川家の場合、忠興が関ヶ原の褒賞として豊前一国を与えられ、忠興が関ヶ原の褒賞として豊前一国を与えられた。
その8代前の頼有が細川宗家(室町幕府の管領家)から分かれ、和泉上守護家となった
4代前の義季が三河国細川郷を所領としたことから、義季からが細川家という。
細川でも藤孝と最後の管領家の晴元をひっぱるのが、細川が系譜上の開祖は足利家から分かれた義清であった。
ここには、三渕家は高東院葬る、とはなっいない。

「三渕家と高東院」
康之は義輝の弟奈良興福寺一乗院覚慶(足利義昭)を助け出して、将軍擁立を謀っている細川藤孝と行動を共にするため、近江矢島に足利義昭を訪ねた。
足利義昭は、細川藤孝や明智光秀の推挙によって、織田信長に担がれて上洛、将軍職に就く。

足利義昭は、細川藤孝の縁故者
藤孝が丹後国十二万石の大名になる
足利義晴の子藤孝母清原宣賢女
?父・三渕晴員・養父細川元常となった。
男子・与一郎忠興(初代)
                頓五郎興元(茂木矢田部藩主)
                刑部少輔幸隆
                與十郎孝之
                蓮丸(夭折)
            女子・伊也(一色義有室、後吉田兼治再嫁)
                加賀(木下右衛門大夫正俊室)
                千 (長岡與九郎室、小笠原再嫁)
                栗 (三渕伊賀守好重室)                                
                仁伊(早世・十六歳)

伊賀国住藤孝天文三年(1534)四月廿二日、洛東三渕晴員別墅にて生る。ここには、まだ高東院には、関係していない。

天文八年(1539)六月将軍義晴命により細川元常養子とす5歳
31歳流寓四年、織田信長に託し共に京都に入り将軍に擁立する(十五代将軍義昭)
三渕晴員(藤孝実父、足利家)

吉田兼倶ー清原宣賢ー女三渕晴員室となるー細川藤孝

文禄二年(1593)二月四日付け兼見卿記に、次のような一行が有る。
      「侍従女房衆与一郎内儀へ昨日見舞、今夕帰宅」 
侍従女房とは、幽齋女・忠興の妹伊彌(伊也)のことである。
永禄十一年(1568)の生まれであるから、この年26歳。与一郎内儀とは、いわずと知れたガラシャ夫人(玉)である。

昔の婚姻は、縁故者から、の習わしがあった、この為、清原宣賢女三渕晴員室となる、そして、細川藤孝が生まれた。
実母は、清原宣賢女とある記録から、細川藤孝は女系を吉田兼倶胤となり、父三渕晴員の後を、継いだ事になる。

ここには、三渕晴員は、細川氏は足利氏の支流であった。
三河国額田郡細川(現在の愛知県岡崎市細川町)に土着したことに由来する。室町時代には四国を中心に8ヶ国の守護を占め、斯波氏・畠山氏と共に、細川氏宗家である細川京兆(けいちょう)家が、三管領の一つとなる。

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489.大徳寺高東院の由来と細川の関係の始まり
名前:児島宮歴史倶楽部    日付:4月23日(木) 16時6分
ここで桐紋であるが、三渕細川家は、桐紋ではない事から、妻の家の紋章である事が判る。
足利氏祖二代目の妻良子も、紀氏であり、桐紋ではない。
宗家だけに、許される紋章である。
細川頼之は細川宗家(京兆家)の出身であり、管領として足利義満を補佐した。

細川宗家「藩祖」の初代は忠興となった。これからが、高桐院の始まりで、細川忠興(三斎)が叔父(父の弟)の玉甫紹j(ぎょくほじょうそう)を開祖として慶長6年(1601)に父藤孝(幽斎)の菩提所として建立した寺名である。
藤孝(幽斎)の祖は、足利義満支流?であっても、細川頼之は細川宗家(京兆家)の出身になり、食い違いが生じる。
足利氏の一門である細川氏頼之・『前賢故実』より
細川頼之兄弟細川頼有、詮春、頼元、満之

義詮が死の直前、枕元に二人を呼び『頼之、汝に一子を与える』『春王足利義満、汝に父を与える』と言い残している。1329年〜1392年

細川頼春の子ー頼之幼少の将軍足利義満を補佐四国の讃岐へ帰った海南の讃岐へ帰った日本外史』卷之十にある。剃髪して常久と号したときに作ったとある。海南の讃岐へ帰った元徳元年(1329年) - 元中9年/明徳3年3月2日(1392年3月25日)) 細川氏の嫡流 細川京兆家。幼名は弥九郎。ー子 基之、頼之弟頼元 ー

頼之は義満から退去命令を受けて一族を連れて領国の四国へ落ちて行き、その途上で出家した。後任の管領には斯波義将が就任し、幕府人事も斯波派に改められ、一部の政策は覆された。
義満は、幕府役職にない頼之が幕政に参画しやすくするために、将軍の私的な会合に近かった御前沙汰を開催して僧侶である頼之を加えた形式で幕府の重要事項の審議を行った。義満が嫡男足利義持に将軍職を譲って出家。
義満死去直前に後小松天皇が「北山第」に御成した際も、義満が寵愛した異母弟の義嗣は天皇に謁見したが、義持自身は京都警備番をさせられる。義持は2代将軍足利義詮の住んでいた三条坊門邸母方(京都市中京区)へ移っている。
義持弟の義嗣を相国寺等に幽閉、2年後の1418年(応永25年)に殺害
義持子の義量に将軍職を譲る。義持の死後、籤によって将軍職は義教が継ぐ。
応永30年(1423年):足利義量正長2年(1429年):足利義教
嘉吉2年(1442年):足利義勝
文安6年(1449年):足利義政

文明5年(1473年):足利義尚延徳2年(1490年):足利義材
明応10年(1494年):足利義澄
永正5年(1508年):足利義稙

大永元年(1521年):足利義晴天文15年(1546年):足利義輝
永禄11年(1568年):足利義栄
永禄11年(1568年):足利義昭

「ここに、高東院の真実」の、
佐久間朝次ー甚九郎信晴天文十一年歿高東院葬るー甚九郎信盛宗祏高東
院葬る。であり、信栄(正勝)高東院葬るに際して、三渕殉死とある事から、三渕の臣下の礼を、とってからの、細川忠興からの、高東院である事は、疑いなし。

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