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天城五兵衛の掲示板・其の壱
沖浦克治氏親子の唱える、所謂「人本仏迹論」を、学会教学の基本的な観点から考える

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36.其の参拾六  
名前:天城五兵衛    日付:4月1日(水) 23時42分
沖浦氏が持論の正当性を裏付ける論拠の提出が出来ない以上、私が下した今回の結論を否定する事は出来ない。

すなわち、
沖浦説では、日蓮仏法の重要な教判である「総別の二義」を説明出来ない。
沖浦説では、仏法の基本である「而二不二」の義を説明出来ない。
沖浦説では、日蓮仏法の「人法一箇」の義を全く説明出来ない。
沖浦説では、創価学会の根本である「師弟不二」論から逸脱してしまう。


沖浦氏は速やかに持論である所謂「人本仏迹論」の誤りを認め、撤回した上で、本件に関して忠言をして来られた創価学会諸氏に対して、公式に謝罪する事をお勧めする。

尚、当掲示板は、沖浦両氏の人格を否定、批判を目的とするものではなく、あくまでも両氏の「人本仏迹論」の検証である事を、改めて明記しておく。

35.其の参拾五  
名前:天城五兵衛    日付:4月1日(水) 23時40分
第四の結論。
沖浦説では、創価学会の根本である「師弟不二」論から逸脱してしまう。

時代の経過と共に新たな史料・文献の発見等により、今まで常識、通説とされてきた学説が覆る事がよくある。日蓮仏法においても、それは同じ事だ。しかし、確固たる学術的な根拠も乏しく、非合理的な教義解釈は、我見の教学と断じられる。

昨年(2008年)10月より、富士宮ボーイ掲示板並びに若鷹の掲示板において、沖浦氏親子に対して、所謂「人本仏迹論」の論理的な裏付けの提示を求めてきた。今日に至るまでその提示がない以上、氏の説は「我見の教学」である事は明らかである。

この様に根拠の無い我見がなされるのは何故か?――その回答が「池田名誉会長講義勝利の経典『御書』に学ぶ――佐渡御書(下)」に掲載されているので(大白蓮華2009年3月号)、該当部分を引用して現時点での最終結論とさせて頂く。「我見の教学」は「師弟不二」を離れた増上慢の論である。「而二不二」を説明出来ない以上「師弟不二」も然りである。

*******(ここから「大白蓮華2009年3月号:55頁から」)

 ここで「日蓮一人釈迦仏とならざるべき」と示されている元意は、弟子のためです。大聖人と同じく難を乗り越え、折伏行を貫くならば、弟子もまた、必ず成仏できるとの師弟不二の原理を示されたものと拝されます。

 偉大な先人と平凡な自分では、当然ながら「人」が違う。境遇も、性格も、才能も異なる。しかし、「因」となる修行、行動を同じくしていけば、同じ結果を得ることができる。それが仏法の「師弟の因果」です。

 師匠の智慧と慈悲に弟子たちが到底、及ばないと思っても、師匠と「同じ誓願」「同じ理想」「同じ行動」を貫くならば、必ず師匠と同じ境涯に達することができる。

 これが、法華経に説かれる「師弟不二」の成仏への軌道です。
(中略)
 しかし、一番問題なのは、増上慢の弟子たちであることが指摘されています。

 最初から正法を信じることなく誹諾する人間よりも、いったん門下となりながら、心を翻し、あまつさえ、「我賢し」と思い上がって離れていく人間のほうが、はるかに罪が重い。報いも厳しい。

 しかも、無明の生命が増長した弟子は、他の門下に働きかけ、大勢を退転させようとする。それが第六天の魔王の恐ろしさです。

 大聖人は「大魔のつきたる者どもは一人をけうくんしをとしつれば・それをひつかけにして多くの人をせめをとすなり」(1539頁)と仰せです。

 せっかく信心していながら、第六天の魔王に生命を支配されてしまう。その根本の理由は「慢心」であり、その本性は、師匠をないがしろにする「嫉妬」である。

 「かへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人」との御教示は、日蓮門下の永遠の訓戒です。

 仏法の因果の理法だけは、間違いない永遠の法則です。「妙法の因果」に則った人は、永遠に栄えます。末法万年尽未来際まで、一家昔属に福徳が伝わっていきます。

 反対に、師弟を忘れ、破和合僧と化した人が「念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん」となることも、御本仏の御断言であられる。
(中略)
 増上慢の人間は、仏の教えに何か我見を付け加えようとするものです。釈尊が「十八界」と説けば、修羅は一つ加えて「十九界だ」と威張る。仏が一究竟道(ただ一つの成仏の道)を説けば、外道は「我は九十五究竟道を説くのだ」と勝ち誇る。

 こうした愚人らと同じく、師匠を見下した者たちは、「日蓮の御房は師匠であられるけれども、あまりに強引である。我らはもっと柔らかに法華経を弘めよう」などと言っていた。彼らは、一見、「法華経は捨てていない」つもりで、実は、最も大事な「法華経の心」を完全に失っていた。だから、法華経を弘通する師匠の偉大さに、全く気づかなかったのです。

 仏法の眼から見るならば、佐渡流罪などの大難の本質は、第六天の魔王が権力者らの身にとり入って、大聖人と門下との「師弟」の間を引き裂くことにありました。

 「師弟」によって、妙法の威光勢力は増し、「師弟」によって、令法久住の命脈は強く広がり、「師弟」によって、仏法の根本目的たる、一切衆生の幸福と平和の大道が開かれるからです。

 その意味で、一見、賢く立ち居振る舞い、大聖人を批判して、難を逃れた人間こそ、第六天の魔王に「完敗」したのです。最も大切な「師弟の魂」の座を、魔性に明け渡してしまったからです。

 螢火が日月を笑い、蟻塚が華山を下し、井江が河海を侮り、烏鵲が鸞鳳を笑うようなものだ!──大聖人の大音声が聞こえてくるようではありませんか。

(ここまで引用「大白蓮華2009年3月号:58頁まで」)*******

34.其の参拾四  
名前:天城五兵衛    日付:4月1日(水) 23時36分
*******(ここから「生死一大事血脈抄講義・90頁」から引用)
  「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無し」とは、真実の仏の本質も、真実の仏法の本質も、そして、私たち衆生の生命の本質も「仏界の生死」にほかならない、ということです。

 自分自身が、「久遠実成の釈尊」と「皆成仏道の法華経」と全く差別がないと理解し確信して、南無妙法蓮華経と唱えてこそ、私たちもまた、三世永遠に「仏界の生死」に連なることができるのです。

 「全く差別無し」です。いささかでも違いがあると思うのは、無明から生じた迷いの生命です。自身が「仏界の生死」を貫く当体であると捉えてこそ、日蓮大聖人の仏法を真に実践することになります。

 そして、「全く差別無しと解りて」とあります。「解りて」とは単に頭で分かるということではなく、「信解」すなわち「信に基づく理解」「心からの納得」でなければなりません。

 生命の奥底で深く納得するためには、不惜身命の実践が不可欠です。決定した信心で広宣流布のために戦ってこられた学会員の方々には、その戦いの中に「信解」が脈打っています。地涌の菩薩として、南無妙法蓮華経を弘める使命に生き、悔いなく戦い切っている姿に、すでに「久遠実成の釈尊」「皆成仏道の法華経」と全く等しい南無妙法蓮華経の仏界の大生命が涌現しているのです。

 一人一人が妙法の当体として、日蓮大聖人即御本尊の生命が赫々と涌現し、妙法と一体の生命活動を繰り広げているのです。

 今世で妙法と一体化した生命は、死後もまた、妙法と一体化し、次の「生」もまた、妙法の使命を果たす「生」となります。それが「仏界の生死」の本然の姿であり、慈悲の行業に生ききっていく生命です。

 凡夫がこの境地に到達するために、大聖人は南無妙法蓮華経を唱え弘められました。大聖人と同じく妙法を唱え弘める大聖人門下には「生死一大事の血脈」の法が流れ通い、「仏界の生死」に直ちに連なることができる。また、そのための日蓮大聖人の仏法の信仰です。ゆえに「此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり」とも「法華経を持つとは是なり」とも仰せられているのです。

 「弟子檀那等の肝要」−−弟子の道の根本とは、何か。
 仏の願いであり、日蓮大聖人の大願である広宣流布に生きることです。
 法華経の精神、すなわち、万人成仏の実践に生きることです。
 その中に「仏界の生死」の法が脈動するのです。それでこそ、真の意味で「法華経を持つ」といえるのです。

(ここまで「生死一大事血脈抄講義・93頁」から引用)*******

33.其の参拾参  
名前:天城五兵衛    日付:4月1日(水) 23時36分
「生死一大事血脈抄」の一説が引用されたので、ここでは、池田先生の講義を引用しよう。1977年4月、池田会長(当時)は、「諸法実相抄」の講義に続き、「生死一大事血脈抄」の講義をされ、聖教新聞に掲載されると共に小冊子が発行された。下記に、当該箇所の池田会長(当時)の講義を引用するので、閲覧者の皆様には熟読頂き、どちらが「カルト」か判断頂きたい。尚、この講義冊子は現在入手不可能なため、入手可能な「生死一大事血脈抄講義」(聖教新聞社:2008年刊)を併せて引用する。

*******(ここから「生死一大事血脈抄」の池田会長講義から引用)

 したがって、この 「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ」という表現は、一往、法華経本門の五百塵点劫成道の釈尊と、二十八品の法華経と、我等衆生とみられましょうが、再往、元意の辺は、久遠元初の自受用報身如来即、日蓮大聖人と、文底独一本門の大御本尊と、そして私どもの生命とがともに南無妙法蓮華経であり、この三つは全く差別はないと“解りて”と拝すべきであります。

 これを、差別があると思っていくのは、真実の仏法ではありません。仏はすばらしい、特別な存在であるとし、我々衆生は、卑しく醜い存在であって、とうてい仏になどなれるはずがない、と考えるのは大なる誤りであります。

 また、法華経は、架空の儀式、説法であり、今日の我々の生活や人生とは全く無縁のものであるとするのも、この御文のお心に背いているといわなければなりません。

 いわんや、文底の立場で、日蓮大聖人と我々の間に、越えることのできない隔絶があるように考えたり、御本尊をよそに見ていくこともまた、自ら「生死一大事の血脈」を途絶していることになるのであります。

 しかしながら、この「三つ全く差別無しと解りて」といっても、それを事実のうえで“解る”──理解するというところまでは達していないのが凡夫であります。その場合“解りて”とはどういうことかといえば「以信得入」「以信代慧」と示されるごとく「深く信心をとって」ということになるのであります。

 ともかく、御本仏日蓮大聖人のご生命も南無妙法蓮華経であり、その大聖人のご生命をそのまま「すみにそめながして・かきて侯」と仰せられている御本尊も南無妙法蓮華経である。そして、もったいないことでありますが、私ども一人一人の生命もまた、同じ南無妙法蓮華経であると、こう信じて、南無妙法蓮華経と唱えるとき、私どもの生命に生死一大事の血脈、すなわち南無妙法蓮華経の大生命が脈々と涌現しくるのであります。

 これこそが、日蓮大聖人の弟子檀那──すなわち日蓮大聖人の仏法を実践する者にとっての肝要である。「法華経を持つとは是なり」──これ以外にないということなのであります。

「生死一大事血脈抄」の池田会長講義 36頁〜38頁(聖教新聞社・1977年4月掲載分)

(ここまで「生死一大事血脈抄」の池田会長講義から引用)*******

32.其の参拾弐  
名前:天城五兵衛    日付:4月1日(水) 23時33分
第三の結論。
沖浦説では、日蓮仏法の「人法一箇」の義を全く説明出来ない。

先に挙げた「而二不二」の類義語として、日蓮仏法には「人法一箇」という重要な教義がある。日蓮仏法において、人本尊(日蓮大聖人)と法本尊(南無妙法蓮華経)とは名前は異なるが、その体は同一であるとしている。
1976年聖教新聞社発行の「日蓮大聖人御書辞典」には「人法一箇」について下記の通り書かれている。
「即ち南無妙法蓮華経の法本尊は、人本尊である日蓮大聖人の生命をそのまま一幅の曼荼羅として図顕したものであり、大聖人の大慈悲の生命は南無妙法蓮華経の本尊として万年の未来にまで現存する」(853頁)

末法の御本仏・日蓮大聖人の図顕された「御本尊」は、そのまま日蓮大聖人の生命の当体である事は、十如実相・一念三千の原理から理解出来よう。

この解釈に対して、沖浦氏は新説を提唱した。
*******(ここから「沖浦板2」から引用)

238 :沖浦克治:2009/03/06(金) 06:44:30 ID:AJ3hr85o0

邪義の典型をあげておきます。マグマグさん、およみなさいね。以下はもくれんさんの邪義です。
(天城五兵衛注:ここから「もくれん」さんの投稿と思われる)
>「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」

日蓮大聖人と曼荼羅本尊と我ら衆生は、本来差別なく、あとは「信」の一字が絶対必要なわけですね。ですからあえて言えば、全部「本」ですね。曼荼羅と衆生に「本・迹」関係は、絶対に成立しません。正式な「本・迹」の使い方をすればですが、自己流の「本迹」使用については「言語道断」以外の言葉はありません。
(天城五兵衛注:ここまでが「もくれん」さんの投稿と思われる)

 皆成仏道の法華経が、曼荼羅本尊となっていますね。これは明らかな邪義ですよ。曼荼羅は法華経ではありません。末法の法華経はお題目です。御書に明確ですね。もくれんさんは根本的に仏法を理解できていません。
 
 『法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし、日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし』  (経王殿御返事)

 大聖人様がご自身でお曼荼羅を顕され、ご自身が魂を墨に染め流して。書いたと仰せで、なおその魂の込められた曼荼羅を、法華経ではなく、法華経の剣。と、明確にご指南なされておられます。それを、勝手に私共が、曼荼羅が法華経だ。とい言うことは邪義です。
何故、曼荼羅が法華経といわれるか?宗門正当化の邪義なんです。寺ではそう言うでしょう。しかし、創価思想は違うのです。曼荼羅は道具なんです。剣は道具ですね。この単純明快な道理が理解できない。カルトなんですよ。

私が曼荼羅を道具だと言う。御本尊様を軽視している。これもね、邪義です。大聖人様は人間ですね。大聖人様が人間だと言えば軽視ですか?同じことですよ。蓮祖は人間、曼荼羅は道具。
事実を言っていると軽視で邪義。この人たちはね、天動説です。地球は神が作った。だから宇宙の中心であるべきだ。その地球が動くなどは、神を軽視する異教徒だ。火あぶりにせよ。

 もくれんさんたちのことですよ。カルトはいけませんね。

(ここまで「沖浦板2」から引用)*******
引用に際しては、改行位置やインデントの一部を見易い様に修正したが、原文はそのままである。

沖浦氏は、日蓮大聖人が御図顕された御本尊を「法華経」ではなく「道具」という新説を主張し、従来の創価学会の主張をカルト呼ばわりしている。この投稿は、本年3月になされているが、沖浦説の根拠となる文証並びに理証の提示を昨年十月から要求しているにも拘らず、今日まで回答がない以上、氏の新説は「根拠の無い単なる思いつき」でしかない。

31.其の参拾壱  
名前:天城五兵衛    日付:4月1日(水) 23時32分
第二の結論。
沖浦説では、仏法の基本である「而二不二」の義を説明出来ない。

「人本仏迹論」にもある通り、沖浦氏は「色心不二」「依正不二」をはじめ、この「而二不二」の関係を全く理解出来ていない事を自ら証明している。

「而二不二」とは、「二にして二ならず」と読む。出典は妙楽大師の「法華玄義釈籤」で、意味するところは、「一往は二つのものであるが、再往は一体のものであること」(御書辞典)。

私達に即して「而二不二」述べれば、身体が「色法」で、精神が「心法」、生命それ自体は「色心不二」と定義される。
「又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり(御義口伝:708頁)

自分と取り巻く環境に即せば、自分が「正報」で、環境が「依報」、その関係は「依正不二」である。
「夫十方は依報なり衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし身なくば影なし正報なくば依報なし又正報をば依報をもつて此れをつくる」(瑞相御書:1140頁)

先に引用した沖浦氏の「人本仏迹論」と比較すれば、氏の誤謬が一目で瞭然とする。

第二次宗門事件を契機に、創価学会は「創価ルネサンス運動」と題する「平成の宗教改革」を断行し、葬式仏教からの完全離脱を図った。日顕宗と化した日蓮正宗からの独立によって、従来の宗教的禁忌や呪縛を打ち破り、日蓮仏法本来の姿である「生前の成仏」を堂々と主張する事になったのである。今では当たり前になった「友人葬」や「同志葬」では、在家が導師となり葬儀を執り行ない、大聖人の御金言「いきてをはしき時は生の仏今は死の仏生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり」(上野殿後家尼御返事:1504頁)が語られることが多い。「生死不二」「生前の成仏」の御金言である。

「而二不二」に基づく仏法用語として、「生死不二」「師弟不二」「迷悟不二」「生仏不二」等たくさんある。類義語として「仏界即九界」「九界即仏界」「人法一箇」「生仏一如」なども挙げられよう。後学のために、御書辞典や仏教哲学大辞典などで調べて頂くと有り難い。

30.其の参拾  
名前:天城五兵衛    日付:4月1日(水) 23時31分
「総別の二義」から、御金言を考えてみたい。日蓮大聖人が「諸法実相抄」と同時期に著された「当体義抄」は、より理解し易く、明瞭なので引用する。

「問う妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華経の当体なり、問う若爾れば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わる可きか、答う勿論なり」(御書510頁)

ここでは確かに、「一切衆生は妙法蓮華経の当体」と明言されているが、更に続けて読めば次の様に著されている。

「問う一切衆生皆悉く妙法蓮華経の当体ならば我等が如き愚癡闇鈍の凡夫も即ち妙法の当体なりや、答う当世の諸人之れ多しと雖も二人を出でず謂ゆる権教の人実教の人なり而も権教方便の念仏等を信ずる人は妙法蓮華の当体と云わる可からず」(御書511頁)
「所詮妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是なり、(中略)本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり是れ即ち法華の当体自在神力の顕わす所の功能なり敢て之を疑う可からず之を疑う可からず」(御書512頁)

「総別の二義」の「別義」が上記に該当する。即ち、「一切衆生は妙法蓮華経の当体とは限らない」。「妙法蓮華経の当体とは日蓮大聖人並びに弟子檀那」に限定されている。更に、沖浦氏が「害毒」と指摘する日寛上人は「日蓮が弟子檀那等の中の事なり」の「中」について「正信にあたる」と読まれている。つまり、学会員であっても信心に疑問を持って広宣流布の戦いをしない人は、「妙法蓮華経の当体ではない」のである。

更に、大聖人は妙法蓮華経の当体について、もう一歩踏み込んで別義を著されている。
「問う劫初より已来何人か当体の蓮華を証得せしや、答う釈尊五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し給えり」

すなわち、日蓮大聖人お一人が、久遠元初以来無始無終の当体蓮華の仏であると宣言されている。これを日寛上人は「両重の総別」とされ、創価学会教学に引き継がれている。

御義口伝には「今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(御書752頁)と著されている。ここも「総別の二義」から読む必要がある。即ち、一切衆生は仏であるが、一歩踏み込めば、日蓮大聖人とその弟子、檀那が仏である。敷衍すれば、日蓮大聖人お一人こそが無作三身の末法の法華経の行者であり、南無妙法蓮華経如来の宝号の本仏である。

以上の様に、創価学会教学では「総別の二義」に則った上で、妙法蓮華経の当体を明らかにしているが、「一切衆生を仏」と一義的に捉えている沖浦説は、創価学会教学から逸脱した解釈である事は明らかだ。換言すれば、沖浦氏親子は、日蓮大聖人が御指南された「総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん」説を展開していることになる。沖浦説が大変な誤解の上に構築されている事を、閲覧者の方々も容易に理解が出来よう。

29.其の弐拾九  
名前:天城五兵衛    日付:4月1日(水) 23時30分
沖浦氏の持論である、所謂「人本仏迹論」の文証を要求してきたが、残念ながら本日(2009年3月31日)に至るまで回答を頂けなかった。代わりに、枝葉末節な投稿等を頂いている。いつまでも待っていても仕方が無いので、「沖浦氏は回答不能」と言う条件で、同氏の所謂「人本仏迹論」に対する本日時点の私の最終結論を投稿しておく。

はじめに、結論から述べておく。
沖浦説では、日蓮仏法の重要な教判である「総別の二義」を説明出来ない。
沖浦説では、仏法の基本である「而二不二」の義を説明出来ない。
沖浦説では、日蓮仏法の「人法一箇」の義を全く説明出来ない。
沖浦説では、創価学会の根本である「師弟不二」論から逸脱してしまう。


それでは、第一の結論から論じる。
沖浦説では、日蓮仏法の重要な教判である「総別の二義」を説明出来ない。

「総別の二義」については、本年三月号の「大白蓮華」の研修教材として取り上げられているので(「曾谷殿御返事」)、熟読して頂きたい。
日蓮大聖人が「又是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん」(御書1055頁)と仰られている程、日蓮仏法を理解する上で極めて重要な教判である。用語の意味は、「総体的な観点を『総』とし、更に一重深く立ち入った観点を『別』とする義」である。同義語として、かつては池田先生も指導の際によく使用されていた「一往と再往」がある。実は、この「総別の二義」の意味は「本門と迹門」「文上と文底」にも共通している。

これを踏まえて、「人本仏迹論」を展開する上で沖浦氏が引用して来た文証を確認してみよう。はじめに、当掲示板の投稿No.24で、沖浦氏が引用した「法華経の智慧」の中の「諸法実相抄」である。

「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備え給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(御書1358頁)
「本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり」(御書1359頁)

この御金言を基にして、「凡夫こそ本仏であり、仏は迹仏である」と沖浦氏は述べている。このため、法華講員の邪難に対して何ら反論出来ないでいる様だ(法華講員の論難サイトは「創価教義検証館」の中の「1・『凡夫こそ本仏』の大宣言を破す」)。

然しながら、創価学会教学ではこの「諸法実相抄」で著されている「凡夫」は日蓮大聖人、「仏」は釈尊をはじめとする三世十方の諸仏と解釈する。
「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり」(御義口伝:御書766頁)

故に、法華講員の邪難も結局のところ、第一次宗門事件の際に決着済みの「池田会長本仏論」の蒸し返しでしかないことは、まともな創価学会員なら簡単に理解出来る。

次に、沖浦氏自身の主宰する「創価学会非公認非公式掲示板−U」(以下「沖浦板2」と略す)を引用してみる。こちらも「諸法実相抄」である。

*******(ここから引用)

2009/03/17(火) 06:24:09
(略)
『実相と云うは妙法蓮華経の異名なり諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は 仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり、』 (諸法実相抄)

実相と言うのは妙法です。諸法が妙法だと言うことです。諸法とは世間一切の法社会活動、生命の動き、あらゆる現象です。それがそのまま妙法なんだよ、どこか遠いところに極楽のような理想社会があるんじゃないよ。このようにご指南ですね。

地獄は地獄のまま、妙法蓮華経の当体なんだ。仏は仏の姿、凡夫は凡夫の姿、そのままで妙法の当体だよ。仏法を修行する事で何か違った存在になる事ではないのですよ。貴方方はそのままの姿が元々の仏様なんですよ。あらゆる物の本質が妙法蓮華経で差別はないんだよ。

このように仰せですね。俺は創価学会員で池田先生の弟子だから偉いんだ。これはこの御文から間違いです。一切衆生が仏様です。他者を誹謗中傷することはこの御文に背く謗法です。

(引用ここまで)*******

28.其の弐拾八  
名前:天城五兵衛    日付:3月4日(水) 18時50分
沖浦氏の主張に「曼荼羅原理主義者」、「仏本人迹論者」という表現が見受けられる。これらの表現は、沖浦氏の持論である所謂「人本仏迹論」に対し、創価学会教学の観点から疑問を呈し、問題的を投げかけた人々(私も含め)を指す様である。

然しながら、創価学会教学では、「御本尊は人間よりも優れている」だの「仏は人間の上に君臨する」様な教えは一切ないし、過去から沖浦氏に忠言をしてきた創価学会員諸氏の投稿を然りである。沖浦氏は、何を以って「曼荼羅原理主義者」、「仏本人迹論者」と揶揄するのか?そしてその意味することは何であるのか?

実は、過去の沖浦耕治氏の「若鷹の掲示板」での投稿に、この問題を解くヒントが隠されていた。

(ここから「若鷹の掲示板」から引用)*******

26523.天城さんはにげない
名前:耕治 日付:10月28日(火) 15時26分
(前略)
創価の看板を上げているに、逃げるなど許されるわけがない
戦いのテーマは以下

沖浦克治主張
1、虚空会が迹で、写し取った曼荼羅が迹は理の当然である。
2、仏法が人間のためなら、人間が本。仏法が迹。
3、ご本仏と言えども、この世の関係では私が本、大聖人様が迹。
4、曼荼羅が本。これね、邪義ですよ。

これに対して、天城氏は論難を挑み、文、理を要求した。
この時点で、天城氏は
1、虚空会が本で、写し取った曼荼羅も本は理の当然である。
2、仏法は人のためにはあらず、仏法が本、人間が迹。
3、この世の関係といえど。御本仏が本、私たちが迹。
4、曼荼羅が本。

と主張していることになる。ならないというのであれば、常軌の設問はありえない。
たとえば、御本仏は大聖人様か?
という設問を上記でするものは、大聖人様が御本仏でないと考えていることになる。

整頓する

天城氏主張
1、虚空会が本で、写し取った曼荼羅も本は理の当然である。
2、仏法は人のためにはあらず、仏法が本、人間が迹。
3、この世の関係といえど。御本仏が本、私たちが迹。
4、曼荼羅が本。

沖浦克治主張
1、虚空会が迹で、写し取った曼荼羅が迹は理の当然である。
2、仏法が人間のためなら、人間が本。仏法が迹。
3、ご本仏と言えども、この世の関係では私が本、大聖人様が迹。
4、曼荼羅が本。これね、邪義ですよ。

*******(ここまで「若鷹の掲示板」から引用)
本件に殆ど関係のない箇所と一部改行を省略した外は、投稿のままである。

引用は沖浦耕治氏の投稿だが、主張内容は父親の沖浦克治氏と全く同一である。

この投稿を一読すれば、一目瞭然で沖浦氏親子が極めて短絡的な思考をする事が分かる。「二者択一的」な思考回路の持ち主かと疑問を禁じえない。

確かに、沖浦氏の主張は従来の通りであると思えるが、私の主張は全く反映されていない。
一体いつ、私が「仏法が本、人間が迹」だの「曼荼羅が本」等と主張したのか?全く身に覚えがないのである。沖浦氏に忠言をした学会論師の主張も同様に、「仏法が本、人間が迹」だの「曼荼羅が本」等と主張していない。

この問題が起こってから、私は「而二不二の関係」を掲示板では主張している。それが創価学会教学であるからだ。衆生の生命は「色心不二」、衆生と取り無く環境は「依正不二」という学会教学の基礎中の基礎を述べているのである。

沖浦氏親子は創価学会教学の基礎を無視し、徒に己義に走るのみならず、忠言する者を須らく「曼荼羅原理主義者」、「仏本人迹論者」、「日蓮正宗信徒」「法華講員」等々と事実無根の誹謗中傷を繰り返しているだけである。批判は自由であるが、異を唱える者の主張を真摯に受け止め、客観的に考察する事をお勧めする。

27.其の弐拾七  
名前:天城五兵衛    日付:3月4日(水) 17時57分
ひき続き、御本尊と虚空会の儀式について検証を続けてみよう。

以下は「虚空会の儀式」についての、名誉会長の発言である。

*******(ここから「御書の世界:第二巻」 218頁から219頁)

 名誉会長 虚空会は「時空を超えた世界」です。歴史的な特定の時・場所ではない。だからこそ、「いつでも、どこでも」虚空会につながることができるのです。

 虚空会の儀式を用いて顕した御本尊を拝することによって、私どもは、「いま」永遠なる宇宙生命と一体になり、「ここで」全宇宙を見わたす境涯が開けるのです。

 日々の勤行・唱題によって、「いま・ここ」で永遠なる虚空会の儀式に連なることができる。わが身に、わが生活に、わが人生に、宝塔を光らせていける。これが御本尊の素晴らしさです。壮大な生命のコスモス(調和的秩序)が開かれ、現実が価値創造の世界と現れるのです。

(ここまで「御書の世界:第二巻」)*******

果たして、どこに御本尊(沖浦氏の説では「曼荼羅」)が迹、などと読めるのであろうか?

更に、「御本尊(上)(中)(下)」を、下記の通り結論としてまとめられている。


*******(ここから「御書の世界:第二巻」 236頁)

 日蓮大聖人滅後七百年間、誰人も成し遂げえなかった未聞の御本尊流布が拡大していった原点が、ここにある。

 この御本尊で民衆を救っていこうとする誓願があればこそ、日蓮大聖人の御精神が世界に広がったのです。

 「観心本尊抄」の結論に仰せのように、御本尊は御本仏の慈悲の当体です。

 広宣流布の実践なくして御本尊を拝しても、真実の仏の大慈悲は通ってこない。

 「日蓮と同意」「日蓮が一門」という、大聖人と同じ広宣流布の決意に立った時、大河のごとく、日蓮大聖人の大慈悲が晴々と流れ伝わるのです。

 御本尊の功力は無限大です。汲めども汲めども尽きることがない。皆がこれまで受けてきた功徳でもまだ比較することのできない、無量無辺の広大な功徳がある。

 その最大の功徳が、人類の宿命の転換です。

 その功徳を引き出すのが、創価学会の信心です。

 そして、世界百八十六カ国・地域(二〇〇三年十月現在)に広がった地涌の菩薩の連帯が、御本尊の功力を薇郁と薫らせて、地球の無明を払うべき時を迎えたのです。

(ここまで「御書の世界:第二巻」)*******

御本尊を根本に、広宣流布の活動をする私達は、日蓮大聖人の一門として、人類の宿命転換の戦いに連なる事が出来る。

その一方、師弟を忘れ、大聖人さえも迹仏としてしまう沖浦氏の説に惑わされてはいけない事を銘記するべきである。


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