「客観的な事物そのものの運動法則の学」とは経験科学を意味している。論理学は、事物の運動を規定するのではない。論理学は事物を運動として規定する。存在の運動を規定することと存在を運動として規定することの違いが重要である。このことを理解していないと、次の様な規定が生じる。 ■.「有」(あるということ)は、客観的世界のげべてのもの、自然、歴史、意識のあらゆる現象において、もっとも基本的なもっとも直接的な事実です。 ▼、有が(あるということ)だと考えるのは経験的な意識である。有は、「もっとも基本的なもっとも直接的な事実」ではなく、もっとも高度のもっとも抽象的な、ヘーゲルに至ってもなおその内容が発見されなかかったカテゴリーである。 有が「もっとも基本的なもっとも直接的な事実」とされるのは、論理学を認識論だと考えているからである。この場合の有は概念ではない。ある、という経験的事実を意味するにすぎない。 したがって、次の様な文章がでてくる。 ■.へーゲルのいう有は、まずわれわれの意識にとって直接的なもの、すなわち感覚的事実という意味をもっています。もちろん有も、それにすぐひきつづいて考察される質も量も、論理学のカテゴリーですから、個々の具体的な事物の直観や表象をいうわけではありませんが、有や質・量というカテゴリーは世界がわれわれにたいして直接的に最初にあらわれるすがたを論理化したものです。 ▼、これはヘーゲルの論理を正確に記述している。ヘーゲルもこのように考えている。しかし、間違いである。有も他のあらゆるカテゴリーも感覚的事実という意味を持つことはない。「有や質・量というカテゴリーは世界がわれわれにたいして直接的に最初にあらわれるすがたを論理化したもの」ではない。有も質も量もヘーゲルの段階ではまだ論理化されていない。ヘーゲルが飛躍的に高度に論理化したが、それでもまだ論理化しているとは言えない。有の領域のカテゴリーの内容は、哲学史上もっとも後になって規定される。本質や概念の領域の複雑なカテゴリーの内容は哲学史上で多くの具体的な内容規定を蓄積してきた。しかし、有・質・量のカテゴリーといったもっとも抽象的なカテゴリーの内容は規定されておらず、最後の課題として残る。 だから、この文章は論理についての基本的な無理解となる。 有の論理的な意味は、無との対立関係においては静止・不変を意味している。しかし、このことは非常に複雑な意味を持っており有の領域だけで理解することはできない。
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