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思想と文学の掲示板

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192.003 有とは何か 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/9/5(月) 22:45
 「客観的な事物そのものの運動法則の学」とは経験科学を意味している。論理学は、事物の運動を規定するのではない。論理学は事物を運動として規定する。存在の運動を規定することと存在を運動として規定することの違いが重要である。このことを理解していないと、次の様な規定が生じる。
 
 ■.「有」(あるということ)は、客観的世界のげべてのもの、自然、歴史、意識のあらゆる現象において、もっとも基本的なもっとも直接的な事実です。
 
 ▼、有が(あるということ)だと考えるのは経験的な意識である。有は、「もっとも基本的なもっとも直接的な事実」ではなく、もっとも高度のもっとも抽象的な、ヘーゲルに至ってもなおその内容が発見されなかかったカテゴリーである。
 有が「もっとも基本的なもっとも直接的な事実」とされるのは、論理学を認識論だと考えているからである。この場合の有は概念ではない。ある、という経験的事実を意味するにすぎない。
 したがって、次の様な文章がでてくる。
 
 ■.へーゲルのいう有は、まずわれわれの意識にとって直接的なもの、すなわち感覚的事実という意味をもっています。もちろん有も、それにすぐひきつづいて考察される質も量も、論理学のカテゴリーですから、個々の具体的な事物の直観や表象をいうわけではありませんが、有や質・量というカテゴリーは世界がわれわれにたいして直接的に最初にあらわれるすがたを論理化したものです。
 
 ▼、これはヘーゲルの論理を正確に記述している。ヘーゲルもこのように考えている。しかし、間違いである。有も他のあらゆるカテゴリーも感覚的事実という意味を持つことはない。「有や質・量というカテゴリーは世界がわれわれにたいして直接的に最初にあらわれるすがたを論理化したもの」ではない。有も質も量もヘーゲルの段階ではまだ論理化されていない。ヘーゲルが飛躍的に高度に論理化したが、それでもまだ論理化しているとは言えない。有の領域のカテゴリーの内容は、哲学史上もっとも後になって規定される。本質や概念の領域の複雑なカテゴリーの内容は哲学史上で多くの具体的な内容規定を蓄積してきた。しかし、有・質・量のカテゴリーといったもっとも抽象的なカテゴリーの内容は規定されておらず、最後の課題として残る。
 だから、この文章は論理についての基本的な無理解となる。
 有の論理的な意味は、無との対立関係においては静止・不変を意味している。しかし、このことは非常に複雑な意味を持っており有の領域だけで理解することはできない。

191.002 論理学と運動と認識 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/9/2(金) 18:57
 ■.すでにのべたように、へーゲルの『論理学』は古典的形式論理学のようなたんなる主観的思考形式の学ではなく、客観的な事物そのものの運動法則の学であるところに最大の特質があります。同時にこの『論理学』はかれの認識論を展開した著作という性格をもつ『精神現象学』を前提としており、したがってかれの『論理学』じたいのなかにも認識論、認識史の性格が浸透していて、つまり認識論と結合した論理学という特質をもっています。★(p22)
 
 ▽、「たんなる」はよけいな修飾としても、この文章に間違いは含まれていないように見える。しかし、「たんなる」というよけいな修飾は論理学の明確な規定ができていないために書き込まれている。
 後半の文章では、ヘーゲルの論理学が認識論と結合していることを評価している。認識論であれば主観の形式になる。だから、「たんなる主観的思考形式」ではなく、という規定が必要になる。「たんなる主観的思考形式」ではない、認識論的論理学とはどういうものだろう。これは後に問題になるだろうが、こんなものを規定することはできない。認識論は単なるであろうとなかろうと主観の形式である。
 「客観的な事物そのものの運動法則の学」とはどういうことか。これが認識論と結合しているところに問題がある。というのは、「客観的な事物そのものの運動法則の学」は経験科学を意味しているからである。物理学は「客観的な事物そのものの運動法則の学」である。実のところすべての経験科学は、「客観的な事物そのものの運動法則の学」である。だから、「客観的な事物そのものの運動法則の学」は論理学の規定にならない。「そのものの」という言葉は意味がないが、この無意味な言葉は、経験科学と論理学の区別が明かでないために、論理学の特質を示すために気分的に添えられたものである。この無意味な言葉によってだけ物理学や生物学と論理学が区別されている。
 そして、「客観的な事物そのものの運動法則の学」では規定できない論理学の特徴を示すものが、「認識論と結合した学問」、ということになる。これについてはまた後に説明する機会があるだろう。レーニンでさえ論理学を認識論と考えているのだからこの間違いは仕方がない。哲学史的な必然的な間違いである。
 結論から言えば、まったく問題がないように見えるこの文章は混乱の極みである。こうした指摘は揚げ足取りに見えるかもしれないが、有論の難しさは非常に細かな内容を厳密に規定することである。この冒頭の文章に何の疑問も抱かない場合は論理を理解できていないことを意味するし、また論理を理解することはできない。

190.書評 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/9/1(木) 18:36
 ヘーゲル論理学入門 有斐閣新書 鮫坂真・有尾善繁・鈴木茂編 1978年3月
 
 あとがきによると、この本の著者は、173年4月から(随分時間が経っていると思う)あしかけ四年、六十数回にわたる見田石介氏の「大論理学」の講義に参加した研究者である。見田石介氏のこの講義はこの研究者達によって、「ヘーゲル大論理学研究」@AB(大月書店)として纏められた。見田氏は本質論の講義を終わって亡くなったので、この研究書は本質論までで、そのあとの概念論は、この研究者達によって「概念論の研究」(大月書店)として出版されている。
 ヘーゲルの研究書は大量にあるが、大雑把な解説書は読んでもまるで意味がない。ヘーゲルの論理の具体的な意味を研究しなければヘーゲルの概観は分からない。ところが、ヘーゲルの主著である論理学の内容を具体的に解説した書物はほとんどない。見田氏の講義録は論理学の詳細についての数少ない研究書である。この入門書もヘーゲル論理学の内容を具体的に検討した人達の著書である。だから検討に値する。
 この著書を批判的に紹介するのは、論理学の内容を真面目に具体的に検討した著書だからである。ヘーゲルの論理学を真剣に検討する場合にどうしても陥る法則的な間違いがある。この間違いは誰もが陥る物で、この限界を超えることが非常に難しく、また重要である。だから、新しい論理学をまとめながら、この著書に表れている論理への批判を思いつくままに書いていこうと思う。多くの人がこの著書の内容に納得しているだろうから、それを批判するのは新しい論理学を理解する上で有効だろうと思う。
 「第T部 有論」からはじめる。序章は大雑把な説明なのでやらない。

189.予備概念 第二四節 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/7/16(土) 18:8
 二四節にコメントしようと思ったら余りにも長いので、できない。このへんから、というより哲学の最大の問題、難問は普遍とは何かである。哲学は普遍を扱うがその普遍とは何かが分からない。
 個別の動物の存在は確認できる。しかし、動物なるものは存在しない。しかし、動物という抽象的な思惟規定は存在する。動物という普遍は主観の構成物である、といえば主観的観念論になる。思惟規定に客観的な意味はない。ヘーゲルは思惟規定の客観性を認める。この思惟規定が客観的世界のすべての基礎である、と考える。これがヘーゲルの逆立ちであるが、逆立ちは単純ではない。客観的世界が基礎でその上に普遍があるとか、普遍は客観的世界の反映であるといったところで、普遍とは何かの答えにならないからである。
 思惟的認識が個別と普遍に分離するのは対象が運動体として存在しているからである。対象が動いているという意味ではない。対象は運動において、系統樹において形成されている、という意味である。この運動において個別と普遍の対立が生まれる。だから、普遍は客観的に存在しており、それは運動である。しかし、運動とは何かを理解することは非常に難しい。それが哲学の課題なのだから難しいのは当然で、運動についての大きくの規定を理解しないと、運動とは何かを理解することはできない。

188.予備概念二八節 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/7/8(金) 1:1
まで書いたけれども余裕がないので、土曜か日曜に掲示板のショートコメントを書くことにする。

187.備概念 第二四節 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/7/6(水) 22:5
 ここは複雑な内容ではないけれども、ヘーゲルが論理的に関係のない思いつきを並べているので書くのに時間がかかった。まとまっていないかもしれないと思ったが、ともかく時間を優先するのでまずはアップした。読み直して余程ひどい場合は手を入れようかと思っている。これから用事があるので、この節についての簡単なコメントは明日書くことにする。

186.予備概念 第二三節 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/7/4(月) 21:52
 予備概念 第二三節
 ここでは自由とはなにか、無限とはなにかについてのヘーゲルの考え方がわかる。ヘーゲルにとって客観の実体=普遍は思惟であり論理である。だから、自我が普遍的となり対象の実体=普遍と一致することが自由である。対立物の統一である。自我が客観との対立を解消して、対象の実体と一致すると、自我は無限になり、対象の現象に規定されることなく、自我の表象や欲望に規定されることもない。意識が普遍化すること、意識が客観的な実体=普遍=理性と一致することが、理性的動物である人間の自由である。自我と対象の実体=普遍との一致が自由である、という規定は、自由とは必然性との一致である、という規定を思い出させる。
 自我と普遍との一致というのはカテゴリーの組み合わせとしても間違っているし、自我と普遍という二つの要素の対立と一致という単純な関係によって、無限だとか自由だとかいった、本質の領域のもっとも複雑なカテゴリーの内容を説明しようとするのが無理な話である。ヘーゲルの単純化された論理では自由のカテゴリーの規定はできない。

185.予備概念 第二二節 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/7/4(月) 21:44
 ヘーゲルの論理学では、客観的世界の本質が論理である。だから、論理と思惟が一致すれば、思惟と客観が一致することになる。これは、思惟が論理に到達したことを意味するだけで、客観と思惟の関係を規定していない。ヘーゲルにとって結局客観的世界は存在しない。客観的世界に家や石やライオンと言った個別存在が存在しない、というごく単純な主観的観念論に対しては、実践で反論できる。ライオンが存在しないというのなら、ライオンの檻に入れ、ということがライオンの存在の証明である。この場合は個別存在の証明である。哲学で一般に問題になるのは、普遍が客観的世界に存在するかどうかである。ヘーゲルも客観的世界に普遍を発見できなかった。普遍とはなにかを理解できなかった。そのために、すでにある思惟における普遍を客観的だと考えることにした。これでは解決にならない。
 この場合普遍が客観にあるか主観にあるか、という問題ではない。唯物論者は主観的か客観的かの問題にするが、それは普遍とはなにかをヘーゲルよりもっと考えていないからである。問題は普遍とは何かである。普遍が客観的に存在するかどうかに答えられるかどうかを唯物論者は考えるべきである。意識は客観的世界を反映する、とくり返すことが唯物論的であるかのように考えるのは、普遍とはなにかを考えていないからである。

184.予備概念 第十九、二〇、二一節 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/7/3(日) 22:43
 第十九節、哲学の内容は純粋思惟だとか真理だとか概念だとかいろいろに言われるが、要するに哲学の内容はカテゴリーである。このカテゴリーとはなにかが分からないためにヘーゲルはいろいろと規定を試みている。哲学を認識論と考える場合は、カントのいう手段の吟味の問題や、方法と内容の問題や、哲学の効用の問題が出てくる。この種のややこしい問題は、哲学の内容がカテゴリーであり、カテゴリーは存在の全体を運動法則として規定することだということがわかれば、まったく必要なくなる。認識論に限定されることが分かれば認識論の難問は単純に解決される。
 
 二〇節、
 ヘーゲルの関心は哲学とはなにかを規定することである。ヘーゲルは観念論者であるから、すべての内容は意識の内部にある。そのために、意識形態の違いは意識の形式の違いによって規定しなければならなくなる。これでは意識形態の違いを規定するこはできず、したがって哲学とはなにかを規定することはできない。意識形態の違いは、意識が反映している客観的世界の内容によってのみ区別できる。ヘーゲルは哲学が客観的世界の何を対象としているかを理解していない。これはこれまでのすべての哲学者も同じである。
 ヘーゲルはあれこれと羅列的に言及しているが哲学とはなにかの規定には届かない。ヘーゲル自身も納得が行かないために探っているのだろう。
 
 二一節、普遍とは存在の内なるものである。それもまた存在である。普遍のもっとも抽象的で単純なものは、有と無である。存在の普遍の規定を追求していくとカテゴリーに到達し、カテゴリーのもっとも単純な規定である有と無に到達する。ここから論理学がはじまる。

183.序論 第十六〜十八節 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/7/1(金) 21:11
 哲学と経験科学の関係のまとめの部分で、哲学と経験科学の同一性の説明である。哲学はギリシャ時代から世界の全体を対象とする学問であった。そのために個別経験科学との関係が分かりにくかった。ギリシャ哲学は自然科学でもあった。
 世界の全体を対象とするとはどういうことかを規定することは難しい課題である。個別経験科学にとっても個別経験科学の全体にとっては世界の全体が対象である。そうであれば個別経験科学の総体が形成されれば哲学は必要なくなる。ところが、経験科学がまだ別々の対象を分離的に対象にしている場合は、全体象は表れてこない。それで哲学は経験科学と同じ世界を対象にして経験科学に足りないところを補うか、同じ対象を問題にしていた。経験科学が発達して相互に関係してきて世界の全体を見渡せるようになると、経験科学相互の関係の部分を哲学が規定する役割を担っているように見えた。しかし、経験科学相互の関係が緊密になってくると、哲学が相互の関係を別に規定する必要はなくなる。
 哲学は経験科学と違って独自に世界の全体を対象にする学問である。経験科学の発展によって哲学は世界の全体を、その存在を運動形態として規定する学問であることがはっきりしてくる。かくして哲学は論理学であり、存在の全体を運動形態において規定する学問であることにおいて経験科学と区別されることになる。ヘーゲルの段階では哲学と経験科学の区別はできていない。

182.序論 第十二〜十五節 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/6/30(木) 21:11
 十二節、ここは経験科学と哲学の違いと関係である。つまりは哲学とはなにかであるが、ヘーゲルも哲学が何を対象とし内容としているかを理解していない。いまだに哲学者はいろんな分野に口出しをする何でも屋のようにみえる。哲学の扱う分野は論理学だけである。論理学とは存在の全体を運動として規定することである。
 
 十三節、哲学史の発展と論理の展開の過程が同じである、あるいは相似している、という有名な規定で、これはエンゲルスもレーニンも認めていたのではないかと思う。そうなるのはヘーゲルもエンゲルスもレーニンも哲学を認識論だと考えているからである。哲学は認識ではない。だから、哲学史と論理の展開の過程は相似していない。
 
 十四節、哲学は、あるいは論理学は体系でなければならない、というのは正しい。存在の全体を運動態として規定する学問だからである。運動の全体は一つの命題だとか、ある対象の規定によって表現することはできない。
 
 十五節、これは以上の考え方を図式にまとめたものである。まとまった魅力的な図式であるが、やはり間違いである。

181.序論 第九〜十一節 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/6/29(水) 20:10
 第九節は、経験科学の普遍と哲学の普遍の関係。経験科学は対象の普遍を規定する。対象の普遍の規定とはその対象がなにから形成されたかを規定することである。しかし、経験科学は次々に普遍を規定していくが、規定された普遍と普遍の関係を規定することはできない。哲学はこの部分だけを規定する。
 第十節は、経験科学の普遍を深めていくとカテゴリーに到達し、カテゴリー自身の関係が課題になることの問題である。カントはカテゴリー自身を問題にすると論理矛盾に陥ることを発見した。だから、経験科学の方法として対象の普遍を無限に規定していくことはできるが、無限性には到達しない、と考えた。それが物自体である。実は矛盾を本体とする物自体が無限性である。カントは物自体が運動の原理であることをも発見していた。しかし、矛盾の展開を論理として展開することはできなかった。ヘーゲルは論理は矛盾の展開であることを発見した。しかし、運動の原理としての物自体を否定したために運動の原理としての論理を展開することができなかった。そのために論理学の多くの規定が形式規定になっている。
 第十一節は、「矛盾こそが、思惟の無限性の内容だからである。」という最重要の結論に到達している。しかし、矛盾の展開とはなにかをまだ発見しておらず、そのために矛盾の展開を十分に展開することはできなかった。

180.序論 第六〜八節 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/6/28(火) 23:32
 ヘーゲルは哲学の現実性を主張している。経験的意識も現実的である。だから、哲学も経験的意識も現実的である。哲学は経験的意識と対立しない。経験的意識の真の内容が哲学である。だから両者は一致している。
 このような説明はなにやら弁証法的に見える。ヘーゲルは観念論者でありながら経験的意識と哲学の一致を主張し、哲学と現実の一致を主張している。ヘーゲルの弁証法は現実的である、とこう見える。しかし、ヘーゲルは、哲学は現実的である、現実的でなければならない、現実的であるべきである、と主張しているのであって現実性を規定しているわけではない。観念論では哲学の現実性を規定することはできない。哲学は現実の何を対象にしているかを客観的世界において規定することができないからである。
 哲学の対象が一般的な運動であり、哲学は存在の全体を一般的運動法則として規定する学問であることは発見されていなかった。だから、ヘーゲルは哲学を概念だとか思惟といった精神の形式として規定した。その上で、哲学史上では画期的にカテゴリーの体系にまで哲学を深化させた。ただ、カテゴリーの体系が客観的世界の一般的運動の規定であることは理解しなかった。そのために、哲学とはなにか、哲学の対象はなにか、哲学的真理とはなにかについて観念論らしいややこしい規定をさまざまに追求している。それは今回全体として削除する。そうすると弁証法がすっきりした論理になるだろう。

179.序論 第一〜五節 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/6/27(月) 22:22
 ヘーゲルは哲学とはなにかという難問に、人間の精神の真理である、と答える。すべての精神の内奥に概念がある。様々の形態の精神を概念が貫いている。だから、精神の諸形態から、その内容であり真理である概念を取り出すことが哲学の仕事である。精神の諸形態のすべてが哲学の研究対象であり、精神の諸形態の真理が哲学の発見すべき対象であり内容である。
 もっともそうであるがそうではない。精神の内容は客観的世界であるから、すべての精神諸形態は客観的内容によって区別しなければならない。精神の諸形態の特徴は内容によってのみ区別できるし、精神相互の関係を規定することができる。
 経験諸科学の場合、対象が何であり、その対象の内容が何であるかを規定している。ところが、哲学の対象はすべての精神であるから個別の内容を持っておらず、すべての内容とはなにかを規定すること自体矛盾であるように思える。すべてを規定し尽くすことは不可能である。もし可能であるとしても、個別経験科学のすべてを無限的に寄せ集めればそれが人間の認識できる全てであるように見える。そうであれば哲学は学問として必要ないだろう。しかし、現実に哲学があり、哲学史があり、重要な学問分野になっている。
 だから、ヘーゲルはなんとか意識形態において哲学と経験的意識の違いを規定しようとしている。しかし、観念論哲学では哲学の学的内容を規定することはできない。すべての学問は客観的世界の反映であり、客観的世界を内容としている。ヘーゲル哲学では、経験諸科学の内容は客観的世界であるが、唯一哲学は客観的世界を内容としていない。それはヘーゲルが哲学とはなにかをまだ発見できなかったことを意味している。

178.序論 第一節-2 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/6/24(金) 22:30
 古いメモを見たら、この節で哲学と芸術の違いの規定を問題にしていた。ヘーゲルの場合哲学と芸術は両者とも絶対的真理を内容とする。哲学は媒介的方法で、芸術は直接的方法で。哲学が媒介的方法である、というヘーゲルの特徴付けのために始元の規定が特別の意味をもってくる。始元は直接的だからで、媒介的ではありえないからである。
 哲学と芸術がどのように同じでどのように違うかは理論上の難問の一つである。これについてどれだけの著作が書かれてきたかわからないほどであるし、哲学史上の天才もこの問題にとりくんだ。それは哲学とはなにかがはっきりしなかったからである。ヘーゲルは媒介的と直接的で分離している。これは間違いである。これについてはまた問題にする機会があると思う。

177.序論 第一節 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/6/24(金) 22:12
 旧ノートからまったく文章を変えた。内容は重要であるが、序論であるので抽象的な書き方になっており、少なくとも有論を読み終わらないと具体的な内容はわからないかもしれない。
 今回旧ノートを読んで、ヘーゲルの読み込みが余りにも浅いことに驚いた。この最初期ではなく、有論を超えて本質論あたりだったか、アップする前にチェックしてもらったとき、ヘーゲル自身の論理の纏めの部分と、それに対する批判の部分がはっきり分かれていないので読みにくい、と言われた。結構分離しているつもりだがそうかな、と思ってそれなりに努力したが、この分離の点で読みにくいという評価は変わらなかった。
 この第一節を読んでみると、自分の論理などまだまるでできていなくて、たらちねのヘーゲルの胎内でやっとヘーゲルに即して論理を追っている程度であることがわかる。だから、これからかなり進んでもヘーゲルから分離した論理をはっきりと書くことはできなかったのだろう。つまり、書き方の問題ではなかった。行をわけても、印を付けてわけても、論理がはっきり分離していなくてはヘーゲルの紹介なのかヘーゲルの解説なのか、ヘーゲルへの批判なのか、ヘーゲルとは別の論理の展開なのかがわからない。
 今回のノートでは、概念論まで全部やった結果として、たぶんヘーゲルの胎内から何とか外界に出て、希望的観測では臍の緒を切って、あとはなんとか自分の足で歩きはじめるのを待つばかりであるように思う。それが正しいかどうかは別としてヘーゲルの論理からの分離はできている気がする。どれくらい分離できているか、独立しているかは、これからやってみないとわからない。

176.第三版への序文 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/6/24(金) 20:30
 特に哲学的な内容はないのでブログのこの部分は削除した。批判的というより罵倒的文章でもさすがに面白いのでせっかく読んだから引用しておこう。
 
 ・多年考えぬかれ、研究対象および学問的要求にたいする最も真面目な態度をもって仕上げられた著作にたいしてこのような軽々しい応酬がなされるにいたっては、自惚や高慢や嫉妬や嘲笑などの醜い感情がそこからにじみ出ているのがみえすいて、およそ不愉快であり、まして教えられることなどは少しもない。
 ・哲学を罵るに、その罵り方が馬鹿らしく浅薄であるほど、一般には受けるものである。というのは、卑小な反感というようなものは難なく共鳴できるものであるし、無知もわかりやすさの点では、これにひけはとらないから、この仲間となるからである。
 
 ・学問的導出としての内容を持たない場合は、馬鹿らしく浅薄で無知で、不確かで、空虚で、知識は外的な博識となる。内容の導出という労苦を知らず、内容の具体化、拡張に進むことができずに主観的な確信に止まる場合、その内容は高慢と人を貶めることになる。

175.第二版への序文(2) 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/6/23(木) 23:47
 カントはカテゴリー表にたどり着いて二律背反を発見した。ヘーゲルは二律背反は対象認識の不可能を意味するのではなくて、この二律背反こそが真理であり、対立物の同一がカテゴリーの具体的内容であることを発見した。ところが、対立的カテゴリーがどのように同一であるかを具体的に規定していない。そのために、論理学のいたるところで対立物の同一が出てくる。あるいは対立物の同一を意味する揚棄(アウフヘーベン)が出てくる。多くのマルクス主義者も対立物の同一ないし統一をよく使う。これは悪い習慣である。対立物の同一が真理であることはすでにヘーゲルが指摘した。次は、対立物がどのように同一であるかを規定しなければならない。つまり、対立物の同一の指摘に止まってはならない、対立物の同一や揚棄をそうそう使ってはならない、ということである。

174.第二版への序文(1) 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/6/22(水) 19:15
 ヘーゲル哲学への批判を付け加えたのでかなり変更した。ただし時間がないのであまり丁寧にやっていない。序文だからそれほど厳密である必要はないとも思う。
 ヘーゲル哲学では、絶対的だとか、真理だとか、真のだとかいった形式的な言葉が沢山でてくる。ヘーゲルはこうした言葉で哲学を特徴づけようとしている。それはヘーゲルが経験諸科学と論理学の違いを理解していないからである。そのために、哲学とは何か、論理学とは何かを規定できずに、絶対的だとか、もっとも深いとか、真のだとかいった規定になる。
 方法が問題になるのは哲学が認識論だと考えられているからである。また、カテゴリーが流動化されなければならない、というのは、より正しくはカテゴリーは運動の規定である、ということになる。ヘーゲルはカテゴリーが運動の規定であることを理解していないが、カテゴリーが流動化され体系化されるべきだと考えており、カテゴリーの体系が真理だと考えている。しかし、カテゴリーが客観的運動の規定であることを理解していない。それでカテゴリーの体系が認識の体系になったり、経験的諸規定の体系になったりする。カテゴリーの内容と体系の形式が混乱している。

173.予備概念 返信  引用 
名前:赤嶺    日付:2011/6/21(火) 22:32
 今日は第一版への序文を多少修正した。大した修正ではないし、ヘーゲルの文章自身もそれほど内容はないので、特に読む必要はないと思う。これから有論を整理しながら、暇を見て予備概念と本質論を修正しようと思う。本質論は秋に本格的に修正するので、今のところは思いつき程度で、予定を考えてはやらない。いろいろと紙屑が多いので整理しながら軽く予備概念をまとめる。
 ここで内容と形式について書いているが、本質論で内容と形式は具体的に扱うし、ヘーゲルの内容と形式の関係にはやはり問題があるので、ここに書いている程度の形式的な規定の内容に神経質になる必要はないだろう。


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