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8018.ふ〜ん、11/17(日)は「第7回鞆の浦駅伝大会」の開催なんですネ(^.-)☆ 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/11/4(月) 21:3
 これは、11/3(日)開催「水呑学区ふれあい文化祭」の『史跡巡り』に参加し竹ヶ端町内を巡っておりまして、その際に、町内会掲示板に眼が止まり撮りましたものなんです(^.-)☆
 ふ〜ん、11/17(日)は「第7回鞆の浦駅伝大会」の開催なんですネ(^-^)
 毎回、何にも予定がありませんと、水呑町と田尻町の境界付近の佐須良池脇の県道で、応援を兼ね観戦していますGONsanですけど、11/17(日)は何か予定がありましたような…
 う〜ん、何の予定でしたか思い出せませんけど、今回は観戦が不能かも…




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8017.11/1(金)は、墓地の草取りでお墓詣りとなりました(^.-)☆ 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/11/4(月) 18:33
 11/1(金)は、珍しく早朝でなく、A.M.10:00前から、月初の墓地の草取りでお墓詣りとなりました。
 月に一度、欠かさず草取りを行っていますから、多分、草も生えてはいないだろう…こんな予測通り、墓地はキレイなものでありました(^.-)☆
 ただ、仏花は、どぅしたものか…と。一部枯れ始めてはいますけど、まだ大丈夫のようにも思えますし…嫁さんからは「枯れていたら撤去」とも言われていますし…
 毎回、草取りで墓参りしますと悩みますのが、この仏花。まぁ大丈夫だろう…と、今回は現状維持で帰りましたけど(^-^)

 いつものように、墓前に手を合わせました後は、眼下を眺望です。
 いつもながら、イィ景観です。我が町を見下ろしておりますと、心が和みます。この日も芦田川の川面が大変穏やかでありました(^-^)//"









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8014.挙式列席で、10/19〜20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(12) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/11/4(月) 11:37
 山門方向に進んでいますと、路傍に「天智天皇の石切り場」の案内表示板が…

 ◆天智天皇の石切り場跡

 本堂正面のすぐ下方にある石切り場跡には、天然記念物「硅灰石」が道沿いに露出しており、15か所の採石痕があります。近年、ここから切り出された石が、飛鳥の川原寺中金堂(7世紀前半〜半ば頃創建か)の礎石に使用されていることが明らかとなりました。また、境内の別の場所から白鳳期の瓦も発掘されており、石山寺の創建年とされる天平19年(747)以前に、すでに前身となる寺院が存在したことを証明する貴重な遺跡といえます。

 …と、こんな石切り場のようであります。
 ここを通り過ぎますと「天狗杉」、そして「水車」の場所まで戻って来まして、これでどぅにか石山寺をほぼ一廻りした事になるのでしょうか…
 山門まで戻って来ますと、また「宝性院」の入口の3人のキャラクターに眼が向いてしまいました。WEB上で検索しますと、このキャラクターは「おおつ光ルくん」と言うようですネ(^-^)//"

 ◆神木(天狗杉)

 石山寺のご神木。草創期の一本杉と言われています。参道奥に立つ大杉。
 石山寺屈指の学僧・郎澄(ろうちょう)律師は平安末から鎌倉初期にかけて石山寺の整備に尽力し、死後は鬼になって石山寺を守ることを誓って亡くなった。
 「石山寺縁起絵巻」第6巻第2段では、律師の死後、弟子の行宴(ぎょうえん)が松の梢の上で金色の鬼の姿になった師を見たと記されているが、これとは別にこの天狗杉の上に現れたとも伝える。

 ◆石山寺 水車の由来

 江戸時代ここより200メートル小川に沿って行った所に、現在の経堂があり、その入口(昔はこのあたり水田)の辺に水車小屋があって、そこで収穫されたお米をこの水車を使って村の人々が脱穀した記録が残っている。又近年には水車を踏む高い場所に水をそそいだという話が伝わっている。

 ◆宝性院(ほうしょういん)

 石山寺の塔頭。本尊・愛染明王像(あいぜんみょうおう)を安置する。(非公開)
 平日で静かな境内に入ると、入口に浮かない?顔の3人が。石山寺のマスコット・キャラクター「おおつ光ルくん」だそうです。












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8012.挙式列席で、10/19〜20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(11) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/11/3(日) 16:49
 無憂園内に存在します休憩所には7名ばかりの方々が、ノンビリと過ごしておられます(^.-)☆
 ここには灰皿が設置されていますから、チョッと一服のGONsanです。こじんまりとした回遊式庭園の「無憂園」。もぅ少し遅い時期に訪れましたら、さぞキレイなのでしょうネ…
 嫁さんの催促のような視線を察知しましたので、また散策続行です(^-^)

 暫く進みますと、「補陀洛(ふだらく)山 雅の台 この地より舞台造りの本堂が見えます」の案内表示板が…
 WEB上で『補陀洛(ふだらく)山 雅の台』を検索してみますと、こんな記載がありました(^.-)☆

 ・石山寺本堂
 入口から真っ直ぐ(西に)進み、拝礼は右手(北)に向いて…つまり、本尊観音は南に向いている。この南の方、向うの中腹に、雅(みやび)の台がある。
 補陀洛(ふだらく)山 雅の台へ…この辺りより舞台造りの本堂が見える。雅の台から石山寺本堂を望む…

 …との事で、本堂を臨みますのは良い場所なのでしょうねぇ〜嫁さんは見向きもせずに直進ですから、仕方なくGONsanも(^-^;
 後でWEB上で確認してみますと、こんな感じで本堂が臨めますようですねぇ〜
 そしてまた暫く進み眼に入りましたのが、「柳島」の案内表示板で、これにはこんな記載がありました(^.-)☆

 ◆柳島(やなぎじま)

 --- 石山寺縁起絵巻でめぐる石山寺 ---

 承歴二年(1078)、本堂は火災に見舞われました。僧侶たちは慌てて大切な経典や仏さまを持ち出しています。混乱の中、いち早く本堂を飛び出したご本尊様が柳の木にとどまっておられることに気付いた僧は、こちらにお移り下さいと自分の袖を示しています。
 残念ながら柳の木は残っていませんが、本堂や石段、露出する硅灰石、閼伽井、咲き乱れる椿など、現在とそれほど変わらない境内の様子が描かれています。
 観音様がとどまっておられた柳があった場所は、現在「柳島」と呼んでいます。

 …と、こんな記載でありました(^-^)//"












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8011.「第39回ふくやまマラソン」の参加者募集…11/1(金)からのようです(^.-)☆ 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/11/2(土) 11:18
 「第39回ふくやまマラソン」の参加者募集…11/1(金)から受付開始のようですネ。開催日は、来年の3/15(日)。
 今年の「ふくやまマラソン」は、一時、風雨もありまして、気温も下がる悪天候下での開催となりましたけど、来年は、陽気な晴天の下で、選手の皆様には気持ちよく走って貰いたいものですねぇ〜
 ですが、天候ばっかりは(^-^;
 多数の皆様の参加がありますと、沿道応援者のGONsanではありますけど、嬉しいですねぇ(^-^)//"



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8009.挙式列席で、10/19〜20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(10) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/11/2(土) 9:45
 ふ〜ん、これが「腰掛け石(尻掛け石)」のようですネ。決して座り心地は良さそうには見えません(^-^)
 それでは、次に「無憂園・甘露の滝」に向かってみます。向かう…とは言いましても「順路→」通り進みますと山門方向になりますネ(^.-)☆

 ◆甘露の滝
 甘露の滝は石山寺内にある人工滝である。山門からほぼ真っ直ぐ歩くと右方に本堂があり、甘露の滝はその先の無憂園の奥に落ちている。なお、駐車料金600円と入山料500円が必要である。
 無憂園の中にある滝。休憩所から滝を眺めることができるので一息つきましょう。

 ◆無憂園
 琵琶湖をかたどった池や滝などがある回遊式庭園。春には桜が咲き乱れ、きれいだということです。石山寺は花の寺としても有名なんですね。

 …と、WEB上にはこんな記載がありました(^.-)☆











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8007.挙式列席で、10/19〜20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(9) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/11/1(金) 20:35
 紫式部像とお別れし、「←順路」に従って下っていきますと、「無憂園・甘露の滝」の表示板が…で、その方向に進行です(^.-)☆
 そうしましたら、赤い鳥居が眼に入りましたので鳥居方向へ…
 途中、「← 西国三十三所 観音霊場 巡拝道入口」の表示板が…でも、その方向には進まず直進しますと「八大竜王」の赤い鳥居。そして、その奥には小さい池の中に社が存在でありました。

 説明板がありますので眼を通しますと、こんな記載が…

 ◆八大龍王社

 --- 石山寺縁起絵巻でめぐる石山寺 ---

 八大龍王社は龍池の中島に建てられた小さな社で、龍王をお祀りしています。石山寺の歴海和尚がこの池のほとりの石に座って孔雀経を読むと、池の中から龍王たちが現れて和尚の経を聞き、経を読み終えると、和尚を庵まで送っていったと伝わっています。歴海和尚が座った石は「腰掛け石(尻掛け石)」と呼ばれ「石山寺縁起絵巻」に描かれたうっそうと木がおい茂る深い山中の様子は、現在も変わることはありません。

 周辺には「尻掛け石」の表示板も…後で画像に納めたいと思います。
 WEB上で「八大龍王社」を検索しますと、

 ★石山寺八大龍王社

 八大龍王社は、東大門から憂園のさらに奥へ進んだ場所に位置し、龍穴の中島に建てられています。龍穴は、炎天下でも請雨法を修すれば必ず雨が降るという池で、「石山寺縁起絵巻」には、石山寺の僧侶歴海和尚がここで孔雀経を転読すると、龍王たちが池の中から現れて和尚の傍らに侍り護衛し、和尚が草庵に戻る際には背負って行った様子が描かれています。和尚が読経の際いつも座っていた池の前の大きな丸い石は「歴海和尚尻懸石」と呼ばれています。

 …と、こんな記載がありましたけど、GONsanが訪れました時には降雨はありませんでしたけど、赤い鳥居をよくよく見ますと、雨のしずくがありましたネ(^-^)//"












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8006.挙式列席で、10/19〜20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(8) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/31(木) 18:28
 心経堂からは、豊浄殿へと進行です。ここでは、「石山寺と紫式部展」が開催中でありました。
 中に入ろうかな…と思いましたら、有料でありました。入館料は300円でありましたけど、有料ですから入館は断念(^-^;

 で、次は「光堂」へと向かおうとしていますと、GONsan世代のご夫婦と擦れ違いです。その際に「豊浄殿・紫式部展は、どぅでした?」と尋ねられましたので、「有料でしたから入館しなかったのですよ…」と返しますと、「じゃぁ、私達も止めとこう…」ですから、「入館料は300円と安価でしたよ…」と、付け加えますと、「入門料と合わせると高くなるから、止めときます」でありました(^.-)☆

 「紫式部像 →」の表示に従って「光堂」へ。

 ◆石山寺豊浄殿
 石山寺多宝塔の北西、境内の最も高いところに新設された宝物館です。毎年春と秋の2回、石山寺に残されている宝物を紫式部などのテーマ別に一般公開します。

 ◆光堂(こうどう)
 石山寺の「光堂(こうどう)」は、この平成20年に落慶。東レ株式会社の寄進により、古来の伝統的建築技法のままに、懸崖造り(舞台造り)で建立された、新しくて格式の高いお堂です。

 光堂方向へは、5人のご家族連れが先行でしたから、この方達に付いて光堂へ。到着と同時に「紫式部像」を求めて周辺をキョロキョロ。そうしますと、また「紫式部像 →」の表示板。う〜ん、ここからまた少し下った場所にありますようですねぇ〜
 また、このご家族連れの後方を(^-^)ほどなく「紫式部像」に到着です(^.-)☆

 ◆紫式部像

 西国三十三所霊場のひとつで古くから観音信仰で名高い、滋賀県大津市にある石山寺は寛弘元年(1004年)、紫式部(むらさきしきぶ)が堂内に籠もり『源氏物語』須磨・明石の巻を綴った場所と伝えられます。境内の高台には源氏苑が整備され、紫式部の像も立てられています。『源氏物語』の執筆中に筆を止めて、これからの構想をかんがえてる場面でしょうか。
 境内には鎌倉時代の作で重要美術品に指定される紫式部供養塔がああるほか、本堂相の間には「源氏の間」があり、『源氏物語』を執筆した紫式部の姿が人形によって再現されています。
 石山寺の寺伝などでは、寛弘元年(1004年)、紫式部がここで7日間参籠し、琵琶湖の水面に映える月を見て、着想を得たとされています。
 室町時代に記された源氏物語の古注釈書『河海抄』には、八月十五夜の月が琵琶湖に映えて、それを眺めていた紫式部の脳裏にひとつの構想が浮かび、源氏物語は書き始められたとされていますが、史実なのか、後世の創作なのかは定かでありません。
 主人公・光源氏のモデル・源融(みなもとのとおる)は近江大津に閑居を設け、その跡地に融神社(とおるじんじゃ/大津市伊香立南庄町)として祀られています。
 そして「横川の僧都」(よかわのそうづ)は比叡山延暦寺の高僧、源信(恵心僧都)ではないかと推測されています(諸説あります)。










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8005.挙式列席で、10/19〜20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(7) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/30(水) 19:20
 多宝塔には「落書厳禁」の注意看板が(^-^)
 こんな国宝に落書きする人は居ないだろう…と思いながら、よくよく見てみますと、扉の部分に確かに落書きが(^-^;
 心ない方もおられるのですねぇ〜国の宝の『国宝』だと言いますのに…

 ◆源頼朝・亀谷禅尼供養塔

 多宝塔の北西に並んで立つ2基の宝篋印塔は、右が源頼朝、左が亀谷禅尼の供養塔と伝えられています。
 亀谷禅尼は源頼朝の第二の姫の乳母であり、石山寺の毘沙門天に戦勝祈願をした中原親能の妻です。剃髪後石山寺に住し石山の尼と呼ばれ、宝塔院を建立して本尊大日如来の胎内に頼朝の髪の毛を納めて日々勤行を為し、頼朝に石山寺の再興を勧め、多くの寺領を沙汰したと伝えられています。この二人のために、後世の人が供養塔を建立したと考えられ、亀谷禅尼供養塔は南北朝、源頼朝供養塔はそれに続く時期のものです。
 指定区分 -- 重要文化財(亀谷禅尼供養塔)
 所在地 -- 滋賀県大津市石山寺1-1-1

 ◆若宮

 大友皇子を葬ったとする場所がここにも!
 「若宮」は説明の文字通りの解釈では三十八所権現の子供になるが非業の死をとげた祟る子・人を祀るという話もある。壬申の乱は672年、石山寺創建が天平勝宝元年として749年で、良弁開基時に大友皇子の墓が既にここにあった?まあ、そういう後付の伝承なのでしょう。何故2002年に建立したのだろう?…と、WEB上には、こんな記載がありました(^-^)

 ◆心経堂

 心経写経の永久保存のために建立されたもので、堂内には、ご本尊の「如意輪観世音菩薩半跏像」が安置されています。










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8004.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(18) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/30(水) 18:5
 毛利氏一族の墓から下って来ますと、昼食時に過ごしました大通院谷に。これで、今回の山城歩きはオシマイです(^.-)☆
 後は福山にと帰るのみ。途中、世羅道の駅に立ち寄り休憩。福山駅北口に到着は、P.M.6:00少し前でありました。
 到着10分ほど前に、嫁さんに迎えの連絡を入れていますのですけど、福山駅南口地下駐車場に下りますと、いつもの事ながら嫁さんは未だ来ていませんでしたねぇ〜
 ベンチに腰掛け、嫁さんの到着を独り寂しく待つGONsanなのでありました(^-^)//"










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8003.挙式列席で、10/19〜20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(6) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/29(火) 21:0
 硅灰石の後方から、周辺の景観をパチリです(^.-)☆

 ・石山寺経蔵
 石山寺は紫式部が源氏物語の構想を練った寺院として知られる古刹で、琵琶湖から流れ出る瀬田川の右岸に位置している。
 経蔵は三十八所権現社本殿の背後に建つ校倉の建物で、淳祐内供筆聖教(国宝)などが収蔵されてきた。全国的にも類例の少ない切妻造の校倉である。

 ・紫式部供養塔と芭蕉の句碑
 芭蕉の「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」の句碑。芭蕉は紫式部源氏の間を見て「紫」をかけて詠んでいる。
 その左に紫式部供養塔。これは、石山寺で『源氏物語』を起筆した紫式部の供養塔。鎌倉時代の作だそうで、一番下層の4面に仏像が浮き彫りにされています。

 ・多宝塔(国宝)
 1194年建立で、日本最古の多宝塔といわれている。
 石山寺は、聖武天皇の勅願により天平勝宝元年、良弁僧正を開基として開かれた寺院である。 また、紫式部が参籠して『源氏物語』を書きはじめたとも伝わる。
 多宝塔は建久5年(1194)建立で、年代の明らかで大規模な改修を行っていないものの中では、日本最古である。内部には快慶作の大日如来像を安置する。もちろん国宝に指定されています。
 和歌山・金剛三昧院(こんごうさんまいいん)多宝塔、大阪・慈眼院(じげんいん)多宝塔に並び、日本三名塔のひとつにも数えられています。

 ・鐘楼(石山寺鐘楼の概要)
 石山寺は大津市石山寺一丁目にあります。『滋賀県百科事典』によりますと、概要は「屋根は入母屋造桧皮葺(いりもやづくりひわだぶき)、袴腰(はかまごし)を漆喰塗(しっくいぬり)とした鐘楼で、鎌倉時代後期の建立とみられている。
 上層の平面は正面の柱間数3間で4.56m、側面2間で2.85m。下層の柱上に台輪をめぐらし三手先(みてさき)組物で縁をうける。上層の組物も三手先であるが東大門と同じく尾垂木をもちいていない。全高は11.13mであるが、上層の組物には隅にも拳鼻(こぶしばな)をつけ、隅柱は少し長くして軒反りを美しくし、間斗束(けんとづか)は垂直であり、組高欄の端の切り方(角度)など古式があってみるべきものがある。重要文化財。(成瀬弘明)」とあります。

 ・めかくし石
 目隠しをして塔身を抱きとめることができれば願い事が叶うと伝わり、ここも人気のパワースポットなのだとか。











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8002.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(17) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/29(火) 19:42
 ・毛利氏一族の墓

 元就墓所の下段で、洞春寺境内跡にあります。郡山初代城主毛利利時親以来、歴代一門の墓が明治2年にここに改葬されました。狭域内は時親から8代豊元(元就祖父)までの合墓で、それぞれの墓は大通院谷にあったものです。広域内には、正面左から元就の兄興元とその子幸松丸と隆元の夫人の墓が並んでいます。

 ・洞春寺跡

 安芸高田市にある中世の山城、郡山城(吉田郡山)の城内にある洞春寺跡にあるのが毛利元就墓所(もうりもとなりぼしょ)。郡山城を整備拡幅し、安芸の国人領主から戦国大名へと躍り出た毛利元就は、元亀2年6月14日(1571年7月6日)没。翌年、孫の毛利輝元によって菩提寺である洞春寺が建立され境内に墓が建立されています。
 墓域は前域・後域に分かれ、前域1列目の石灯籠は、7代広島藩主・浅野重晟(あさのしげあきら)、地元吉田村出身の眼科医・土生玄碩(はぶげんせき)、山口県士族18人が奉納したもの。
 2・3列目は、毛利氏親族、4列目は、5代広島藩主・浅野吉長奉献の石灯籠です。
 後域には、5代広島藩主・浅野吉長寄進の石垣が巡らされ、「贈従三位大江朝臣元就卿御墓」の墓碑が立っています。
 墓標には、ハリイブキが植えられていましたが、今は枯れています。葬儀が行なわれた日を新暦に直して7月16日に墓前祭が行なわれています。
 菩提寺である洞春寺は、関ヶ原の戦い後の慶長8年(1603年)に毛利家に従って山口に、次いで慶長11年(1606年)萩城内に移り、さらに明治維新後の明治2年に再び山口(現・山口県山口市)に移っています。
 毛利元就は、明応6年(1497年)3月14日、母の実家の鈴尾城(福原城=現・安芸高田市福原)に生誕。毛利弘元、長男・興元と2代続く当主の急死後に、有田中井手の戦いで安芸武田氏を打ち破り、次男だった元就が毛利家の家督を継ぎます。
 大永3年(1523年)8月10日に郡山城に入城し、城を整備拡幅。尼子経久と敵対し、大内義興の配下として台頭します。











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8001.挙式列席で、10/19〜20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(5) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/28(月) 21:1
 それでは、本堂に参詣です。
 ここでは、写真撮影不可との事でしたので、少し離れた所からパチリとなりました(^.-)☆

 ◆石山寺本堂

 石山寺は、聖武天皇の勅願により、良弁僧正が天平19年(747)に、現在の地に聖武天皇の念持仏を安置したことにより、始まる。さらに天平宝字3年(759)、淳仁天皇により保良宮が近くに造営され、石山寺は造石山寺所という役所のもとで、保良宮を護持する寺として拡張され、官の寺として伽藍が整えられる。
 平安時代になると、醍醐寺の影響下に入り、真言密教の教学の寺となる。一方、観音霊場の寺として、皇族・貴族が参詣するようになる。石山寺は承暦2年(1079)に大火災に見舞われ、本堂はじめ多くの堂舎が焼失したが、鎌倉時代に入り、武士とのつながりのなかで、現在みられる景観の堂舎がほぼ出来上がった。観音巡礼は室町時代から江戸時代にかけて盛んになり、西国三十三所観音霊場第13番札所の石山寺は、現在も多くの参詣者を集めている。
 石山寺には、国宝建造物として、本堂の他に、多宝塔があり、また東大門と鐘楼は国重要文化財。
 石山寺本堂は、承暦2年(1079)の大火で焼失した後、永長6年(1096)に再建されたものであり、滋賀県では最古の建造物である。正堂と礼堂からなる複合建築物であり、如意輪観音を安置する桁行七間、梁間四間の正堂の南に、桁行九間、梁間四間の礼堂を建て、両者を一間幅の相の間で繋いでいる。正堂と礼堂の屋根はそれぞれ寄棟造りで、棟は平行しており、これを縦に結ぶ屋根を相の間に懸けてある。従って棟はエ字型になるが、礼堂の屋根だけが低いので、相の間の屋根の破風が正面に見える。正堂から礼堂の側にかけて、地盤が下がっているので、礼堂は床下に高い柱を入れて支える懸造になっている。現在の正堂は、永長6年(1096)に再建されたものと変わっていないが、礼堂は慶長4年から7年(1602)にかけて、淀殿らの寄進によって建て直されている。
 石山寺本堂は、その周囲の敷地や樹林等の関係から、一枚の写真に納めることはできない。
 「石山寺」と書かれた提灯の奥が紫式部源氏の間であり、この部分が相の間となっている。従って、この部分より右側が正堂、左側部分が礼堂である。

 ◆石山寺 三十八所権現社本殿

 石山寺は、大津市内に所在する真言宗寺院で、平安時代建立の本堂を中心とした伽藍をもつ。
 室町期創建の御影堂は、慶長期に洗練された外観に整備された。三十八所権現社本殿は慶長7年(1602)の建築で、華麗な彫刻や彩色で装飾され、その拝殿として同時に建てられた蓮如堂とともに、寺院における鎮守社の構成を伝える遺構として貴重である。
 経蔵を含めたこれらの建物群は、石山寺の独特な伽藍を形成した、慶長期の復興造営の様相を伝える建築物として高い歴史的価値がある。












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8000.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(16) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/28(月) 19:59
 嘯岳禅師の墓から少し下りて来ました所に「毛利元就公墓所」が存在です。
 石段を上がりますと、右手に墓所。左手に「百万一心」の石碑が存在でありました。

 ◆毛利元就の墓(吉田町)

 元就は1571年(元亀2年)に城麓の御里屋敷で75年の生涯を閉じました。その墓は、郡山城跡山麓の洞春寺跡に残されています。
 郡山城の搦手(からめて)に建てられた洞春寺跡にあります。元就は元亀2年(1571)6月14日城麓の御里屋敷で波瀾万丈の生涯を閉じました。享年75歳の初夏でした。墓標には「はりいぶき」が植えられ、3回忌に菩提寺洞春寺が建立されました。
 墓所境内には毛利氏一族の墓、百万一心碑などがあります。

 ★【毛利公墓前祭】

 毛利元就は、中国地方をほぼ平定した元亀2(1571)年、75歳で没しました。墓標には、今は枯れていますが「ハリイブキ」が植えられ、菩提寺の洞春寺が建立されました。墓前の石灯籠の中には、吉田の名医土生玄碩や広島藩主浅野吉長から寄進されたものもあります。標樹近くに「贈従三位大江朝臣元就卿御墓」の墓碑があります。毎年7月16日には、現在の71代目毛利家当主を招き、墓前祭が行われます。
 いつもは、柵の外側からしかの見学できませんが、この日だけは中に入ることができ貴重な体験が出来ます。

 ◆百万一心碑(吉田町)

 元就は城拡張の際に、それまでの風習であった人柱に替えて「百万一心」と彫らせた巨石を埋めたと伝えられています。その拓本を模刻し建設したものです。
 毛利元就が郡山城を拡張するとき人柱に替えて姫丸壇の礎石に「百万一心」と彫らせ、それを埋めたと伝えられています。その拓本を長さ1.8メートル、幅0.6メートルの石に模刻し、建設したもので、町のモットーともなっています。

 ・百万一心(ひゃくまんいっしん)は、戦国時代の大名毛利元就が吉田郡山城(安芸高田市)の拡張工事(普請)の際に人柱の代わりに使用した石碑に書かれていた言葉。

 ・概要

 百万一心とは、「百」の字の一画を省いて「一日」・「万」の字を書き崩して「一力」とすることで、縦書きで「一日一力一心」と読めるように書かれており、「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」ということから、国人が皆で力を合わせれば、何事も成し得ることを意味している。吉田郡山城の改築で本丸石垣の普請が難航したときに、人柱に代えて、本丸裏手の「姫の丸」(姫丸壇)にこの句を彫り込んだ石を埋めたところ、普請は無事に終えられたと伝わる。同じく毛利元就の教えとされる三矢の教え(三子教訓状を参照)と共に、一致団結の大切さを訴えた教えとされている。
 この石碑は、文化13年(1816年)に長州藩士だった武田泰信が姫の丸で発見、拓本の要領で写しを取った後に、明治15年(1882年)に写し取った拓本を毛利元就を祀る豊栄神社(山口市)に奉納した。ただしこの逸話は、毛利家文書や閥閲録その他の一次史料には記載されていない。
 その後、吉田全町をあげて郡山全山を探索したものの、礎石の実物は発見されなかったため、観光パンフレットなどには「郡山城最大の謎」と書かれている。昭和6年(1931年)には、吉田郡山城跡の中にある毛利一族の墓所境内に、その拓本を元に模刻した石碑が建てられた。
 上述の通り、武田泰信の自書以外に史料が乏しいため、実際に元就がこの言葉を語ったかどうかは定かではない。また、百万一心の語は元々神道でも見られる言葉であることから、百万一心碑を人柱の代用にすること自体も含め、吉田郡山城が尼子詮久の大軍に包囲された吉田郡山城の戦いにおいて陶隆房と共に毛利の救援に駆けつけた、白崎八幡宮大宮司も兼ねていた大内家の武将・弘中隆包が、懇意にしていた元就に助言したことが始まりという説もある。

 ・逸話

 安芸高田市歴史民俗博物館(旧 吉田郷土資料館)で配布されている「百万一心のはなし」では、次のようなエピソードを紹介している。
 12歳の松寿丸(元就の幼名)が厳島神社を参拝したところ、泣き続ける5〜6歳ぐらいの少女を見つけた。この少女は母親と巡礼の旅をしていたが、ある城の築城で母親が人柱に選ばれてしまったという。幼い頃に父母と死に別れている松寿丸は少女に同情し、郡山城に連れ帰った。15〜16年の年月が経って、元服した元就が吉田郡山城主となった頃、本丸の石垣が何度築いても崩落するので困っていた。やがて、人柱が必要だという声があがったため、普請奉行は巡礼の娘を人柱にすることにした。娘自身も、元就に助けて貰ったお礼として喜んで人柱になると答えたが、元就は「その娘を人柱にしてはならぬ」と厳命。翌日、元就は「百万一心」と書いた紙を奉行に渡し、その文字を石に彫って人柱の代わりに埋めるよう命じた。そして、人柱を埋めずに人命を尊び、皆で心と力を合わせてことにあたるよう教えた。

 ふ〜ん、そぅなんですか…
 「百万一心」の礎石は、吉田全町をあげて郡山全山を探索されたようですけど、実物は発見されなかったのですねぇ〜
 未だに郡山城のどこかに埋まっているのでしょうけど、いつの日か、どなたかが発見されますと宜しいですネ(^-^)//"












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7999.挙式列席で、10/19〜20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(4) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/27(日) 10:25
 ◆毘沙門堂

 安永2(1773)年の建立。兜跋毘沙門天(平安時代後期)を本尊として安置されています。
 源頼朝の側近だった中原親能が反乱の討伐に向かうにあたって、石山寺に詣で、観音様に勝利を祈願し、石山寺の門から出発しようとしたところ毘沙門天が現れ、無事反乱を鎮めることができたと『石山寺縁起絵巻』に記されているそうです。
 なおこの堂は兜跋毘沙門天への信仰が厚かった和歌山の藤原正勝という人が施主となって建てたこと、大阪で木材の加工や彫刻を行い現地で組み立てたことなどがわかっているそうです。

 ・石山寺木造毘沙門天(びしゃもんてん)立像の概要を知りたい

 石山寺は大津市石山寺一丁目にあります。『滋賀県百科事典』によりますと、概要は「毘沙門堂に安置。尼藍婆(にらんば)、毘藍婆(びらんば)を両脇に従えた地天の掌上に立ち、兜跋(とばつ)毘沙門天とされる仏像である(石山寺では兜跋をつけない)。この兜跋とは吐蕃(チベット)、あるいは「長い外套様の上着をつけた」を意味するなど諸説があるが、根本像たる東寺像は唐風からの請来像で、四面宝冠をいただき、長い金鎖甲、海老籠手をつけて地天の掌上に立つ姿となる。

 石山寺像は東寺像とはことなる服制をとり、通途の中国風の甲をつけ、叡山の前唐院様にちかい。(中略)石山寺像の像高は172.5cm、1本造の彩色像で、足下の地天・二鬼も1材からつくられる。9世紀末から10世紀初めころの作であろう。重要文化財。(佐々木進)」とあります。

 ◆御影堂

 室町時代の建立。空海、良弁、淳祐の御影が安置されているそうです。江戸時代建立の毘沙門堂と比べるとごちゃごちゃしてなくてシンプルで素敵新緑。
 柱はすべて円柱で、板塀のところは半蔀を吊って障子をたてています。












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7998.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(15) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/27(日) 9:32
 ◆御本丸跡

 「西日本最大級の中世の城」として知られる郡山城(広島県安芸高田市)。地名から「吉田郡山(よしだこおりやま)城」とも呼ばれます。このお城の最大のみどころは、標高390m、比高190mの山頂を中心として、放射状に築かれた270もの曲輪。山頂に築かれた本丸を中心として放射状に伸びる6本の尾根と、さらに尾根から分かれる支尾根が6本、合わせて12本の尾根が生かされています。さらに、12本の尾根の間にある12ヵ所の谷を曲輪や道路として利用。本丸を見上げながら、次から次へと遭遇する曲輪を歩いていると、その複雑な構造を実感できます。

 休憩も兼ねまして御本丸跡をジックリ見廻し、ここで集合写真をパチリとなりました。そして、元就公墓所へと下山です。
 御蔵屋敷跡を横目に下山で、元就公墓所を目前に「嘯岳禅師の墓」が…

 ◆嘯岳禅師の墓

 嘯岳禅師は元就によってこの地に招かれた高僧で、元就の菩提寺である洞春寺の開山となりました。毛利家墓所の上にあり、柊の大木のもと高さ2.7メートルの宝筐印塔が建っています。
 禅師は2度も明に渡り、帰朝後、京都の建仁、南禅両寺に歴任していましたが、元就の要請により三原妙法寺の住職となりました。毛利家の尊敬厚く、出陣毎に戦勝の祈とうを執行させました。
 元就逝去には葬儀の尊師を努め、3回忌には菩提寺洞春寺の開山となりました。












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7997.町内会の回覧で、こんなご案内が… 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/26(土) 14:22
 町内会の回覧で、先日、こんなご案内が(^.-)☆
 一つは、「水呑学区ふれあい文化祭」で、もう一つは「住民懇談会」のご案内でありました。
 今年の「ふれあい文化祭」は、11/2(土)〜11/3(日)の開催のようですネ。毎回、GONsnnは「水呑の史跡めぐり」と、体育館内での「作品展(絵画・写真・工芸・書・手芸…等)」を楽しんでおりますけど、史跡巡りの方は、数年毎に同じコースを歩きますから、今回は、どうしたものかと(^-^)
 とは言いながらも、今回もまたウォーキングを兼ねて出掛ける事になりますかも…

 ふれあい文化祭での楽しみの一つに『お楽しみ抽選会』も、ありますし(^-^)
 これは仲々楽しみなんですけど、今まで当たった事がありません。そろそろ当たってもイィのに…と思うのですけど、皆さんも同様ですから仲々(^-^)
 ですが、参加しないことには、出掛けないことには当たりませんから、やっぱり参加しなくては(^.-)☆

 住民懇談会の方は、「災害から身を守ろう」がテーマのようであります。
 ここ近年は「災害多発時代」の言葉を、決してヨソ事で無く身近に感じてしまいます。久し振りに「住民懇談会」にも参加してみようかと…
 







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7996.挙式列席で、10/19〜20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(3) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/26(土) 13:28
 参道脇には、「公風園白耳亭」「大黒天」「くぐり岩」「世尊院」が存在です。これらをWEB上で検索してみますと、

 ◆公風園白耳亭
 石山寺の参道の脇にあり、見落としがちな庭園。中は立入禁止だが、外から眺めるだけでも大変美しい。

 ◆大黒天
 本尊・大黒天は1024年に3人の僧の夢のお告げで湖水より出現…と、お寺のHPはあっさりした紹介です。
 弘法大師作(1200年前)福招・出世拳印大黒天(右手親指内にして握る)を安置する。万寿元年(1024)、石山寺大黒天は、三人の僧の夢のお告げにて湖水より出現しました。室町時代には、秘仏ご本尊の前にお前立ちの仏さまが造立されました。

 ◆くぐり岩
 境内の手水場にあるくぐり岩は、天然の胎内くぐりの状態になっているもので自然の大理石でできている。くぐり岩は、奈良時代からある聖域。

 ◆世尊院
 WEB上には、「このたび、石山寺の迎賓館である世尊院を会場に、「関西美術院」創設者の浅井忠や、日本洋画界の重鎮でもある梅原龍三郎、そして現在の指導者による作品を展示します…」の記載がありましたので、世尊院は石山寺の迎賓館のようですねぇ(^-^)

 公風園白耳亭は、入口から中を覗いてみましたけど、確かに、紅葉の季節にはさぞキレイだろうと思います。
 くぐり岩は、早速、くぐってみましたけど、二度ばかり岩で頭をゴツンと(^-^;
 池には大きな鯉が泳いでおりました。画像の白っぽいコイのデカいこと\(^o^)/本当に大きいコイでありました(^_^)v










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7994.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(14) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/26(土) 9:18
 皆さんの最後尾辺りでズッと歩いておりましたけど、ヤッと郡山城二の丸跡にと到着です(^.-)☆
 旧本城に向かわれませんでした方々は、私達の到着を今か今かと待っておられましたのでしょうねぇ〜先発隊・後発隊の皆さんが再び合流となりました(^-^)

 ◆吉田郡山城

 吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)は、広島県安芸高田市吉田町吉田にあった日本の城。安芸国の戦国大名毛利氏の居城であった。城跡は「毛利氏城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定されている。

 ・概要

 城は可愛川(江の川)と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山に及ぶ。築城初期は砦のような小規模な城だったが、毛利氏の勢力拡大とともに拡張され、山全体を要塞とする巨大な城郭となった。後に毛利輝元が広島城へ移るまでのあいだ居城としていた。

 ・沿革

  -- 室町時代まで --

 吉田郡山城の築城時期は不明とされるが、城内にある祇園社(正中2年(1325年)より以前の創建。現在の清神社)より後に築城されたとされる。吉田荘(よしだのしょう)の地頭職として毛利時親が下向したのは建武3年(1336年)であるが、宝永2年(1705年)に書かれた「高田郡村々覚書」には「時親公より以後」に吉田郡山城に住んだと記述してある。
 文和元年(1352年)に毛利元春が「吉田城」なる城に籠もったこと記録されていたり、応永4〜7年(1371-1374年)の毛利親衡書状の宛先が「郡山殿」となっているため、元春が築城したと解説される場合もあるが、これが吉田郡山城のことを指すのかどうか、現存の吉田郡山城に直接繋がる城なのかどうかは定かではない。

 当初の郡山城は砦程度の小規模な城で、一般的な国人領主や豪族の城と変わりなく、12代目にあたる毛利元就が入城する大永3年(1523年)までは大きな変化はなかった。元就は国人領主の盟主から戦国大名への脱皮を図り、郡山全体に城域を拡張していく。郡山全域の城郭化が始まったのは元就の晩年と考えられており、天文9年(1540年)から翌年正月まで続いた吉田郡山城の戦いの頃はまだ拡張前だった。ただし、尼子詮久(後の尼子晴久)率いる3万の大軍を撃退したこの合戦では、農民男女を加えた8,000余りが籠城したとされるので部分的な拡張が始まっていた(もしくは、城郭化される前の全山に人を入れた)可能性も指摘される。少なくとも、南麓に堀が設けられたのは、天文20年(1551年)頃とされ、城域が拡張されたのも天文年間の後半とする見方もある。

 -- 安土桃山時代 --

 拡張・整備が続けられた吉田郡山城内には、城主元就だけでなく、嫡子毛利隆元や一部の重臣たちの館も設けられたといい、戦時のみ城郭に籠もる従来型の山城から、平時の居館と戦時の城郭が一体化する近代的な性格を持つ城に変わった。元就の孫の毛利輝元の頃には石垣や瓦葺きなども使った近代的な城郭へと変貌した。天守は元就時代には無かったが、見張り用の櫓が本丸の最上段に建てられた。輝元時代には三層三階の天守があったともいうが詳細は不明である。天正12年(1584年)にも城の修築・城下の整備を輝元が指示しており、城下の上町を「しらかへ」にするように命じていたり、毛利氏が豊臣秀吉に従属した後に使用したと考えられる金箔瓦も出土している。

 しかし、山間部の盆地に位置する吉田郡山城は交通の便も悪く、天正19年(1591年)に広島城がほぼ完成すると、吉田郡山城は毛利氏の本拠としての役割を終え、家臣や城下町の商人らは広島城下に移住した。廃城時期は、毛利氏の広島移住後の天正19年、関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)頃などと諸説あるが、毛利氏の本城としての役目を終えた天正19年が事実上の廃城時期と言って差し支えないと考えられる。この時に、山麓の堀は埋められたとも言われているが、大坂城天守閣で保存されている穂井田元清書状内で、文禄3年(1594年)に元清が兄の小早川隆景とともに吉田に出頭したとあり、何らかの形で吉田郡山城が維持されていたことが確認できる。また、山城を重視する輝元が、完全な平城である広島城に対して、詰めの城として引き続き吉田郡山城を温存していたとの見方もある。

 -- 江戸時代 --

 慶長20年(1615年)に江戸幕府が出した一国一城令により吉田郡山城も取り壊され、寛永14年(1637年)に島原の乱が起きると、キリシタンの決起を恐れた幕府によって、石垣や堀なども破却・撤去された。幕末には広島藩の支藩として広島新田藩が成立し、文久3年(1863年)に吉田郡山城の麓部分に陣屋が置かれた(吉田陣屋)。明治2年(1869年)に廃藩となり、陣屋の建物は廃され、もしくは移築された。
 江戸時代中期には吉田郡山城とその城下を描いた絵図「吉田郡山御城下古図」が作成された(現在は毛利家文書として山口県文書館に収蔵)。また、幕末にも浅野氏による測量が行われた。

 -- 現代 --

 明治初期に、毛利元就墓所の改修工事が行われ、二の丸跡の石垣から一部の石が運び出されたと記録がある。
 昭和15年(1940年)に吉田郡山城跡が国の史跡に指定され、昭和63年(1988年)には猿掛城跡を追加して「毛利氏城跡」となった。
 平成2年(1990年)、郡山山麓に吉田町歴史民俗資料館(現・安芸高田市歴史民俗博物館)が開館、毛利氏関連資料が公開された。また郡山の西にある大通院谷の渓流砂防事業により公園が整備されているが、それに先だって平成7年(1995年)頃より発掘調査が行われている。この調査では、毛利氏時代より古いものを含めて、遺構・遺物が発掘された。平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(72番)に選定された。 ⇒



7995.Re: 9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに…
名前:GON    日付:2019/10/26(土) 9:20
 ⇒

 ・構造

 城の遺構は、標高約390m(比高190m)の山頂部から放射状に延びる尾根とその支尾根や谷部に大小270以上の曲輪がある。複数の尾根(尾根ごとに多数の曲輪があるため、それぞれが小城のような造りになっている)を組み合わせた複雑な縄張りは、他の国人領主たちの城とは大きく異なる特徴である。
 城の南には内堀、西には大通院谷、北の尾根には裏手の山(甲山)と区分する堀切があり、これら城域部分の総面積は7万m2に及ぶ。山頂部が本丸で一段下がり二の丸、さらに三の丸と続く。石垣が使われたのは、本城の中枢部分である本丸から三の丸周辺までである。

 ・曲輪

 本丸 -- 郡山山頂に位置する一辺が約35mの曲輪。元就の屋敷があった。北端に一段高くなった櫓台(長さ23m、幅10m)がある。前述の吉田郡山御城下古図や、天正15-16年頃に描かれた絵図には、本丸に三層の天守閣が描かれている。
 二の丸 -- 高さ0.5m幅1mの石塁や石垣で囲まれ、27mと15mの方形に区画されている。二の丸の南側には石垣跡が残っているが、往年は東側・西側にも石垣があったと推定される。
 三の丸 -- 城内最大の曲輪で、石垣・土塁・掘削などによって四段に分けられている。石塁・石垣などが現存する。西側の虎口には、石垣の中に階段が組み込まれて内枡形となっており、近世城郭的な構造である。三の丸から連なる帯曲輪には御蔵屋敷あった。
 釜屋(かまや)の壇 -- 本丸から15m下がった北側に位置し、炊事場があった。6つの段で形成される曲輪群。ここから北へ向かうと羽子の丸へ出る。
 厩(うまや)の壇 -- 三の丸の東から東南に400m伸びる尾根の基部で、壇の下に馬場があった。厩の壇は11段、馬場は9段の曲輪群である。
 妙寿寺の壇 -- 郡山南側を守る13段の曲輪。
 勢溜(せだまり)の壇 -- 御蔵屋敷の下段を堀切で区画して独立させた大小10段の曲輪から成り立つ。この壇のすぐ側を通る道が、本丸から城下に続く大手筋と考えられており、本丸守備兵が滞在するなど厳重な防御線を形成していたと思われる。
 釣井(つりい)の壇 -- 本丸の西側にある1段の曲輪。直径2.5mの石垣で組まれた井戸があるが、現在は埋もれており深さは4mに止まる。
 姫の丸 -- 本丸の北にある7段の曲輪群で、本丸北側の石垣の基部にあたる。「一日一力一心(百万一心)」と書かれた礎石が埋められていると伝わる。
 満願寺の壇 -- 満願寺を含む6段から成る曲輪群。
 矢倉の壇 -- 勢溜の壇からさらに南西に進んだ尾根にある8段の曲輪群。
 一位の壇 -- 矢倉の壇の北側にある10段の曲輪群。
 尾崎丸 -- 旧本城と新城の間を繋ぐ位置にあり、堀切で区画されている。独立的な性質を持つ17段の曲輪群であり、毛利隆元の居館があったと推定されている。
 旧本城 -- 尾崎丸の尾根から南東の麓に位置し、元就が城郭域を拡張するまでの本城。戦国時代初期の山城の形態をよく残している。尾崎丸との間(旧本城から見ると裏手側)には2つの堀切がある。旧本城の本丸にあたる曲輪には、西側の高台に物見台、隆元が一時期居住していたとされる屋敷などがあった。旧本城に相当する部分は、本丸・二の丸・三の丸など16の曲輪で構成され、曲輪の面積は4,000m2前後である。標高293m(比高90m)。
 羽子の丸 -- 本丸の北東(艮)の方角にあり、詰めの丸的な役割を与えられた独立的な曲輪。釜屋の壇とは幅7m、深さ3mの堀切で隔てられている。曲輪数は9段。
 千浪郭群(せんろうかくぐん) -- 郡山の背後にある甲山(かぶとやま)との間を守る9段の曲輪群。

 …と、こんな「吉田郡山城」の本丸跡に辿り着きましたねぇ\(^o^)/












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