ご挨拶が終わりますと、まずは俄山弘法大師堂・宿坊へと向かいます。 俄山弘法大師堂をWEB上で検索しますと、こんな記載がありました。
◆俄山弘法大師堂
--- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---
俄山弘法大師堂(にわきやまこうぼうだいしどう)は広島県福山市津之郷町の俄山にあるお堂、名水、湯治場。弘法大師の湯あるいは単に俄山弘法大師とも呼ばれる。
・歴史
807年(大同2年)、弘法大師が明王院を開くときに俄谷を訪れ、病に悩む地域住民の救済のために加持祈祷(かじきとう)を行い、錫の杖で俄山の斜面の岩を突くと、そこから霊水が噴出するようになったと伝えられる霊水は「温泉水弘法水」として近隣住民が数多く集まり利用するようになった。「温泉水弘法水」の御利益を求める民のために、お堂や水くみ場、お籠り堂(休憩所・宿泊所)が整備され、1919年(大正8年)に入佛祭りが執り行われた。1918年に発足した俄山弘法大師遺徳会が運営し、会員が交代で24時間365日駐在している。俄山弘法大師遺徳会は地域住民280世帯で構成される。お堂には弘法大師像が祭られる。信仰の場であるとともに、地域住民の集いの場にもなっている。2006年には俄山弘法大師堂に迫る山火事があり、住民総出で3日間の消火活動を行った。2009年に宿泊施設と入浴施設が建て替えられた。
★郷土誌での言及
・備陽六郡誌
「備陽六郡志」(びようろくぐんし)は1740年頃から30年間に渡って福山藩士の宮原直倁(1702-1776年)が執筆した全44冊からなる自筆稿本で、備後地方の江戸自体からの歴史を語るうえで外せない郷土資料である。「俄山弘法大師堂」は大正時代の創設なので江戸時代に編纂された「備陽六郡志」に言及がないのは当然であるが、奈良時代から知られている「弘法の水」に関すると思われる記述も無い。
・西備名区
福山市の庄屋・馬屋原重帯(1762-1836年)が著した備後全域の地誌「西備名区」の津之郷村のページには下記のような記載がある。
俄来越南の小谷にあり。里諺に云、昔いつの比にやありけん、一人の山伏、女をこの山中にて斬り、其刀を此谷水に洗ふ。然るを里人見付け大勢集まり、石こつめにして小石を以て埋殺しぬ、是を山伏塚と伝ふ。其の太刀を洗いし谷水を人飲む時は腹痛す。其比空海師、此の所を通り給い、此よりを聞召、大刀洗より南の小谷の巌石に加持して霊水を出し、里人に教へ示して曰く、若、人、大刀洗の水を飲みて腹痛せは、此の水を飲むへし、必ず其の災を免るへしと、夫より此の水を弘法水という。 -- 「西備名区」津之郷村 弘法水 大刀洗水 山伏塚より --
刀を洗った谷水というのは俄山弘法大師堂のすぐ横を流れる小田川と思われる。現在「山伏塚」というものは残っていないが、俄山弘法大師堂から北に400mほど登った場所に、俄山不動院の「奥の院」があり、その横に「女郎塚」というのが存在し、これが殺された女性の塚だと思われる。⇒
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