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GONchan's 掲示板 @

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せっかく訪れて頂きましたのですから、何か足跡を記して頂けましたら幸いです(^-^)/


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7992.挙式列席で、10/19〜20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(2) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/25(金) 23:43
 空模様からして参詣客は、さほど多くはありませんが、まぁそれなりに観光客の皆様が訪れておられます(^.-)☆
 天気予報からして、もぅ降雨は無いものと思い、GONsanは傘も持たずに散策開始となりました。

 ◆石山寺

 石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市にある東寺真言宗の寺院。本尊は如意輪観音、開基は良弁。西国三十三所観音霊場第13番札所となっている。『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は、石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。
 紅葉の名所としても知られ、秋にはライトアップが行われており、2015年に日本夜景遺産に認定された。洋画家の三谷祐幸から寄付される形で関西美術院の所有者となっている。

 ・歴史

 石山寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は国の天然記念物の珪灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている(石山寺珪灰石は日本の地質百選に選定)。
 『石山寺縁起絵巻』によれば、聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁(東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまりとされている。聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金(金メッキ)を施すために大量の黄金を必要としていた。そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、吉野の金峰山に祈らせた。

 金峯山はその名の通り、「金の山」と信じられていたようである。そうしたところ、良弁の夢に吉野の金剛蔵王(蔵王権現)が現われ、こう告げた。「金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるものである(だから大仏鍍金のために使うことはできない)。近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」。夢のお告げにしたがって石山の地を訪れた良弁は、比良明神(≒白鬚明神)の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てた。そして程なく(実際にはその2年後に)陸奥国から黄金が産出され、元号を天平勝宝と改めた。こうして良弁の修法は霊験あらたかなること立証できたわけであるが、如意輪観音像がどうしたことか岩山から離れなくなってしまった。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創という。(その他資料としては『元亨釈書』や、後代であるが宝永2年(1705年)の白鬚大明神縁起絵巻がある。)

 その後、天平宝字5年(761年)から造石山寺所という役所のもとで堂宇の拡張、伽藍の整備が行われた。正倉院文書によれば、造東大寺司(東大寺造営のための役所)からも仏師などの職員が派遣されたことが知られ、石山寺の造営は国家的事業として進められていた。これには、淳仁天皇と孝謙上皇が造営した保良宮が石山寺の近くにあったことも関係していると言われる。本尊の塑造如意輪観音像と脇侍の金剛蔵王像、執金剛神像は、天平宝字5年(761年)から翌年にかけて制作され、本尊の胎内に聖徳太子念持仏の6寸如意輪観音像を納めたという。

 以降、平安時代前期にかけての寺史はあまりはっきりしていないが、寺伝によれば、聖宝、観賢などの当時高名な僧が座主(ざす、「住職」とほぼ同義)として入寺している。聖宝と観賢はいずれも醍醐寺関係の僧である。石山寺と醍醐寺は地理的にも近く、この頃から石山寺の密教化が進んだものと思われる。

 石山寺の中興の祖と言われるのが、菅原道真の孫の第3世座主・淳祐(890−953)である。内供とは内供奉十禅師(ないくぶじゅうぜんじ)の略称で、天皇の傍にいて、常に玉体を加持する僧の称号で、高僧でありながら、諸職を固辞していた淳祐がこの内供を称され、「石山内供」「普賢院内供」とも呼ばれている。その理由は淳祐は体が不自由で、正式の坐法で坐ることができなかったことから、学業に精励し、膨大な著述を残している。彼の自筆本は今も石山寺に多数残存し、「匂いの聖教(においのしょうぎょう)」と呼ばれ、一括して国宝に指定されている。このころ、石山詣が宮廷の官女の間で盛んとなり、「蜻蛉日記」や「更級日記」にも描写されている。
 現在の本堂は永長元年(1096年)の再建。東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、源頼朝の寄進により建てられたものとされ、この頃には現在見るような寺観が整ったと思われる。石山寺は兵火に遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している。 ⇒



7993.Re: 挙式列席で、10/19〜20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(2)
名前:GON    日付:2019/10/25(金) 23:45
 ⇒

 ★石山寺と文学作品

 石山寺は、多くの文学作品に登場することで知られている。
 『枕草子』二百八段(三巻本「日本古典文学大系」)には「寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀」とあり、藤原道綱母の『蜻蛉日記』では天禄元年(970年)7月の記事に登場する。『更級日記』の筆者・菅原孝標女も寛徳2年(1045年)、石山寺に参篭している。紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされている。伝承では、寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られている。『和泉式部日記』(十五段)では、「つれづれもなぐさめむとて、石山に詣でて」とあり、 和泉式部が敦道親王との関係が上手くいかず、むなしい気持を慰めるために寺に籠った様子が描かれている。

 ★伽藍

 ・本堂(国宝)---正堂(しょうどう)、合の間、礼堂(らいどう)からなる複合建築である。構造的には正面7間、奥行4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を示す建築用語)の正堂と、正面9間、奥行4間の礼堂という2つの寄棟造建物の間を、奥行1間の「合の間」でつないだ形になり、平面は凸字形になる。正堂は承暦2年(1078年)の火災焼失後、永長元年(1096年)に再建されたもので、滋賀県下最古の建築である。内陣には本尊如意輪観音を安置する巨大な厨子がある。合の間と礼堂は淀殿の寄進で慶長7年(1602)に建立されたものである。合の間の東端は「紫式部源氏の間」と称され、執筆中の紫式部の像が安置されている。礼堂は傾斜地に建ち、正面は長い柱を多数立てて床を支える懸造(かけづくり)となっている。懸造の本堂は、清水寺、長谷寺など、観音を祀る寺院に多い。
 ・多宝塔(国宝)---建久5年(1194)建立で、年代の明らかなものとしては日本最古の多宝塔である。内部には快慶作の大日如来像を安置する。
 ・東大門(重文)---参道入口の門。入母屋造、瓦葺きで、建久元年(1190年)の建立であるが、本堂の礼堂が建立されたのと同時期の近世初期に大幅な修理を受けている。
 ・蓮如堂(重文)・鐘楼(重文)---鎌倉時代・毘沙門堂---1773年建立・御影堂(重文)・三十八所権現社本殿(重文)---桃山時代・大黒天堂・月見亭

 ★石山寺東大門

 ・重要文化財 建造物
 ・石山寺東大門 一棟(大津市石山寺一丁目)

 東大門は、三間一戸(さんげんいっこ)の八脚門(やつあしもん)、入母屋造、本瓦葺の建物で、正面の左右に仁王像を置くことから仁王門とも呼ばれています。
 現存の門は、鎌倉時代の初期、建久元年(1190)の建築で、桃山時代の慶長年間(1596〜1615)にかなり大規模な修理改造が加えられています。天井下の蟇股(かえるまた)や破風(はふ)の懸魚(げぎょ)などに桃山時代の特徴がよく現れています。しかしながら、やはり建物の建ちが低く、深い軒は古寺の大門としてふさわしい姿をしています。
 明治40年(1907)8月に重要文化財に指定されました。

 -- 大津市教育委員会 平成五年(1993)三月 --










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7991.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(13) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/25(金) 22:19
 ◆尾崎丸跡

 尾崎丸、満願寺二王門のあった峰の中腹を堀切で隔て、その先端も本城との間の鞍部を利用して三条の堀切で隔てた独立的な曲輪郡である。
 中心の尾崎丸は、長さ42m、幅20mと、この曲輪群中最大の曲輪で、北側は堀切と土塁で画し、土塁上段に一段、下段に約3mの高さをもつ二段の小曲輪を配置し、さらにその下には約2mの差を持って、小さな付曲輪と最大な帯曲輪を配置し、守りを固めている。なお、尾崎とは毛利隆元が尾崎殿と称されていることから、隆元の居所と考えられる。

 --- 平成四年三月 吉田町教育委員会 ---

 ◆勢溜(せだまり)の壇

 御蔵屋敷の下段を堀切で区画して独立させた大小10段の曲輪から成り立つ。この壇のすぐ側を通る道が、本丸から城下に続く大手筋と考えられており、本丸守備兵が滞在するなど厳重な防御線を形成していたと思われる。
 勢溜の壇跡 勢溜の壇は本丸の峰から南西へ長くのびる尾根を御蔵屋敷の下段を堀切で区切って独立させ、十段の大型の曲輪からなる大型の曲輪からなる壇で、尾根沿いに比高差約1mで、面積約500平方mから700平方mの広さの曲輪を四段連ね、その先にこれらを取り巻く帯曲輪を三段、さらにその先端には付曲輪を加えている。
 この曲輪群では、特に東南方の大手、尾崎丸奉公への防御は厳重で、たとえこの方面を破ってもこの三重の帯曲輪で防ぐことができ、現在の登山道が当時のものとすれば、さらにこの上の勢溜の壇の曲輪群から攻撃できる構造になっている。 ここには本丸守護の兵が滞在していたことがうかがえる。











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7990.挙式列席で、10/19〜20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(1) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/24(木) 16:34
 2ヶ月前の8月には、嫁さんの甥の挙式で金沢行きとなりましたけど、今回は、またまた嫁さんの甥の挙式で、京都行きとなりました(^.-)☆
 挙式は、10/20(日)なのですけど、以前から一度出掛けてみたいと思っておりました大津市の石山寺への参詣で、我が家を出ましたのは、前日(10/19)A.M.9:00少し前。
 この日の天候は、広島県内は朝方から降雨もあがり曇り空。関西地方は午前中降雨で午後は曇り。
 大津に到着します頃には、降雨もないものと願いながらの関西行きでありました。

 石山寺の駐車場に到着で、時間を確認しますと、12:58。3時間での到着を予定しておりましたけど、歳を重ねますと連続運転は苦痛ですし、何度か休息を入れながらの走行ですから、う〜ん、こんなもんかも分かりません(^-^)
 駐車場に車を駐めますと、すぐそばに、うどん屋さんが存在です。入口にはメニューも何にもありませんけど、とりあえず入店。
 メニューを手にしますと、いゃぁ、結構、高い(^-^;
 ですが、今更席を立つ訳にもいきませんから、メニューの中でも一番低額のうどんを注文しましたけど、それでも高い(^-^;
 高いだけありまして、美味しいうどんではありました\(^o^)/

 昼食後は、永年の念願叶い、ヤッと石山寺にと参詣ですけど、その前に「石山寺観光案内所」に立ち寄りパンフレット入手で事前勉強となりました(^-^)
 石山寺観光案内所入口付近には、「石山貝塚」が存在です。

 ◆石山貝塚(いしやまかいづか)

 貝塚とは縄文時代に人々が食べた貝の殻が捨てられて堆積したもの。
 現在の石山寺の前あたりには、東西約20メートル、南北約50メートルにわたり貝層が堆積し、淡水産貝塚では日本最大の規模。貝層からは人骨や動物の骨など豊富な遺物が出土。石山観光会館にはぎとった貝層を展示。市指定史跡。

 それでは、入門です。











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7989.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(12) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/24(木) 12:24
 それでは、今から、「郡山城跡(旧本城)」に向かって歩行です(^.-)☆
 尾根伝いに上って行きますが、途中に掘切が…

 ◆堀切(ほりきり)
 山城の基本用語 -- 尾根をスパッと断ち切る堀。尾根づたいに攻めてくる敵を足止めできるから、山城では基本アイテムだ。

 …と、WQEB上にはこんな記載がありますけど、山城には、ごく当たり前に存在しますようですネ(^-^)
 暫く上って行きまして、ヤッと郡山城跡(旧本城)に到着です。

 ◆「旧本城」説明板。

 建武の新政(鎌倉幕府が滅びて室町幕府が出来るまで行われていた後醍醐天皇の政治期間。足利尊氏、楠木正成、新田義貞など。太平記で有名)の頃に築城された旧郡山城とのこと。
 本丸(ここ)、二ノ丸、三の丸が一列に直線的につながっているという。本丸には櫓台もある、と書いてあるようです。

 この場所に城が築かれましたのが1336年…と言う事は、今から683年も昔の事となりますねぇ〜当時に想いを馳せながら周辺を見廻しのGONsanでした。
 暫し滞在の後、旧本城から退散で、また往路を下り掘切を超え、尾崎丸跡経由で郡山城跡へと上ります(^-^)/











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7988.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(11) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/23(水) 21:50
 「郡山公園展望台」で、暫し、安芸高田市の中心部の眺望を兼ね休憩です(^.-)☆
 そして、また、歩行再開。暫く上って行きますと、「郡山城本丸」・「郡山城跡(旧本城)」の分岐点にと到着です。
 ここでは、本丸に向かわれます方と、旧本城に向かわれます方とが暫しお別れとなりました。足に自信がお有りの方は旧本城へ…そぅで無い方は本丸へ…
 GONsanは、せっかく郡山城に訪れましたのですから、勿論、旧本城を先に訪れ、その後で本丸行きを迷わず選択となりました(^-^)//"












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7987.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(10) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/22(火) 10:40
 清神社を後にしますと、隣接の「郡山公園」→「郡山公園展望台」→「郡山城跡(旧本城)」へと山城歩きの再会です(^.-)☆
 昼食後の出発間もなく清神社でもユックリしましたので、皆さん元気いっぱい。足取りも軽快のご様子でしたネ(^-^)/"

 ◆郡山公園

 毛利元就の居城のあった郡山にある公園です。池や庭石を配した閑静な日本庭園の趣で、春は桜の花見、その後はツツジが咲き乱れ町を一望できる町民いこいの場です。大河ドラマ「毛利元就」役の中村橋之助さんが記念植樹されたサルスベリとモミジの木もあります。

 ・郡山公園の概要

 ここの一帯は毛利氏時代の興禅寺跡で、元就が永禄10(1567)年京都から能役者観世太夫宗節ら一座を招き能狂言が催されたことや、この寺の南麓に内堀が掘られた記録が残っています。公園内は、池や庭石を配した閑静な日本庭園の趣で、桜や紅葉が美しい町を一望できるいこいの場です。

 【春の風景】桜の見ごろ:4月上旬
 【秋の風景】紅葉の見ごろ:11月上旬











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7986.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(9) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/22(火) 1:53
 昼食後、暫く、この公園内を散策し、P.M.1:30前でしたか…バスの駐まっています駐車場に集合で、これから郡山城跡を見学です。まずは、清神社方向へ。
 その途中、「郡山城跡(酉谷地点)石垣」に立ち寄りです。

 ◆郡山城跡酉谷地点 要約
 国史跡郡山城跡の所在する郡山山麓(標高250〜270m)において、16世紀中頃から後半にかけて構築されたと考えられる郭、石垣、鍛冶炉跡を検出した。郡山城跡に関連する遺構は山麓まで広がっていることが確認できた。

 ・酉谷地点石垣跡
 遺跡は、郡山城跡の酉谷に造られた郭群の一角にあたり、豪雨によって、大きく崩落したことに伴う復旧工事のため、発掘調査が行われました。
 調査によって石垣・郭跡・鍛冶炉跡・郭造成の版築土層などの遺構が確認され、小量の土器陶磁器片、鍛冶炉周辺から鉄滓、鉄釘などが出土しています。また、この石垣は保存処理され、現在でもそのままの形で見学が可能です。

 …と、こんな「郡山城跡(酉谷地点)石垣」でありました。続いて、清神社に到着です。

 ◆清神社

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 清神社(すがじんじゃ)は、広島県安芸高田市吉田町に鎮座する神社。旧郷社。

 ・祭神

 須佐之男命を主祭神に相殿に脚摩乳命、手摩乳命、稲田姫命、五男三女神を祀る。
 【神武天皇聖蹟誌】(1941年広島県発刊)によれば、中之玉殿に素戔鳴尊、左之相殿に三大神、右之相殿に八王子を祭っているとしている。
 摂社に伊勢神社があり、ここに天照皇大神、早良親王(崇道天皇)を祭っている。

 ・由緒

 当地は『日本書紀』巻第一神代上第8段(二)に見える「安芸国可愛之川上(えのかわかみ)」の地に当たり、素盞嗚尊(須佐之男命)が八岐大蛇を退治した舞台とされ、神社名は退治後に須佐之男命が発した「吾が心清清(すがすが)し」という言葉に因むとされ、神代からの鎮座と伝えられている。古くは「行宮清神社」「祇園社」「祇園崇道社」と呼ばれていたが、明治5年(1872年)に神仏分離により現社名に改称された。
 境内の杉の巨木が台風で倒れた際に年輪を調査したところ、約1,200年以上との結果が出た為、現在、切り株が境内に展示されている。なお、「行宮清神社」の名称から、神武天皇が行宮を置いた地であるとの説があるが、【神武天皇聖蹟誌】では否定的な見解である。

 中世に京都祇園社の荘園「吉田荘」の鎮守神として祀られた。一時期、早良親王の祟りを鎮める目的で社名を「祇園崇道社」としていた。
 鎌倉時代末期から、吉田郡山の鎮守神として安芸毛利氏代々の尊崇を受けた。ゆかりのものが現在社宝として展示されている。正中2年(1325年)の棟札をはじめとする現在までの16枚の棟札が残っており、特に毛利氏関係は光房・弘元・興元・幸松丸・元就・隆元・輝元までの棟札13枚が確認されている。なかでも天文17年(1548年)隆元、永禄11年(1568年)元就、天正11年(1583年)輝元のものは特に有名。

 また、毛利氏が郡山に城を構えている間、郡山山麓にある現在の社殿とは別に、城のある郡山山頂までの中間点にも社殿を構えていた。
 江戸時代以降は村の鎮守神として祀られた。現在の社殿は元禄7年(1694年)の建立。様式は正面に千鳥破風、前に軒唐破風を構え、正面が6本の太い柱で形成された五間社切妻造。明治5年郷社に列した。

 境内には「椙若社」という、毛利元就が継母であった杉大方の菩提を弔うために建立した社がある。総檜流造で延床約10平方メートル。昭和25年(1950年)にはキジア台風災害により倒壊し、基礎だけが残された状態で保存されていたところ、大河ドラマ『毛利元就』の影響により杉大方の人気が上がったことから、平成9年(1997年)地元住民により約1千万円かけ復興された。その他、境内には伊勢社もある。
 社宝として、毛利元就の所望に応じて聖護院門跡道増が墨書した「感神院」の扁額(永禄6年(1563年))、元亀3年(1572年)京都吉田神社神主・吉田兼右が参籠したことや、天正4年(1576年)の前関白九条稙通が当神社で民衆を前に『源氏物語』の講釈を行ったことが記述された連子窓、元亀年間の舞楽面がある。

 …と、こんな「清神社(すがじんじゃ)」でありますようです(^.-)☆











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7985.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(8) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/22(火) 0:10
 待機していますバスまで戻って来まして、時間を確認しますと、P.M.0:08。もぅお昼ですネ。
 次は、郡山城跡を訪れますのですけど、その前に昼食タイムとなりました。昼食を取ります場所は、歴史民俗博物館から毛利一族の墓への入口方向に進みました公園みたいな場所でした(^.-)☆
 皆さん、福山を出発時に弁当を持参ですから、バスから降りますと、公園内の適当な場所を見つけて思い思いに…グループで弁当を囲む方達、ご家族連れ、GONsanのように独りで弁当を食べる方…と様々で、適当に公園内に散らばって行かれました(^-^)
 日差しはありますけど、キツい日差しと言う訳でもなく暑くもありませんので、GONsanは、安芸高田市内の「ゆめタウン」辺りが眺められますベンチを見つけて着席です。

 GONsanの弁当は、嫁さんに作って貰いました「むすび」が3個。
 普段、我が家で食べていますと、決して美味しいとも思いませんけど、こんな場所で食べますと、ヤケに美味しいから不思議です。
 むすび3個にお茶1本…これが、こぅいぅ場所でのGONsanの定番の昼弁です\(^o^)/

 昼食後は、少しこの公園内を散策でもしてみましょうか…
 ここは公園と言うよりも「大通院谷川砂防事業」として整備中の広場のようです。と言う事は、やっぱり公園ですネ。ただ、名前が付いていませんだけで(^-^)/"











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7984.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(7) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/21(月) 21:6
 本丸跡には、こんな案内板が…

 ◆多治比猿掛城本丸跡

 猿掛山の頂上(標高376m、比高120m)に位置し、長さ50m、幅24mの長大な平垣面を持つ。
 南側背後は、約13mの深い堀切で背後の尾根続きをさえぎっている。三方は急峻な崖で東側に一段、南側に四段の付曲輪がある。
 本丸平垣部南端に長さ約20m、高さ、幅とも約1mの土塁がみられる。北端には約10m四方で、約3m高い盛土があり、櫓台として使用したものと思われる。
 ここからは、南を除く三方が見え、石州路に沿う要衝の地であった事が伺える。東側からは、約4km離れた郡山城が望まれる。

 -- 平成2年3月 吉田町教育委員会 --

 …と、こんな案内がありました(^.-)☆
 暫し、多治比猿掛城本丸跡を見廻って、今度は下山です。上って来ます時には、結構な急勾配で少々キツい歩行でありましたけど、さすがに下山は楽。ですが、油断しますと足が滑りますので、それなりに用心しながらの歩行が続きます。
 途中、また案内板がありまして、往路では、復路で確認しようと思っていましたので、下山時に立ち寄りとなりました。この案内板には…

 ◆寺屋敷曲輪群

 この曲輪群は、中心部曲輪群の西端から造られた幅6mないし7m、深さ2m、長さ約130mに及ぶ長大な堅堀によって、中心部曲輪群から隔てられ、中心部曲輪群より60m下方にある。
 曲輪群は、上方中央には面積約860uの広大な曲輪(寺屋敷)を中心に、北方に階段上の曲輪が4段、それをとりまく帯曲輪が8段、さらに上方に3段の計15段からなっている。
 現在、この曲輪群の下段には猿掛山教善寺が建っており、当初からこの段を含めた一帯が寺屋敷曲輪群として使われていたのかも知れない。
 この曲輪群は、急斜面に平坦面を造成し、防禦としては堅堀しかないということから、当初から城としてより、寺屋敷として造られたとも考えられる。

 -- 平成4年3月 吉田町教育委員会 --

 …と、こんな記載がありました。
 それにしましても、皆さん、結構、不安そうに感じられます歩行なのですけど、普段からこぅした山歩きには慣れておられますのかも…上り口まで下りて来ますと、誰一人遅れます事も無く無事に下山。
 う〜ん、意外と皆さん健脚でありました(^-^)//"











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7982.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(6) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/18(金) 15:26
 結構キツい上り道でしたけど、どうにか多治比猿掛城跡にと到着です(^_^)v
 それにしましても皆さん、よく歩かれます。上り口付近では、この方達は城跡までチャンと上がれるのだろうか…と心配しておりましたけど、これは大変失礼なGONsanの想いでした(^-^;
 仲々山城歩きに手慣れておられました。歩調はユックリしておられましても、シッカリ着実に進んで行かれますので脱帽です。GONsanの方が、もぅ負けそうでありました(^.-)☆

 ◆安芸・多治比猿掛城

 ・歴史

 築城年代は定かではないが明応年間(1492年〜1501年)に毛利弘元によって築かれたと云われる。毛利弘元は毛利元就の父であり、明応9年(1500年)家督を嫡男の毛利興元に譲ると、次男の松寿丸(後の元就)を連れて多治比猿掛城へ移った。
 永正3年(1506年)弘元が没した後は毛利元就がそのまま多治比領を受け継いで分家となった。永正13年(1516年)兄の毛利興元が没すると、幸松丸が家督を継いだが幼小であったため元就が後見人となった。
 大永3年(1523年)幸松丸もわずか九歳で夭折すると、毛利元就は家臣団に推されて毛利家の家督を継ぎ、吉田郡山城へ入城した。

 ・ 説明

 多治比猿掛城は多治比川南岸の標高432mの山を最高所として築かれている。大きく本丸、物見丸、寺屋敷曲輪群、出丸の四ヶ所に分かれている。
 本丸は北東の標高370m一帯で、北端に五角形の櫓台を備えた南北に長い曲輪となり、南端には土塁がある。本丸の南背後の尾根は大堀切(堀1)と堀切(堀3)の二条の堀切があり、その間の鞍部は東西両側に無数の連続竪堀を落としている。尾根上には一部コブ状になった部分があり、本来連続堀切であったものが遊歩道などによって削られ現状の土橋状の細い道のようになったとも考えられる。竪堀は特に西側に長く延びており、途中に合流して落ちている。
 本丸から北東へ伸びた尾根の曲輪I-7があり、二段の非常に小さな曲輪であるが、両側面と前方に竪堀を配している。
 寺屋敷曲輪群は教善寺を含む一帯でII-1の広い曲輪を最高所として段曲輪が多く残る。
 出丸は北へ付きだした丘陵で、この部分は後世の改変が激しいのか、南北に伸びる土塁状の遺構や大きく窪んだ虎口のような地形などがあるが、本来の形状はイマイチ把握できない。
 本丸の南背後から登り詰めた標高432m付近に物見丸がある。単郭で本丸側の北東と南尾根を堀切で遮断しており、北西下には帯曲輪状の地形がある。

 …と、「城郭放浪記(http://www.hb.pei.jp/shiro/aki/sarukake-jyo/)」と言うホームページには、こんな記載がありましたネ(^-^)//"












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7981.9/28(土)は、延び延びとなっておりました孫の運動会観戦でした(^.-)☆(11) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/18(金) 13:49
 後片付けの手伝いをしています内に、孫達は既に帰りましたようですネ。
 なら、GONsanはせっかくの機会だから…と、草戸山公園に立ち寄りとなりました(^.-)☆

 ◆草戸山公園•山岳公園ハイキングコース

 福山市草戸町にある明王院裏山の草戸山には愛宕神社本殿•愛宕社があり、参道•山道には明王院所縁の石佛が点在し、ハイキングコースとして福山山岳会の人達による案内板が整備されている。明王台団地の中に草戸山公園があり、展望台からは福山市内の眺望が楽しめます。

 …と、こんな草戸山公園なんですけど、GONsanが子供の頃は『さんかくこうえん(山岳公園)』と言っておりました。
 「さんかく公園」は、未だに、漢字で書きますとどのように書きますのか知りませんけど「山岳公園」を「さんかくこうえん」と言っていましたのかも…まぁ、どうでもイィのですけど(^.-)☆
 廻りの樹木に遮られまして、昔ほど眺望は臨めませんけど、貯水タンク上の展望台からの眺望はそれなりに楽しめます。
 貯水タンクの少し下付近に、小さな傘のような展望台が存在しますけど、確か、昔はこんな展望台のみでしたような…もぅ60年も昔の頃ですけど、それでも懐かしい場所ではありますねぇ(^-^)//"










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7980.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(5) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/17(木) 18:42
 それでは、毛利弘元墓所に参詣です。毛利弘元は、39歳でのご逝去。戦国時代とは言え、少々お若いご逝去ではありますネ。
 ところで、『夫人は鈴尾城主の福原広俊の娘で、文亀元(1501)年12月8日、34歳で鈴尾城(福原城)内で逝去しました。大正10(1921)年、鈴尾城(福原城)の福原氏墓所からこの地に移葬された…』との事ですけど、何で鈴尾城(福原城)の福原氏墓所に葬られていたのだろう?…との不思議な想いも。
 WEB上で検索して見ましたら、こんな記載が…

 ◆元就母の墓のなぞ

 元就の母は、毛利一族の福原氏で、福原広俊の娘となっている。毛利一族の中でももっとも有力で中心的な一族である。毛利元就が後年隆元に書いた手紙の内容によれぱ、元就五歳の時母に死なれ、十歳の時父に死に別れたとある。元就四歳の時、父とともに猿掛城に移り住んでいることになっている。
 ところが、元就の母が、父とともに猿掛城へ移動したかとどうかとなると、これがはっきりとしていない。父弘元は猿掛城に隠居して五年後に死んでいる。父の墓は猿掛城山麓の悦叟院という菩提寺跡にある。そして母の墓も弘元と並んである。
 これではなんら不思議はないのだが、実は母の墓は、もともと福原氏の居城鈴尾城近くの福原一族の墓所にあったのである。そこで夫婦が別々のところにあるということではまずいと思ったのか、大正時代に母の墓石をわざわざ猿掛城の悦叟院跡地に移動させたのである。

 現在、猿掛城で見かける弘元と元就の母の仲良く並んだ墓石は、意図的に仕組まれた光景だということである。
 元就の母の墓が実家の福原氏一族の墓所にあったということは、当時そういう状況を作り出すだけの事情があったことを物語っている。そのことについては元就は何も語っていない。語りたくなかったのだろうと思う。
 毛利元就の研究家森本繁氏は、『毛利元就99の謎』(PHP文庫)の中で、元就の母福原広俊の娘は、弘元と猿掛城に移ったのでなく、実家の福原氏の鈴尾城に帰り、そこで元就を生んだと主張。そしてそこで死んだのでそのまま福原氏の墓所に一緒に葬られた。
 たぶんこれが真相だろうと私も思う。

 …との、こんな記載が。
 ふ〜ん、色々事情がありましたようですねぇ〜
 それでは、今から、多治比猿掛城跡へと山登りです(^-^)//"










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7978.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(4) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/16(水) 23:39
 安芸高田市歴史民俗博物館内には、毛利家ゆかりの宝物が数多く展示されてありますのでしょうけど、そんなにユックリしております時間もありませんから、館内の見物はそこそこに多治比猿掛城跡への山城歩きにと出発です。
 歴史民俗博物館前から、またバスに乗り込み、ここから4.5kmばかり北西部の浄土真宗「猿掛山教善寺」入口へと向かい下車。いよいよ山城歩きのスタートです(^.-)☆

 今回の訪問場所ではありませんけど、念のために「浄土真宗 猿掛山教善寺」のホームへページを覗いて見ましたら、こんな記載が(^-^)

 ◆浄土真宗本願寺派 教善寺

 ・沿革 -- 猿掛城趾(国指定史跡…元就は父弘元と共に4歳の時此の地に移り、1523(大永3)年郡山城に27歳で帰る)の寺屋敷廊群に在る。当山は1536(天文5)年天台宗より改宗。1564(永禄7)年本願寺より寺號許可。今日に至る。
 ・寺宝 -- 代々貧乏寺なので自慢できるものは何も無い。
 ・教化活動 -- 代々無能なので自慢できるようなことは何もしていない。
 ・所在地 -- 〒731-0544 広島県安芸高田市吉田町多治比1746

 …と、こんな記載に思わず笑ってしまいましたけど、大変親近感を抱いてしまいましたネ\(^o^)/
 教善寺入口から少し進みますと、「多治比猿掛城跡」の案内表示板が…

 ◆多治比猿掛城

 多治比猿掛城(たじひさるがけじょう)は、安芸国(現在の広島県安芸高田市)にあった日本の城。国の史跡に指定されている。

 ・概要
 築城年は不明。吉田郡山城の支城として造られた山城。1500年(明応9年)に家督を毛利興元に譲った毛利弘元が隠居するために築城したという説も有力。国の史跡。

 ・歴史・沿革
 1500年に毛利氏の当主毛利弘元は、家督を嫡男の毛利興元に譲り、次男の松寿丸(後の毛利元就)らを連れてこの多治比猿掛城に入城する。1506年(永正3年)に弘元が没すると、幼少の松寿丸が城主となる。松寿丸はこの城で成長し、元服後、多治比元就と名乗り、分家の多治比毛利氏として活動する(この時期元就は「多治比殿」と呼ばれている)。
 この城で毛利隆元や五龍局が生まれている。
 1523年(大永3年)に元就が宗家を継ぎ、多治比猿掛城は城主不在となる。その後についての詳細は不明だが、その重要性は変わらず、戦国末期まで維持されたと思われる。実際、1563年(永禄6年)に毛利隆元が元就が遠征している出雲へ向かう途中で、多治比猿掛城に1泊。その際に息子の毛利輝元が来城し、面会している(その後、隆元は佐々部で急死)。廃城年は不明。

 ・構造
 城跡は多くの郭が残り、比高120mの山頂の物見丸、丘陵先端の中心部郭群、斜面中腹の寺屋敷郭群、平野部の出丸に分けられる。出丸は平時の生活を重視した館的な区画であり、中心部郭群や物見丸が戦時の避難所となる役割だったと思われる。

 ・所在地
 広島県安芸高田市多治比。近隣には杉大方の墓、毛利夫妻の墓がある。

 ここから教善寺に向かって上って行きますと、教善寺手前に「毛利弘元墓所」の案内板が…

 ◆毛利弘元

 毛利弘元(もうり ひろもと)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。安芸国の国人領主・毛利氏当主。吉田郡山城主。父は毛利豊元。子に毛利興元、毛利元就、相合元綱、北就勝。

 ・生涯
 応仁2年(1468年)、安芸国の国人である毛利氏の当主・毛利豊元の長男として生まれる。毛利氏は周防国・長門国の守護大名・大内氏の勢力下である安芸国人領主の一人であった。
 文明8年(1476年)、父・豊元が死去し家督を相続する。文明11年(1479年)に大内政弘の加冠を受けて元服し、「弘」の偏諱を与えられて「弘元」と名乗る。
 明応4年(1495年)に大内政弘が死去すると、後を継いだ大内義興に嫡男・興元と共に従った。だが、その立場は管領・細川氏と大内氏の間で揺れ、さらに明応8年(1499年)には明応の政変で失脚した前将軍・足利義稙を保護した大内氏と、将軍・足利義澄を擁する室町幕府との間で揺れる。
 対立の激化した大内氏と細川氏の両者からの協力要請から逃れる為、明応9年(1500年)に嫡男・興元に家督を譲って隠居し、次男の元就らを連れて安芸国多治比の猿掛城へ移り住んだ。隠居先を猿掛城としたのは、吉田郡山城の西の拠点を確保し、北方に位置する国人・石見高橋氏に備えるためとも考えられている。
 しかし、その心労と酒毒により、永正3年(1506年)1月21日に死去した。享年39。墓所は広島県安芸高田市の悦叟院。

 ◆毛利弘元墓所

 毛利弘元は元就の父で、応仁2(1468)年に生まれました。9歳で毛利家を相続し郡山城主となりました。
 尼子と大内の狭間にいた明応九9(1500)年に長男興元に家督を譲り、二男の元就(4歳)を連れ、多治比猿掛城に隠居しました。永正3(1506)年1月11日に没しました。時に39歳でした。
 墓所は、多治比猿掛城の麓、弘元の菩提寺の悦叟院跡にあります。
 夫人は鈴尾城主の福原広俊の娘で、文亀元(1501)年12月8日、34歳で鈴尾城(福原城)内で逝去しました。大正10(1921)年、鈴尾城(福原城)の福原氏墓所からこの地に移葬された。(説明看板より)

 WEB上で検索しますと、こんな色んな記載がありました(^-^)//"











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7975.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(3) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/15(火) 16:42
 秋本哲治さんに、まず館内をご案内して頂きましたが、平成20年01月に発見されました前方後円墳「甲立古墳」は、県内では最大級の規模で、今では国史跡に指定。
 3次元レーダー測量図では、畿内地域の古墳とよく似ておりますねぇ〜
 技術の進歩で、今では全体を発掘調査しなくても概要は把握出来ますのですねぇ〜凄い\(^o^)/

 ◆甲立古墳(甲田町)

 甲立古墳は、平成20年1月に甲田町上甲立菊山の山林で新たに発見された前方後円墳です。全長は77.5メートルに達する、県内では最大級の規模です。平成28年3月に国史跡に指定されました。

 平成22年度から25年度まで実施した発掘調査では、傾斜地上に築かれた均整がとれた墳丘、隙間なく葺かれた精緻な葺石、実際より大きく見せる大規模造成など、高度な技術で墳丘が築造されていることを確認しました。
 後円部墳頂では、中央に5基の家形埴輪を一列に並べた石敷区画や数種類の埴輪で構成された埴輪列などで、築造当時に並べられた埴輪の配列を良好な状態で確認することができ、古墳祭祀、埴輪祭祀を研究する上で極めて重要な調査例となりました。
 出土した埴輪は、切妻造高床建物の1・2号家形、特異な形の囲形状、出土例が極端に少ない子持家形などの家形埴輪をはじめ、船・甲冑・蓋など器材埴輪、普通・楕円・朝顔形などの円筒埴輪がありました。
 いずれの埴輪も端正な作りで、埴輪を製作した工人の技術の高さを示しており、当時の中心地であった畿内の中枢で出土した埴輪と近似します。これらのことから甲立古墳は4世紀後半に畿内の勢力が深くかかわって築造されたと考えられます。

 山間に築かれた4世紀後半の畿内色の強い前方後円墳は全国的にあまり例がなく、当時の社会情勢や畿内勢力の動向を知るうえでも貴重な資料と考えられています。

 ・概要

 4世紀後半頃に築造された前方後円墳で、安芸高田市教育委員会が広島大学考古学研究室に依頼した測量調査によって、2009年11月に確定に至った。
 この菊山付近には、安芸国の国人領主・宍戸氏の城であった柳ヶ城があり、古墳はその一部と見なされており、上記調査までは古墳として認識されていなかった。柳ヶ城の調査を担当した東広島市教育文化振興事業団の指摘などによって、2008年2月に調査が開始され、古墳と確認された。

 調査古墳は菊山中腹斜面に築かれており、前方部分が南、後円部分が北に配置されている。広島県内では最古の時期のものとされ、推定されるその規模は全長75m、高さは約13m。三ツ城古墳(5世紀、全長92m、東広島市、国の史跡)、辰の口古墳(4世紀後半、全長77m、神石高原町、県史跡)に次ぐものである。また、古墳側面の斜面部分には川石を使った葺石が施され、埴輪が配置されていたことも判明した。

 2010年より発掘調査が行われ、それに併せて市指定史跡として指定された。その後、2016年3月に国の史跡に指定されている。

 ◆家形埴輪

 石敷区画に並べられていた家形埴輪は切妻造高床建物2、特異な形状の囲形状、他のものより小型の家形2で、いずれの埴輪も写実的でシャープな仕上がりであることから、高度な技術持った埴輪工人が製作に携わったと考えられます。
 また、後円部墳頂中央の浅い落ち込みからは、全国的に出土が珍しい子持家形埴輪が出土しました。

 ◆3Dレーザー測量ってどんな技術?

 従来の測量では時間のかかってしまう複雑な地形も、3Dレーザースキャナーなら写真のように細かく測量することができます。光波・レベルによる従来測量に比べ測点数は1万倍。測量時間は1/10以下と大幅に短縮。低価格での現況測量・地形測量が可能となります。

 …と、こんな「甲立古墳」でありますようです(^.-)☆
 現在も未だ発掘調査が続いていますのでしょうけど、う〜ん、凄い古墳なんですねぇ(^-^)//"











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7973.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(2) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/14(月) 19:6
 安芸高田市に到着しますと、まずは「安芸高田市歴史民俗博物館」に入館し、事前学習となりました。

 ◆安芸高田市歴史民俗博物館
 毛利氏とその本拠地であった郡山城を中心に、安芸高田市の歴史や文化財を紹介する博物館である。毛利元就にまつわる古文書や郡山城からの出土品、毛利氏による社寺への奉納品などを展示。常設展の他にも様々な企画展示が行われている。

 ここからは、テレビにもよく登場される、安芸高田市教育委員会「秋本哲治さん」が、説明案内・山城歩きなど親切に対応して下さいました(^-^)/











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7971.9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(1) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/13(日) 16:53
 9/29(日)は、「備陽史探訪の会」主催のバス例会で「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山歩きに参加のGONsanでありました(^.-)☆
 当日は、A.M.8:30に、福山駅北口観光バス乗り場に集合です。GONsanは申し込みが遅れまして、申し込みしました時には定員に達しておりまして、補助席での参加となりましたけど、欠席者がおられましたのでしょうか…幸いにも補助席ではありませんで正規の座席。ラッキーでしたネ\(^o^)/
 48名の参加者でしたのでしょうか…

 定刻にバスは出発し、一路、安芸高田市へ。途中、「道の駅 世羅」でトイレ休憩。
 バス車内では、資料を基に事前学習。この日の講師を務められました備陽史探訪の会・田口義之会長より、丁寧なご説明がありました(^.-)☆
 安芸高田市吉田は毛利元就の本拠があり、関連した山城が多く残っています。この戦国の名将毛利元就が生れて育った二つの山城を歩きましたので、この日の様子を、また画像でご案内です(^-^)//"









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7965.9/21(土)〜9/23(月)「初代藩主・水野勝成公『備後入封400年祭』」(11) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/11(金) 12:49
 刈谷城盛上げ隊の皆様は、毎回、仲々威勢が良くてお元気ですねぇ\(^o^)/
 見ていて大変楽しいですし、「初代藩主・水野勝成公『備後入封400年祭』」のイベントにはピッタリですネ(^.-)☆

 この方達のステージが終わりますと、次は皆さんお楽しみの「大BINGO大会」であります(^-^)
 うん、うん、観客の皆様もよくご存知ですネ。いつの間にか観客も少し増えました。
 GONsanなんぞは、まだ二つしか穴は開いていないというのに、始まりまして間もなく、早くも「リーチ」そして「ビンゴ」の声が(^.-)☆
 該当者は、まずは同時にお二人。早速、ステージ上で何やら賞品をゲットしておられましたネ(^_^)v

 BINGOゲームは続いて行きまして、次から次に成立者が賞品を手に。最初はステージ上で貰っておられましたけど、以降は傍らのテントで賞品を受領です。
 次第に賞品も残り少なくなって来まして、最後の数名の皆様は賞品が足りませんでジャンケンで決着となりました。結局、GONsanは七つの穴で、リーチさえ成立しませんでしたねぇ〜相変わらずクジ運悪く、う〜ん、残念(^-^;
 時間を確認しますと、もぅこんな時間、P.M.04:50でありました。
 18:00からは「福山JAZZナイト」ですけど、GONsanはこの辺で退散です。
 天守前広場から福山駅方向に歩いておりましたら、今から福山JAZZナイトをお楽しみの方々なのでしょうか…福山城公園に向かっておられます方達と擦れ違いです(^-^)

 翌日の中国新聞朝刊には、この日の様子が報じられておりました。
 台風17号の接近で、9月22日(日)、23日(月・祝)の「備後入封400年祭」は台風接近に伴い、開催に支障が生じる雨量等が見込まれるため、中止としますとの主催者の発表も…とにかく、8月以降は、福山市の主要なイベントが次々に中止ですから(^-^;
 天候要因でやむを得ませんけど、こぅいぅ事も珍しいですネ(^-^)//"











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7963.9/21(土)〜9/23(月)「初代藩主・水野勝成公『備後入封400年祭』」(9) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/11(金) 0:16
 挿入の画像は、「山下雅也サクソフォンカルテット with 富永やよい」と「刈谷城盛上げ隊」の皆様です(^.-)☆





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7962.9/21(土)〜9/23(月)「初代藩主・水野勝成公『備後入封400年祭』」(8) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/10/10(木) 23:54
 深津時代行列が終わりますと、ステージの方は「ばらのまち福山国際音楽祭 カウントダウンコンサート」です。司会を務められますのは広島FMでお馴染みの「大窪シゲキ」「小竹彩花」のお二人です。が、GONsanは、この方々を存知あげません(^-^;

 ◆司会

 ・大窪シゲキさん
 1979年生まれ。大阪府出身。2007年から広島FMの10代応援番組「大窪シゲキの9ジラジ」を担当。日々、若者と語り合い、朝日新聞にも毎週コラムを掲載。2015年には広島県消費者トラブル防止DJ大使にも就任。
 テレビやイベントMCなど、ラジオを飛び出し、様々な場所から小中高大学生や大人を全力で応援中!

 ・小竹彩花さん
 1993年生まれ。広島県出身。2017年から広島FMの10代応援番組「大窪シゲキの9ジラジ」アシスタントDJを担当。現在はラジオを始め、キャラクターショーやリアル脱出ゲームのMC、テレビリポーターなどマルチに活動中!

 …と、こんな方達のようであります。
 演奏されますのは、「山下雅也サクソフォンカルテット with 富永やよい」の皆様です。

 ◆ばらのまち福山国際音楽祭カウントダウンコンサート

 9月21日(土)15:10〜16:00
 出演者:山下雅也サクソフォンカルテット with 富永やよい
 サクソフォン四重奏とピアノの演奏をお楽しみください。
 ・山下雅也サクソフォンカルテット with 富永やよい
 ・出演者:山下雅也、加藤瞳、西川祐太、平井千香子、富永やよい

 サクソフォンカルテットのステージが終わりますと、続いて武将隊の皆様が登場です。
 そぅでした…この方達は、福山ばら祭りでもお馴染みの「刈谷城盛上げ隊」の皆様でした(^-^)

 ◆刈谷城盛上げ隊とは
 刈谷城築城480年を記念して平成25年5月、刈谷城復元の機運を盛り上げるために「刈谷城築城盛上げ隊」が結成されました。そして平成28年度より「刈谷城盛上げ隊」と名を改め活動を継続しています。メンバーは初代刈谷城主と江戸時代に刈谷藩で活躍した藩主から構成されています。

 ◆刈谷城について
 天文2年(1533)水野忠政(ただまさ)が「刈谷城」を築城しました。江戸時代になって刈谷藩が設けられると水野勝成が初代藩主となり、明治維新を迎えるまで水野分家、深溝松平家、久松松平家、稲垣家、阿部家、本多家、三浦家、土井家の9家22人の譜代大名が藩主となり、刈谷は村から城下町として発展しました。

 こんなご縁で「刈谷城盛上げ隊」の皆様は福山でもスッカリお馴染みですネ(^_^)v











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