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家系研究協議会掲示板

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2495.私の苗字について 返信  引用 
名前:mine    日付:2012年9月14日(金) 0時13分
お忙しいところ大変申し訳ありません。私の苗字は峯澤と申します。国立国会図書館の電子書籍の「近代デジタルライブラリー」で検索したところ常山紀談という本に峯澤という人物(武士?)がいるようなのですが、どういった家系なのか教えていただけたら幸いです。峯澤という苗字は愛知県の岡崎市に多く、他には栃木県・和歌山にあるようですが、そのような分布になっている理由などあるのでしょうか。何か参考となる資料や手掛かりなどありましたらご教授いただきたく存じ上げます。



2506.Re: 私の苗字について
名前:TW    日付:2012年11月24日(土) 13時34分
峰沢姓について調べてみましたが、ほとんど資料が見つかりませんでした・・・
峰沢姓が愛知県岡崎市、栃木県宇都宮市などに多い事。
横浜市保土ヶ谷区峰沢、秩父市大野原峰沢などの地名が残る事。
峰沢姓は、かなり少ないようなので、峰沢を称する以前に、他の姓を称していたのでは・・・?
常山紀談の峯澤某は、越中国新川郡守護代椎名氏の家臣で、上杉謙信を討とうとしたが討てず越後国に帰り帰農したという話です。
上杉謙信を称える物語(フィクション)の可能性が有ります・・・?
椎名氏、畠山氏などの分限帳や越中国、越後国の資料を調べてみては如何でしょうか?

2493.兼子家のルーツ探し 返信  引用 
名前:兼子正行    日付:2012年9月11日(火) 11時11分
兼子藤兵衛、子、藤蔵 弟熊吉文政4年11月生で 徳島県名東郡
徳島寺島町14番屋敷に住んでいたようで、当時は明治34年12月7日の謄本でわかりました。武士か職人かわかりません。何か分かりましたら教えてください。



2505.Re: 兼子家のルーツ探し
名前:TW    日付:2012年11月24日(土) 13時32分
兼子姓は金子姓と同族と考えるのが一般的です。(例外も有ると思いますが・・・)
山口県に金子大明神(兼子様)=金子周防守(大内氏家臣)が有ります。
徳島藩(蜂須賀家)などの家臣の金子氏、兼子氏を調べてみてはいかがでしょうか・・・?

2491.成澤家の家系 返信  引用 
名前:成澤憲三郎    日付:2012年9月3日(月) 16時8分
成澤家の発生を教えてください。



3208.Re: 成澤家の家系
名前:末裔    日付:2018年10月16日(火) 7時45分
成澤家のルーツは清和源氏、最上氏、斯波氏を祖になります。現在の当主は17代目、18代目が滋賀県にご存命です。

2489.ルーツが知りたい 返信  引用 
名前:久野益子    日付:2012年8月8日(水) 22時1分
コメント有難うございます平貞能の子孫から久野氏はいないだが家紋は丸に揚羽久野氏久野城がルーツかと思えば家紋が違います.どこから探り出せば良いのか分かりません.栃木県益子町から茨城鉾田市に疎開して来たそうです「明治」に.どんなことでも良いのです.教えて下さい

2486.平貞能がルーツか 返信  引用 
名前:久野益子    日付:2012年8月4日(土) 22時53分
久野氏のルーツを調べていたら丸に揚羽の家紋一致せず四苦八苦していました住んでいた益子町も調べたのですがいきずまってしまいました



2488.Re: 平貞能がルーツか
名前:馬原 浩一@管理人    日付:2012年8月7日(火) 18時26分
久野益子さん、こんにちは。はじめまして。

家紋が藤原南家為憲流の久野氏の家紋瓜に三つ巴と一致しないので行き詰ったというようにしか見えないのですが、久野さん自身が何々調べられて何が行き詰ったのかを具体的に表して頂いた方が、こちらとしても何かお応えが出来るものがあるかどうか検討できるのですが・・・

ちなみに久野氏に関してのHPは当会のHPからもリンクを貼っていますが、

http://www.ann.hi-ho.ne.jp/oshd/

です。これを見ますと益子には久野姓を名乗っている人の1%の人がいることになっています。
私は正確に調べたことはないですが、全ての久野姓の人が藤原南家為憲流の久野氏の子孫ではないと思っています。
栃木県にも鹿沼市久野という地名もあります(他にももっと近くに久野という地名があるかもしれません)しね。

現在入院中のため退院後もう少し調べては見ますが、何を調べたらいいのか教えてくださいね。

2485.夏の関東例会の欠席について 返信  引用 
名前:市川@武州荒木(横浜在住)    日付:2012年8月1日(水) 22時35分
久し振りに投稿致します。
本会会員番号153の市川です。

今週の土曜日に迫った家系研究協議会 夏の関東例会ですが、ハガキには第一部夏の例会に出席と書いて返信済みなのですが、先週金曜日から、酷い夏風邪で体調を崩して、療養中でして、土曜日、猛暑の中、葛飾区の会場に行き、例会に参加するだけの体調の回復は、難しいと判断しましたので、申し訳ございませんが、今回の夏の関東例会への参加を断念し、欠席いたします。


せっかくの例会で、諸先生・諸先輩の皆様にお会いして、御指導・御教示を親しく賜りたく存じておりましたが、大変残念に存じます。

今後、また、南関東で例会が開催される際には、出席させて頂く所存ですので、その際には、皆様よりのご指導・ご教示の程、宜しく御願い申し上げます。


最初はメールでお知らせすることを考えましたが、こちらに掲出した方が確実と考え、投稿致しました。



2487.Re: 夏の関東例会の欠席について
名前:馬原 浩一@管理人    日付:2012年8月7日(火) 15時49分
市川さん、こんにちは。

8月4日の関東例会は盛大とまでは行かなかったですが、結構盛り上がったようですよ。
というのも、実は私も体調を崩しまして、7月末より現在まで入院中で出席できません
でした。昨日、例会に出席された役員の方がお見舞いに来られて様子を聞きました。

今後は毎年1回は関東例会を開催する方向で考えていますので、次回こそは市川さん
に講師になってもらい、是非私も元気に参加したいものです。

講師の件、考えておいてくださいね。1年間猶予がありますので・・・(笑)


2490.Re: 夏の関東例会の欠席について
名前:市川@武州荒木(横浜在住)    日付:2012年8月16日(木) 8時21分
馬原様。病院にて入院加療中の御身にもかかわらず、ご返信賜り、大変忝く存じます。

人前で話すのが苦手な自分には「講師」は大変荷が重いのですが…。

しかし、故長谷川順音先生が書かれた「市川一族大要」の記事のうち、甲斐市川氏の初期の系譜に懸かる記述に関しては、真野氏がネット上に公表された覚義流市川氏の系譜、並びに国会図書館所蔵の青木家譜系図や八代家系譜の記述により、何れ何らか形で、訂正の意を含めて、発表しなけれはならないかなと思っております。

しかし、仕事が忙しく、まだ真野氏が公表なされた覚義流市川氏の系譜の原史料のコピーの入手にたどり着いていないので、先ずはそれを再発見して入手し、考証しなければと思っております。去年でしたか樹堂氏よりメールでの御教示では、原史料は国会図書館の架蔵史料の様ですので、半年位かけて甲斐武田氏一族関係の系図史料に当たってみようと思います。


2492.(untitled)
名前:市川@武州荒木(横浜在住)    日付:2012年9月8日(土) 19時27分
埼玉苗字事典によりますと、冑山文庫に「本朝武家諸姓分脈系図」があるとありました。冑山文庫について検索して調べて見ましたところ、冑山文庫の書籍は、現在は国会図書館に寄贈されている様です。古典籍史料室で閲覧したのは冑山文庫のものではない本朝武家諸姓分脈系図でしたので、改めて、冑山文庫の本朝武家諸姓分脈系図を閲覧・調査してみようと思います。静嘉堂文庫の百家系図稿も、曽根系図に絞って調べたので、系図稿の全部を閲覧したものではないため、甲斐武田一族に範囲を拡げて、再調査しようと考えております。

なお、「湯山学中世史論集 1」182頁によりますと、太田道灌の家臣に市川亀鶴丸が居た由です。昔、故長谷川順音氏と伺った茨城県某町の旧家の市川家の伝承によりますと、太田三楽斎に最後まで仕えた家とのことで、家紋は丸に一引きで先祖は八幡太郎義家と伝わります。太田氏と市川氏の関係から言えば、茨城県某町の旧家市川氏は、太田道灌の家臣であった市川亀鶴丸の子孫である可能性が高いと愚考します。その系譜所伝から推測すると、新田家臣祖裔記に収録された市川五郎の系譜所伝に近く、市川藤次郎の可能性があると思います。市川藤次郎は、恐らく群馬県の南牧市川氏の系図に見える市川真重(清信)と同一人物で、南牧市川氏の資料によりますと、その子である市川右近四郎義継がはじめて星尾郷に来住したとのことです。南牧市川氏の祖の市川義継は、四郎とあることから、市川藤次郎の四男であると推定され、それから考えますと、市川藤次郎には少なくとも、四人の男の子供かいたと思われ、その四人の子供が、武州秩父半沢郡の市川氏・上州南牧の市川氏、そして太田道灌の家臣の市川亀鶴丸の家の先祖となり、市川亀鶴丸の子孫が、太田三楽斎の家臣の伝承をつたえる茨城県某町の旧家市川氏であろうと考察するものです。


2497.市川家系情報
名前:市川@武州荒木(横浜在住)    日付:2012年10月1日(月) 23時6分
国会図書館の本朝武家諸姓分脈系図ですが、ネット上公開されており閲覧出来ます。一応、十七冊まで確認しました。市川別当太郎文殊院律師民部卿頼圓・頼儀兄弟が出てくる系図にはまだ出会っておりませんが、市川以清斎の家の家伝が載っているなど面白く思いました。因みに、その家伝とは「傳曰世居干甲州巨摩郡市川庄以為氏焉橘姓人居焉逸見氏嗣其封而称源氏」というもので、表門神社の神主家のもともとの氏姓を橘姓とする伝承で、逸見氏つまり刑部三郎義清の次男方原二郎師光の長男、行光(高光)が跡を継いだことにより、氏姓を源氏に改めたということの様です。鎌倉時代の古文書には遠江出身の橘姓の人物であると思われる「大井橘六」なる人物が甲斐に移住し活動したという記録もあり、橘姓の人物が甲斐で活動している様ですので、市川以清斎の家の家系伝承も強ち否定出来ず、一応の参考になりそうです。

今から十年以上前ですが、東京都大田区の新田神社に参詣したおり、宮司様から、山梨県から新田義興の家臣の市川五郎の末裔の方が参拝された由をお聴きしました。今考えますと、山梨県の市川五郎の末裔の方は、真野信治様が公開された系図に見える市川五郎の子供の市川六郎資国の末裔の方であろうと思います。私個人の感触としては、甲斐の市川六郎資国と新田家臣祖裔記に見える市川太郎光重・藤次郎・藤三の四人は確実に新田義興の家臣の市川五郎の子供であろうと愚考しております。


2504.市川家系情報
名前:市川@武州荒木    日付:2012年11月23日(金) 20時7分
本朝武家諸姓分脈系図に掲載された市川各氏につき、以下に纏めてみました。

〇源姓市川 秋山太郎光朝後胤市川大隅男内膳清成(中略)紋 丸楓葉

〇源姓 元称橘姓市川 本国甲斐 紋丸内松皮菱 三階菱 傳曰世居干甲州独楽郡市川庄以為氏焉橘姓人居焉逸見氏嗣其封而称源氏 寛永系図記橘姓 昌和(市川安芸守 居属於甲斐国武田家)―昌忠(市川平左衛門 備後守 後剃髪号意清斎)

〇清和源氏 市川 本国甲斐 紋丸澤瀉 定卿(市川大蔵 去甲州仕北条氏康)―定友(市川加賀守 父定卿共至相州小田原仕北条氏康 賜武州小山田内大蔵邑三輪邑―定勝(市川帯刀 生国武蔵)


〇源姓或藤原 市川 本国上野 紋石持内鷹羽  吉利(市川豊前守)―永信(市川縫殿助 生国上野 仕北条氏政氏直 天正十七年□□北条亡後同十九年出江戸属井伊兵部□輔直政)



この他に称近江佐々木源氏姓の市川氏も掲載されていましたが、今回は甲斐の古族の市川氏の系統に絞りましたので、掲載を見送りました。


矢張り気になるのは市川意清斎の家の家伝ですが、樹堂氏のホームページの記述では、地方の称橘姓は仮冒の例が多く注意が必要とのことで、表門神社神主家の源氏一族の入る以前の系譜は、やはり中倉茂先生のご研究の如く、倭尊の東征で大伴武日が甲斐に領地を得て、甲斐に土着した大伴武日の一族か、もっと想像を逞しくすれば、大伴武日の子孫の系譜に甲斐の伴氏を含め、市川姓は見えないので、大伴武日の家臣筋の末裔の可能性があると思います。比企郡の萩日吉神社の社伝文書には比企郡の市川と伊藤の両家は、萩日吉神社の前身の萩明神(後に慈光寺の開山に伴い日吉神社を合祭)を創建した蘇我稲目の家臣としますが、これも、甲斐の古族の表門神社神主家の先祖の事績の可能性もあるやに思われます。

源義清の孫で表門神社の神主宗家を相続した市川別当大夫高光の四人の実子の内、市川三郎行平のみが“別当”を称していないのが、気になるところで、或いはこの市川三郎行平の系統が鎌倉時代の文書に見える市川庄司の系統となるやにも思えます。

新田義興の家臣の市川五郎の系統の市川氏につきましては、市川藤次郎の系統の市川氏が永享の結城合戦後、武州秩父半沢郡の民家に下ると新田家臣祖裔記に見えますが、この秩父半沢郡という中途半端な表記を考察しますと、榛沢郡の寄居が、秩父の鉢形城の城下町でもあったので、具体的には現在の寄居町周辺であったものと思います。上州の市川氏である藤次郎の子孫が寄居町域に落ち延び土着するのを助けたのは比企郡明覚の市川氏であったものと推定され、この点からも、武州比企郡と上州の市川氏は同族の可能性が高いでしょう。新田家臣祖裔記には秩父半沢郡=寄居地域の市川氏は後に鉢形城主北条安房守氏重(邦字を誤った)に属したとありますが、永享の土着から北条氏邦の時代まで二百年近くありますので、その間に大田道灌に仕官するなどする一族もあったと思われますので、道灌の家臣の市川亀鶴丸なども寄居町域土着の市川氏を出自とするかと思われます。

上州の箕輪城の家臣には市川五郎作のほか、市川五郎と同じく新田義興の家臣の南瀬口六郎の子孫と見られる南瀬口六兵衛の名があるので、こちらは倉賀野十六騎の市川太左衛門と同じく市川太郎光重の可能性が高いかと思われます。市川藤三の系統は金山城・足利長尾氏に属し、現在の栃木県足利の市川氏以外は主に黒川谷や太田市周辺に土着していったものと思われます。当家の先祖で1700年代に生存した市川清左衛門の“清”字に着目するならば、下野宇都宮氏の家臣に紀清両党があり、特に清党の芳賀氏は鎌倉時代後期に称藤原姓の主筋の宇都宮氏より養子が入り芳賀氏を相続しているので、称清原姓の芳賀氏は称藤原姓の宇都宮一族でもあったので、市川藤三系の市川一族には芳賀氏の庶流と姻戚関係があり、源姓とも藤原姓とも称する上州市川氏系の一族が生じたものと考えております。


2513.市川家系情報
名前:市川@武州荒木    日付:2012年12月6日(木) 20時1分
先日、家系研究第54号の宝賀会長の玉稿『「のぼうの城」と天秀尼の母系―北武蔵の成田一族―』にさそわれて、先日映画「のぼうの城」を観てきました。

成田家家臣で、荒木に帰農した家臣を見ますと、新編武蔵風土記稿と埼玉苗字辞典で確認しますと、伊勢新九郎(北条早雲)と共に関東に下向した荒木兵庫頭の子孫荒木越前が当所に住して忍城主・成田下総守に属し、荒木越前―荒木四郎兵衛尉長善と続き、長善の子八左衛門は氏を北岡に改めた由です。
風土記稿によりますと、荒木の三十番神社は「モトハ石川某ノ屋敷ノ鎮守ナリシト石川某ハ元成田に属セシ由(中略)天正十八年落城ノ後當村に土着スト云」とあり、荒木・石川の二家は成田旧臣であることは、確認出来ました。

成田家臣にも市川氏が見え、分限帳には市川三左衛門・市川佐平太が載ります。行田史譚に「天正十八年忍城攻めの時、市川三左衛門は佐間口を守る」とある由です。妻沼町史によると市川三左衛門は幡羅郡弥藤吾村の人なりといい、市川三左衛門の子孫は熊谷宿に住した様で、成田村龍淵寺寛政八年鐘銘に「成田下総守家来末葉市川三左衛門末葉・市川嘉右衛門」とあり、熊谷宿百石組に「宝暦十年本町南屋敷持主市川嘉右衛門、嘉永元年に市川半右衛門」とあり、又、弥藤吾村の市川氏は幡羅郡弥藤吾村の聖天旧記に「弥藤吾村草分農民にして、延宝年間・市川孫兵衛あり」とあり、成田旧臣の市川氏は、弥藤吾村や熊谷宿に土着した模様です。

当家の伝承では「先祖は侍の出」であるとされますが、成田家家来の市川氏に関わる伝承はないので、幡羅郡弥藤吾村の市川氏とは別系統だと思われます。熊谷市の旧家の市川氏に熊谷次郎直実の子孫の市川氏がありますが、遠い昔、電話でお伺いしましたところ、家伝系図には荒木の市川氏に関する記録は無いとのことでしたので、差し当たり、熊谷市内の市川氏と武州荒木の市川氏とは別系統であるようです。

因みに荒木の隣の須加の名主笘右衛門は須賀修理大夫泰名の子孫を称していた様ですが、家系記録はなく、ただ「龍得寺殿前信州大守威岳宗虎大居士 天文十四年九月初九日」とある古い位牌を蔵していると風土記稿に見えます。須加の名主家では先祖の位牌としていた様ですが、風土記稿では、上記の位牌は金山城主横瀬泰繁の位牌であることを明らかにし、「笘右衛門須賀氏ノ子孫ト云モ疑フヘシ若クハ横瀬ノ家人ニテ己カ主ノ位牌ヲ持チ傳ヘシナラン」としており、風土記稿の見解が妥当なものと判断されます。金山城主の横瀬氏の旧臣が、太田市周辺のみならず、荒木の隣村に土着しているのは注意すべきで、須加村熊野社嘉永五年御神燈に荒木村市川茂助」と見え、須加にも荒木の市川氏の痕跡が見えるので、当家も、新田義興の従者の一人市川五郎忠国の三男市川藤三系統の金山城主横瀬氏旧臣の市川氏の系統である可能性も高いと思っております。

なお、宝賀会長が玉稿にご紹介されている湯山学氏の論考「武蔵成田氏新考」には「永禄七年、岩付城主太田資正は北条氏康の支援を受ける子氏資のため、同城を子梶原政景とともに追放された。資正らは、彼の婿成田氏長を頼った。このとき資正の家臣でのちに成田氏に属した者が『成田分限帳』に散見される」と述べられており、太田資正(三楽斎)の家臣には茨城県某町村に土着した新田氏族系統で宇都宮氏族とも称すり市川氏もあり、ここも注意すべきものがあります。

また宝賀会長の玉稿には、成田下総守氏長の娘の甲斐姫の母は、上野国金山城主・由良成繁の娘であるとご紹介なされており、由良氏の家臣市川氏一族の中に、由良成繁の娘が成田家に嫁した際に、それに従い成田氏に属した者もいるのではとも想像を逞しく致しました。

以上の如く、武州荒木の当市川氏に関しては、少なくとも成田分限帳に見える幡羅郡弥藤吾村の市川氏とは別系統で、矢張り、新田義興の従者市川五郎忠国(上州の甘楽郡南牧村の市川氏の系図では満久、群馬県東村某寺の過去帳では光久、武州比企郡明覚郷の市川氏の系図では忠光と諱を伝承している)の系統の市川氏の史香を強く感じている次第です。


2526.Re: 夏の関東例会の欠席について
名前:市川@武州荒木    日付:2013年1月18日(金) 21時2分
多少遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。

国史学第201号に、永井晋先生の玉稿「園城寺と河内源氏―戒誉・覚義から公暁まで―」があり、覚義の名が出てくるので、内容に期待しましたが、覚義に関しては、深く言及されておらず、覚義を快誉の兄弟とするなど、ややこちらとしては残念なものでしたが、義光系の近江源氏が、木曽義仲を支持したことを指摘されており、比企郡の源義賢の遺臣と伝える七家が、義賢の子息である木曽義仲に属したとの伝承、ことに明覚の市川家は、義光系の近江源氏と関係の深い園城寺の金光院の初代院主覚義を始祖とする家系伝承がありますから、木曽義仲繋がりで、義光系の近江源氏の動向その他を興味深く読みました。

さて、木曽義仲繋がりで、比企郡の市川家の記録を見ますと、源義賢の没年月日を久寿二年二月二十六日とします。また、源義賢室の没年月日を承安四年五月十八日とします。しかし、国史史料によると源義賢の没年月日は久寿二年ではあるものの、八月十六日でありますし、また木曽義仲が幼少から青年時代を過ごした木曽の方が作成した、ネット上の「木曽義仲の里 英雄 木曽義仲年表」によりますと、木曽義仲の母小枝御前は仁安三年十月十九日が木曽にて没すとあります。これは多分、木曽義仲が母小枝御前の菩提を弔うために建立した徳音寺の所伝と思われます。

勘えましと、源義賢とその妻の没年月日は、源義賢は国史史料の通りで、その妻も木曽の伝承の通りで、大胆不敵な推測をしますと、比企郡の市川家に伝わる源義賢とその妻の没年月日は、源義賢とその妻のそれではなく、実は市川頼圓の父母である覚義とその妻の没年月日の可能性が高いのではないかと、その年代から推測が可能かと思っております。


2543.市川家系情報
名前:市川@武州荒木    日付:2013年3月21日(木) 17時3分
先日、町田市の図書館にて、同図書館所蔵の町田市史史料集第六集に翻刻された同市内の旧家市川家伝承の「市川系譜」を拝見し、複写致しました。家譜の冒頭には「予家ハ天児屋根命ノ苗裔ニシテ、先祖中臣ノ有彦ナル者当地ニ草創而以来此地ノ主ト成、数代住居年久シ、〈当地ヨリ上三四ケ所ノ谷間溝流ル、当家開キシ屋敷続八町四方ノ地内江流入テ一ツノ川トナル、近郷ノ一ノ川故、是ヲ世間ニテ一川ト云、此川ノ辺ニ住スルヲ以テ、吾家人皆一川ト云之、我家名ト成テ後ニ、改テ市川ト号ス、其山上エ天児屋根命ヲ祠リ、氏神ト称ス、今ノ春日神社是ナリ〉」という家系伝承が記されております。

多摩郡には名字の地としての市川の地名は無く、にも拘らす、多摩郡には市川姓が多いのが不明でしたが、多摩郡の市川姓の苗字の起源は、恐らく、この町田市の旧家の市川家の家系伝承の内容の通りであろうと推測します。また、この町田市の市川家が、その古さから視ましても、多摩郡内の市川姓の本宗家である可能性が高いと思っております。


2544.(untitled)
名前:市川@武州荒木    日付:2013年3月22日(金) 11時19分
町田市の旧家市川家の系譜を視ますと、「市川内匠」の名が出て来たり、西暦千四百年代後半に、甲斐の武田に属した一族の居たことを記していますので、新編武蔵風土記稿の多摩郡の項に出てくる府中の市川家も、実は甲斐表門神社の市川党の一族ではなく、甲斐の武田に属した町田市の市川家一族の中で、甲斐武田氏の滅亡後、甲斐から出戻った一族の一部の可能性があると推測します。

鈴木真年翁の百家系図稿に見える武蔵ト部姓の市川氏も、その活動範囲が多摩郡なので、多摩郡には武蔵ト部姓の一族が名字の地とするべき市川の地名が存在しないので、武蔵ト部姓の市川氏も、恐らく、町田市の市川氏との縁戚関係から、市川姓を名乗ったものと推定されると思われます。


なお、この町田市の市川氏の系譜には、比企郡に一族が分岐したという記録はないので、差し当たり、同じ武蔵国内ながらも、比企郡明覚の市川氏と町田市の市川氏を本宗家とすると推定される多摩郡の市川氏は別族で、武州比企郡・秩父半澤郡・上州の新田義興の従者の一人市川五郎を祖とする市川氏は、曽我物語に甲斐市川党の勢力範囲として出てくる「坂東」に分岐した甲斐市川氏(表門神社神主家を本宗家とする)と視て間違いないと愚考する次第です。

2483.丸に抱き茗荷 水戸藩士 返信  引用 
名前:    日付:2012年7月25日(水) 8時53分
直系尊属に堤x右衛門がいて水戸藩士でした。
江戸〜昭和時代には東京赤坂区(港区)に住んでおりました。
明治時代には宮内省にいましたが、父はコネで山内和豊の子孫の会社に入りました。
こんな情報で家系はわかるものでしょうか?



2484.Re: 丸に抱き茗荷 水戸藩士
名前:馬原 浩一@管理人    日付:2012年8月1日(水) 12時18分
堤さん、こんにちは。

水戸藩士の系図集である「水府系纂」には堤氏は見られませんでした。

http://www2.ocn.ne.jp/~so-sweet/pedigree/suifu-keisan/index-tu.htm

小禄のため出ていないのか、江戸時代には別の姓を名乗っていたのか、
または水戸藩士ということですが、水戸藩士の家臣(つまり家人)であった
のかも知れませんし、さらには水戸藩の支藩であった松川藩や宍戸藩、府中藩
の藩士であった可能性もあると思います。

いずれにしましても、言い伝えだけで家系を遡るのは非常に難しいです。
まずは、戸籍を取り寄せて一代一代遡ることが肝心だと思います。

下記ホームページなどを参考に戸籍(除籍謄本)を取り寄せることを
お勧めいたします。

http://jyosekitouhonn.com/newpage3.html

2478.ホームページ映らず 返信  引用 
名前:神山    日付:2012年7月13日(金) 22時3分
http://www.geocities.jp/kakenkyou/index.html

が表示できませんよ。呼び出しても何も映りませんな



2479.Re: ホームページ映らず
名前:馬原 浩一@管理人    日付:2012年7月14日(土) 12時11分
神山さん、皆さん、こんにちは。

ホームページを壊してしまい、2日ほど表示しない状態が続いておりました。申し訳ございません。
実は、パソコンの調子がおかしいまま、ホームページの更新をしたのですが、データの転送が
途中で止まってしまい、元にも戻らないという現象になってしまいまして、
仕方がないので嫁さんのパソコンをこっそり使って、なんとか暫定的に対応できました。
恒久対策はパソコンの買換えになりそうです。(泣)

2477.演題:戦国武将成P正成について 返信  引用 
名前:成P藤蔵    日付:2012年7月11日(水) 16時36分
第15回・葛飾歴史民話講座について
日時 10月14日 (日) 15:06〜17:55
講師 歴史と民話の会 白石重男
演題 戦国武将 成P正成(初代犬山城主・尾張徳川家筆頭附家老) 
会場 船橋市葛飾公民館 定員80名(受付順)
費用 無料(筆記用具持参)申し込み 9月1日から受付
電話 047(437)5072の葛飾公民館へ
最寄り駅 JR西船橋 及び京成電鉄 西船橋下車
※ 駐車場の用意は御座いません。


 

2476.池田家について教えて下さい。 返信  引用 
名前:池田祐二    日付:2012年7月2日(月) 23時40分
元和年中に岡山の大字南方中に池田太郎右衛門義備が住み士族、繁栄したと聞いています。この池田太郎の先祖を御存じでないでしょうか?
我が家の家紋は丸に揚羽蝶で宇喜多の家臣で川端家長丹後守の子孫(政代)が私の先祖(池田家)に嫁いでいます。
先祖代々の御位牌は幻住寺にあります、上記の池田太郎に関連することがあれば、お教えください宜しくお願いします。

2475.(untitled) 返信  引用 
名前:どりとる    日付:2012年6月28日(木) 6時48分
以前白石鍋島について投稿した者です。家臣で深堀豹蔵という者がいたんですが、そのお宅を見つけましていろいろ話をしました。
子供のお宮参りの着物についた紋が 鍔に小槌 でした。これは長崎の深堀鍋島家の紋です。非常に珍しいです。しかも豹蔵の妻は戸籍をみると、佐賀県の白石町あたりの 須古鍋島家の分家 須古宮内家の娘と書いていました。白石町教育委員会の方の所蔵の資料にも深堀豹蔵の妻のことが記載されていたそうです。
白石鍋島家の深堀家は、長崎の深堀鍋島家の関係と考えられますか?



2511.Re: (untitled)
名前:どりとる    日付:2012年12月4日(火) 8時33分
深堀恕助というものが、三養基、北茂安か佐賀城下にいたことが分かっています。後は深堀丹作です。深堀豹蔵は着物姿で写真に写っていますが、紋が佐賀藩の杏葉紋のようなのです。(小さくてはっきりしませんが)
深堀鍋島家は、鍋島家外戚石井家につながる家ですから、石井家にかかわる御寺に聞きましたが、わかりませんでした。墓地を見ましたが発見できませんでした。子孫の方もその豹蔵氏からは何も伝わっていないとのこと。
長崎の喧嘩騒動の深堀さんに聞いたところ、家来で、三浦氏に関係するので家紋は違っていました。

手掛かりがないので 探せそうにありませんが、深堀姓で、鍔に小槌紋の方っているんでしょうか。


2582.Re: (untitled)
名前:どりとる    日付:2013年8月16日(金) 10時50分
佐賀神埼で、鍔に小槌の紋の深堀家のお墓を見つけました

2474.家系図の作成 返信  引用 
名前:33    日付:2012年6月25日(月) 11時9分
家系図の作成


自分の先祖をたどって、1000年という雄大な時間旅行に出かけてみませんか?
http://dankaisyowa.seesaa.net/article/277165251.html


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