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家系研究協議会掲示板

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2473.浅野家藩士 小笠原 返信  引用 
名前:sai    日付:2012年6月21日(木) 18時39分
先祖からの言い伝えで江戸後期 広島藩浅野家の藩士で
小笠原の姓の藩士(蔵関係?)をしていたと伝わっているのですが
何かの記録に記載されていませんでしょうか?
どなたかわかる方いらっしゃいましたら
教えて頂ければ幸いです。



2481.Re: 浅野家藩士 小笠原
名前:TW    日付:2012年7月21日(土) 23時33分
旧臣録(広島藩)
小笠原三郎左衛門吉広・・・小笠原富三郎・・・小笠原棄三郎

安芸国広島浅野家家中 竹腰家文書
文政9年 小笠原富三郎 

官禄帖(広島藩)
115石 小笠原岩次郎
170石 小笠原棄三郎

安芸国広島浅野家家中 諏訪家文書
慶応3年 小笠原岩次郎 

広島藩の家老の上田氏は小笠原氏の一族

松平忠雅分限帳(福山藩)
300石 小笠原吉左衛門
小笠原荘蔵(吉右衛門家歟) 歟=か、〜だろうか  

御参考まで。

2472.宗門改人別帳 返信  引用 
名前:卜部 茂和    日付:2012年6月13日(水) 23時59分
江戸時代中期からの備後国品治郡江良村の宗門改人別帳を探しています。
どこに行けば、見れるでしょうか?

2470.水戸藩下館藩下妻藩谷田部藩の町田姓の藩士 返信  引用 
名前:町田武示    日付:2012年5月17日(木) 4時22分
先祖調査をしております。幕末に結城にいたことがわかりましたがそれ以上のことがわかりません。武士だったと聞いておりましたので結城近辺の藩に町田姓の方がいれば何か手がかりになればと思い投稿させていただきました。ちなみにマチダではなくマチタと濁りません。どなたかよろしくお願いします。



2471.Re: 水戸藩下館藩下妻藩谷田部藩の町田姓の藩士
名前:TW    日付:2012年5月24日(木) 9時49分
○多賀谷旧臣姓名録 落民士(慶長6年の滅亡時に土着した士)
結城家臣 常陸国小□村(小塚?) 町田庄八 
(小□村は前後に記載された者の在地から考えると結城市大谷瀬、結城市小森周辺と思われる?)


○小山家旧臣姓名録 (小山氏滅亡時に土着)
町田藤九郎末流 町田新右衛門 下野国都賀郡大行寺村
(栃木県小山市大行寺=結城市のとなり)
町田冨右衛門 下野国都賀郡大行寺村
町田林右衛門 下野国都賀郡大行寺村
町田久蔵 下野国都賀郡大行寺村
町田平八 下野国都賀郡大行寺村


○佐竹家臣系譜 (佐竹氏は常陸から秋田へ移封)
町田義村(新次郎、治郎左衛門)
町田義辰(兵部大輔、義村の子)
町田義長(兵部、義辰の子、佐竹氏に従い常陸より秋田へ移住)
町田安辰(備前、義村の子、慶長7年佐竹氏に従い常陸より秋田へ移住)
町田吉久(庄左衛門、安辰の子)
町田某(右馬之介、後称摂津守、義村の子)


○騎馬数書上 元禄5年 (秋田藩の騎馬武者)
渋江宇右衛門4500石組下 町田伝右衛門40石

御参考まで


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名前:Tinder dating site    日付:2021年1月30日(土) 8時14分
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2468.小笠原長時について 返信  引用 
名前:山田 誠    日付:2012年5月10日(木) 11時46分
はじめまして、山田と申します。我が家にある系譜では先祖は戦国武将の小笠原長時らしき事が書いてあります。小笠原長時には歴史書を見る限り三人の子供がいますが、この系譜には嫡男として“勇次郎”という五歳の子供が母と甲府に移ったと明記されています。長時の子供は他にいるのでしょうか?どなたかお判りでしたら教えてください。

2467.武州荒木様有難う御座います。 返信  引用 
名前:市川 晴正(札幌在住)五九歳    日付:2012年4月18日(水) 22時40分
市川@武州荒木(横浜在住)
ご指南有難う御座いますすぐに地元にいる兄に動いてもらう様連絡しました。そして十六葉菊と表記するとは思いませんでした。ご指摘、ご指導有難う御座います。前進有ればご報告させていただきます。
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2465.ご先祖探しのコツをご伝授いただけませんか 返信  引用 
名前:市川 晴正(札幌在住)五九歳    日付:2012年4月16日(月) 2時10分
私は1953年秋田県北部の比内町で生まれ育ち24歳の時に札幌に移り2年前脳梗塞を患い現在はWebの勉強を必死でしています。ウェブクリエイター上級の資格を取り仕事につながればと思いましたがハローワークでは即戦力を優先に紹介しているそうで、中々仕事は決まりません(年齢のせいも?)そこで私も還暦を前にして市川家の家系図を作りたくこのサイトをみて極めたいと思いました。私のサイトは最近始めたばかりで中々形になりませんが一度訪問頂き少しでもヒントを頂ければと願っていますどうぞご指南の程宜しくお願い致します。
http://rekidai.itikawake.com/

2462.山下秀実の 父 山下半右衛門 と 山下房親の関係ー薩摩藩 返信  引用 
名前:岡 より子    日付:2012年4月8日(日) 21時59分
母方の家系のルーツを整理しています。

この山下半右衛門なる人物の薩摩藩内での立場をご存知の方いませんか? またこの人には子供がなく山下秀実さんを幼いころ養子にしたと
聞いております。さらに秀実さんは奄美大島から鹿児島に戻ってきた
平家の落人の白石家出身だったと聞いておりますが、さだかではありません。何かご存知の方お教えください。

2460.隣へ、これが現実 返信  引用 
名前:姫路藩士兵庫県士族伊藤穂一郎来孫、伊藤善太玄孫    日付:2012年4月7日(土) 22時4分
祖父伊藤榮(栄)履歴

昭和五年三月三十一日、神崎郡寺前尋常高等小学校訓導。担当教科国語。昭和七年三月三十一日、姫路飾磨城陽高等小学校赴任。昭和九年三月三十一日、飾磨尋常高等小学校に改称。昭和十六年四月一日、国民学校に改称。昭和二十二年学校教育法施行、姫路市立飾磨小学校に改称。飾磨小学校時代の地位は主席教諭。昭和三十二年四月一日、姫路市立砥堀小学校に赴任。昭和三十三年四月一日、同校に於いて教頭職。昭和三十五年四月一日、姫路市立船津小学校に赴任。昭和四十一年四月一日、姫路市立船津小学校教頭職を以って退官。姫路市立船津小学校現存教職員履歴。姫路市教育委員に照会済み。

2459.隣へ、これが現実 返信  引用 
名前:姫路藩士兵庫県士族伊藤穂一郎来孫、伊藤善太玄孫    日付:2012年4月7日(土) 21時42分
明治五年から八年までの間、日本国中に一代士族は現実的に多数存在する。知らないだけ。

2457.隣へ、これが月実 返信  引用 
名前:姫路藩士兵庫県士族伊藤穂一郎来孫、伊藤善太玄孫    日付:2012年4月7日(土) 20時56分
兵庫縣加古川警察署署長警部判任官二等五級俸月俸四十員勲八等服部覺助。兵庫縣三田警察署署長警部判任官三等六級俸月俸三十五員正八位山之内丈四郎。兵庫縣豊岡警察署長警部判任官三等六級俸月俸三十五員正八位勲八等北爪宣器。兵庫縣柏原警察署長警部判任官三等五級俸月俸三十五員勲八等家城覺三。兵庫縣出石警察署長警部従八位勲八等月俸二十五員松島一雄。兵庫縣魚橋警察署長警部判任官四等八級俸月俸二十五員勲八等高木盛文。以上、明治四十年五月一日調印刷局職員録乙所載。

姫路市長正八位大塚武臣。明治三十八年五月調職員録乙所載。



2458.隣へ、これが現実
名前:姫路藩士兵庫県士族伊藤穂一郎来孫、伊藤善太玄孫    日付:2012年4月7日(土) 20時57分
> 兵庫縣加古川警察署署長警部判任官二等五級俸月俸四十員勲八等服部覺助。兵庫縣三田警察署署長警部判任官三等六級俸月俸三十五員正八位山之内丈四郎。兵庫縣豊岡警察署長警部判任官三等六級俸月俸三十五員正八位勲八等北爪宣器。兵庫縣柏原警察署長警部判任官三等五級俸月俸三十五員勲八等家城覺三。兵庫縣出石警察署長警部従八位勲八等月俸二十五員松島一雄。兵庫縣魚橋警察署長警部判任官四等八級俸月俸二十五員勲八等高木盛文。以上、明治四十年五月一日調印刷局職員録乙所載。
>
> 姫路市長正八位大塚武臣。明治三十八年五月調職員録乙所載。

2456.隣へ 返信  引用 
名前:姫路藩士兵庫県士族伊藤穂一郎来孫、伊藤善太玄孫    日付:2012年4月7日(土) 18時20分
明治五年当時、卒から士族になる条件は二代以上の世襲限る?それは中下級の卒の場合。最上位の場合はそんなことは関係ない。要は族籍に編入される時の地位で決まる。足軽採用一代でも士族足るべき条件を満たしていれば、士族の族称を得ることが出来る。全足軽組中の最上位である足軽頭(小頭とも)の職に一代でも在職していれば士族とされる。常識だ。但し、足軽頭の数は一人乃至は二人であるので、明治初期における日本の士族総数百八十九万人に占めるその割合は限りなくゼロだが。足軽同心は一代限りの身分である。諸藩おいても全ての代に渡って連綿と継承出来ている家は少ない。役職に就けた上位の者ならば尚更である。であるからといって、無役の卒時代の先祖を地下浪人と断定して部落民呼ばわりするのは言語道断であろう。姫路藩においては役職付卒身分上格の者の記録は文政家臣録にしか現存していない。もっとも、地下浪人など姫路藩には存在しない。それと、先祖が用務員とは一体誰のことを指して言っているのか。高祖父は十六歳当時姫路藩校好古堂督学執筆寮使令兼勤であったが、この使令の身分のことを指して言っているのか。藩政時代、好古堂使令の定員は一人しかいない。誰でもなれるものではない。しかも三両二人扶持という厚遇であり姫路藩においては下級武士待遇である。十六歳で独立して三両二人扶持を得ていたとは立派なものではないか。しかし百四十二年前の先祖の身分を持ち出しあげつらって見下すとは無礼であろう。

2455.隣へ 返信  引用 
名前:姫路藩士兵庫県士族伊藤穂一郎来孫、伊藤善太玄孫    日付:2012年4月7日(土) 16時31分
明治後、卒から士族になる条件は二代以上の世襲に限る?それは中下級の卒の場合。筆頭格の場合はそんなことは関係ない。要は族籍を与えられる際の身分役職である。足軽採用一代でも士族足るべき条件を満たしていれば、士族の族称を得ることが出来る。全足軽組中の最高位である足軽頭(小頭とも)の職に一代でも在職していれば士族とされる。常識だ。

2452.当家先祖が士族であった証拠 返信  引用 
名前:姫路藩士兵庫県士族伊藤穂一郎来孫、伊藤善太玄孫    日付:2012年4月6日(金) 7時25分
まず、戦前に祖父が婿養子に入った折に取得した先祖の戸籍抄本が現存しております。高祖父と曽祖父の戸籍の抄本に士族との族籍表記がハッキリと記載されてあります。また、明治二年当時に撮影された髷を結って袴着用、佩刀をした高祖父の硝子湿板製の古写真、明治十五年司法省官吏に任命された時の硝子乾板製の同祖父の古写真、明治二十七年、亡先妻の実家士族大山家のファミリーと一緒にフロッグコートに懐中時計を忍ばせた高祖父が写っている鶏卵紙製の古写真、明治四十年に撮影された紋付羽織袴姿に、扇子を持っている高祖父の鶏卵紙製の古写真(士族特有の正装であり平民のそれとは人目で違いが分ります)。また、明治三十九年に撮影されたユニフォーム姿にグローブをはめた、当時野球部に所属していた曽祖父の学生時代の古写真、同年に撮影された銀行に新任した当時の背広に縦ネクタイ懐中時計姿の曽祖父の肖像写真、大正七年に勤務先の銀行内で撮影された背広に縦ネクタイをし懐中時計を身に着け支店長及び二人の同僚と一緒に写っている曽祖父の職員写等々、その数は数十点に及びます。このような百四十年以上前の古写真が多数現存しているような例は他家では滅多とあるものではなく、当家の誇る後世に伝え残すべき貴重な文化遺産かと思います。当家の出自(特に伊藤家が士族階級であった歴史的事実)を主観的な自己の憶測及び推測と仮定に基く推論(所謂邪推)で否定されているあなた、この機会に当家の亡父の実家に赴かれ、ご自身の目で確認されては如何でしょうか。(多分門前払いなると思いますが)。追伸 一代抱えの藩士でも明治五年以降士族になっている者は多く居ます。一応太政官布告の建前上は二代以上の世襲の者となっておりますが、他方、上位の者であればよい等、基準は諸藩によって様々です。姫路藩では小頭の寄合鳥見を筆頭に、下目付、押目付以下、卒の者は全て一代限りの身分です。が、実際は、明治五年以降、その多くが士族に列せられております。あと当家の先祖は浪人ではありません。念の為。武士資格を剥奪された無職町人の浪人は武家地たる五軒邸や北条口には定住出来ませんし、第一、江戸時代、そのような身分の者は日本では最高の宗派であった天台宗の檀家にはなれません。江戸時代おける宗派の格は上から順に天台、真言(貴族武士)、臨在、曹洞(武士)、日蓮(商人)、浄土、浄土真宗(農民その他)となっています。あと、姫路藩には地下浪人は存在しません。

2451.伊藤家系図 返信  引用 
名前:姫路藩士兵庫県士族伊藤穂一郎来孫、伊藤善太玄孫    日付:2012年4月4日(水) 18時3分
初代伊藤伴右衛門、文化四年十一月七日卒。−−−二代伊藤穂助、姫路藩鳥見役、一代抱席、文政二年七月二十三日卒。−−−三代伊藤左賀右衛門、次男、姫路藩押目付、一代抱、天保十四年七月二十五日卒、享年四十八歳。−−−四代伊藤穂一郎(二代穂助同人)、長男、姫路藩寄合鳥見役、一代抱、明治五年永代士族。明治二十八年八月十一日卒、享年六十八歳。−−−五代伊藤善太(幼名善之助)、長男、明治二年藩校好古堂督学執筆、明治十五年司法省官吏、神戸地方裁判所刑事第一部書記官(明治十六年〜同三十八年)兵庫県士族、昭和五年一月八日卒、享年七十七歳。旧主酒井忠正伯爵より使を以て玉串料を給う。−−−六代伊藤三多、長男、旧日本商業銀行神戸本町支店勤務、兵庫県士族、大正九年一月六日卒、享年三十一歳、−−−七代伊藤冨美子、長女、旧制兵庫県立姫路高等女学校卒、昭和二十四年八月二十一日卒、享年三十八歳。七代伊藤榮(旧姓小林、旧制奈良女子高等師範学校教授小林巌実弟)、姫路市立砥堀小学校、同船津小学校教頭職。会社役員、平成十年八月二十七日卒、享年九十歳、八代伊藤隆興、長男、国家公務員六級職係長、平成五年二月十九日卒、享年五十一歳。

2450.私の先祖”堀 龍伯”について教えてください 返信  引用 
名前:佐野 謙介    日付:2012年4月2日(月) 21時12分
 私の高祖父 佐野円冶万方(覚平)は13歳の頃に堀家から養子に来ています。墓誌には「實堀龍伯先生之孫」とあります。堀龍伯は医者であったそうです。覚平も医者で酒井藩(姫路)中民間平医師名寄(天保10年)に名を連ねていますが、同じ名寄に「中島組 山野井 堀 良伯」との名もあり、関係する方ではないかとも思っています。堀 龍伯についてご存知あればお教え下さい。よろしくお願いします。

2449.専門分野 返信  引用 
名前:神山    日付:2012年4月2日(月) 15時2分
家系研究協議会さんの専門分野はどこの時代が限界でしょうか。あまり古代史は話題にしていないようですな。どうしても武士の時代にならないと無理でしょうか。

2446.(untitled) 返信  引用 
名前:市川@武州荒木(横浜在住)    日付:2012年3月31日(土) 17時38分
馬原様

先日は、今夏の家系研究協議会の東京例会開催につき、参加へのお声掛けを賜り、誠に有難うございました。馬原様のお声掛けに気付いていたのですが、仕事が忙しく、メール出来ないでおりました。

5月迄は、親父の一周忌の法事などで忙しいのですが、8月の東京での例会には参加出来ると思います。

ただ講師?の件ですが、まだ、真野信治氏がネット上に公開された源義光の嫡男刑部禅師覚義の子供の頼圓・頼儀・覚光を含んだ甲斐源氏の系図の元となった系図の入手に至っておらず、また、表門神社神主家の方へも未だお伺い出来ていない状況ですので、これまでこちらの掲示板に御報告させて頂いた以上のことは、何も無いので、取り敢えず、今回は例会に参加させていただくだけで結構です。

家研協の会員の皆様の中には、ご自身の家系を探求し、史料を収集される過程で、はからずも市川姓の一族の系図や史料を入手された方もおられるとおもいますので、もし、差し支えなければ、東京例会に参加の折り、それらの史料をコピーにてご提供頂ければ幸甚に存じます。


まだまだ若造の若輩者ですので、皆様のご指導・ご鞭撻を仰ぎます次第です。



2463.角川日本地名大辞典から
名前:市川@武州荒木(横浜在住)    日付:2012年4月9日(月) 21時2分
“角川日本地名大辞典19 山梨県”の現市川三郷町の表門神社の項によりますと「『社記』には、孝霊天皇2年の創建で、『延喜式』神名帳八代郡条の表門神社とするが未詳。永保元年にたまたま在京していた当社神主が、白河院の病気平癒に験があったため、白河院が本社とその51末社を造営し、さらに『梵字之文殊画像』を寄進したという(社記)。現存する紺紙金泥の文殊菩薩画像がそれで、線が細かい梵字を組み合わせて描かれている(町文化財)。また同時に市川荘を神領として賜り、以後市川明神と称した」とあります。
以上の如く、表門神社の神主家そのものは、所謂、源義光流の人々が入る前から、その活動が知られますが、その記録を消したのか消されたのか、市川三郷町の郷土史研究者であられる中倉氏は大伴氏と見ておられますが、源氏一族が入る前の表門神社の神主家の氏姓(うじかばね)は不明で、具体的な系譜も判りません。

源義光(新羅三郎)流の氏人で、表門神社に入った人を見ますと、世代的にまず、後拾遺往生伝に源義光の長男とされる刑部禅師覚義の子供の市川別当民部卿頼圓が入り、次に方原下司次郎師光の子供の市川別当大夫高光(初名行光)が入ったものと思われます。

今のところ、源義光流の氏人が入る以前の表門神社の神主家が市川の名字を称した痕跡は史料に見えないので、甲斐の市川姓の発生は源義光流の氏人が入ってからのことであろうという見解を示しておきます。


なお、武蔵国比企郡都幾川の市川家の霊會日鑑(過去帳)には、建仁三年三月九日に亡くなった方として市川別当覚光を記録しますが、故長谷川順音氏から頂いた手紙によりますと、四人の覚光の子孫の方から手紙が来たとのことでしたが、長谷川氏と生前に電話でお聞きした話では、覚光の子孫のお家(苗字は聴きそびれました)に残されている覚光の没年月日と都幾川の過去帳に記載された没年月日とは異なり、戒名も違うとのことでしたので、都幾川のそれは、恐らく、市川別当大夫高光か市川別当大夫頼尊を誤伝した可能性が高いと思います。一応、注意すべきなのは、市川別当大夫高光の初名が行光で、後に高光と改名していることで、もしかしたら、高光も、帯刀先生義賢に味方し、義賢の養父となった秩父次郎大夫重隆の隆字の偏諱を受けて行光から隆光(さらに高光)に改名した可能性もあるのではないかと思います。

としますと、甲斐の源義光流の市川氏で、近江の義光流源氏一族の源為義との同盟関係から帯刀先生義賢に味方したのは、高光と倶義(倶義の義は義賢の偏諱を受けた可能性もあるか)で、義賢戦死後、高光は甲斐に戻ったが、頼圓の子の倶義は、他の義賢遺臣とともに武蔵国比企郡に留まり、曽我物語に甲斐市川氏一族の居住地として挙げられた「坂東」の市川氏の祖となったものと推測することも可能かと思います。

なので、都幾川の市川氏の過去帳の覚光は実は高光の可能性が高いのではないかということを述べておきます。


2464.Re: (untitled)
名前:市川@武州荒木(横浜在住)    日付:2012年4月9日(月) 21時14分
また誤字を打ってしまいました。

誤)長谷川氏と生前に電話で

正)長谷川氏に生前に電話で

失礼いたしました。

2445.市川家の家系を調べています 返信  引用 
名前:市川 晴正(札幌在住)五九歳    日付:2012年3月30日(金) 22時50分
(祖父)が秋田県北秋田郡比内町扇田(現在大館市)に、昭和初期 白沢地区から扇田に移り住んだと聞いています。白沢では山を三っつとも六つ持ってたとも幼い頃に聞いた事があります。白沢にあったお墓も現在扇田にあるお墓にも、一六枚菊の紋が掘られています。何か情報が有りましたら宜しくお願い致します。近々ブログを立ち上げようと準備しています。



2447.Re: 市川家の家系を調べています
名前:市川@武州荒木(横浜在住)    日付:2012年3月31日(土) 22時48分
市川様、はじめまして。

国会図書館東京館所蔵の“市川一族”という書籍の記述によりますと、「北秋田郡の市川氏は、佐渡より来たりしともいい、『十六葉』を家紋とせり」とあります。


すでに、市川様におかれは実行為されているかもしれませんが、家系調査の定石は、直系の遡れるだけの御先祖の除籍謄本を取得し、その先は、御本家や御一族のお家に家系図や古文書がありましたら、それをコピーや写真に撮ります。また御先祖の菩提寺にて御先祖の墓石に刻まれた文字を全て記録し、菩提寺に過去帳がありましたら、照合して記録すれば、恐らく、少なくとも佐渡より来住されたという御先祖まで辿れると思います。


ご健闘をお祈り申し上げます。


2448.Re: 市川家の家系を調べています
名前:市川@武州荒木(横浜在住)    日付:2012年4月1日(日) 11時26分
脱字がありましたので、訂正致します。

誤)十六葉
正)十六葉菊

誤)おかれは
正)おかれては


失礼いたしました。


3020.Re: 市川家の家系を調べています
名前:市川誠    日付:2015年2月11日(水) 15時57分
祖父の栄は、高知県高岡郡窪川町奥呉地と聞いています。
家紋は丸の内竪三引。
今は亡き父は幼い頃、何度か祖父の実家に行ったことがあるらしく、大市川と呼ばれる宗家には武具や決して抜いてはならないとされる妖刀などが飾られていたとのこと。以上の情報しかありませんが、よろしくお願いします。

2443.織田信長の母 返信  引用 
名前:神山    日付:2012年3月19日(月) 9時57分
いくつかの書並びにネット情報などを見て最近思うのですが、織田信長の母親は土田御前ではないという説が見受けられます。これについて意見のある方はいらっしゃるでしょうか。

2438.陣内性について 返信  引用 
名前:明治    日付:2012年2月22日(水) 3時52分
陣内家の祖先について教えて下さい。
私は陣内(じんのうち)性で祖父からは、武士だったと聞きました。


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