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家系研究協議会掲示板

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3132.インターネットによる先祖を探す事の難しさについて。 返信  引用 
名前:片平記央    日付:2016年8月16日(火) 6時21分
GoogleやYahoo!では、ありとあらゆる情報を提供しており、例えば、テレビドラマや漫画のセリフを入力しただけで、そのドラマや漫画のタイトルが検索結果として出て来る程です。ところが、実在した過去の人物、都道府県立の図書館には、はっきりと名前が出ている人物も、GoogleやYahoo!では出て来ません。これは何故なのでしょうか。その為インターネットで先祖を探すのに非常に苦労しています。どなたかお詳しい方がおられましたら御教示下さい。

3131.(untitled) 返信  引用 
名前:玉矛の道しるべ    日付:2016年6月25日(土) 21時26分
長い歴史と伝統を誇る日本は
それぞれの家にそれぞれの長い歴史がある
長い歴史を紡いでいる家にはそれなりの権威(磁力)があった

しかし日本は戦争に負け
CHQの反日占領政策によって
日本に誇りの持たない先祖も郷土も
大事にしない日本人を大量に作ってしまった

今じゃ家族葬が流行し
葬儀でもぜんぜん人が人が集まらない

家族は小さな国家
先祖に誇りを持てない家族は
いずればらばらになって流浪する

小さな国家が無くなれば
いづれ大きな国家
日本も滅びる
それに気づいた人達は自分の先祖がだれなのか調べた方がいい
日本を取り戻す為に

3120.(untitled) 返信  引用 
名前:doritoru    日付:2016年5月28日(土) 6時56分
戸籍と墓石 文献などで、まぎれもなく家系が証明されている人って
度rくらいいるんだろうか?
家に残る家系図は書き換えられた可能性があるし。
空白の時期が証明できない方がたくさんいると聞く。



3121.Re: (untitled)
名前:小次郎    日付:2016年5月29日(日) 2時42分
どりとるさん こんばんは ご無沙汰しております。

>家に残る家系図は書き換えられた可能性があるし。
>空白の時期が証明できない方がたくさんいると聞く。

家系図が作られた時に何代か空白の時代がある。でもそれ以前が
ちゃんと系図として書かれているって、可笑しいとおもわれませんか。
祖父・曾祖父の名前も知らないのに、どうしてそれ以前の家系図を書くことが
出来るのでしょうか。そんな家系図が存在することが不思議なんです。

それと、筆跡はどうですか、何代にも亘って伝承してきたものであれば、代ごとに筆跡が
違う筈です。

今回の鳥越氏家系図が徹底的に叩かれているのは、出典先が解らず、ボールペン書きで
相当な年数の家系図が書かれています。没年や戒名は一切書かれていないので、誰が見
ても明らかに何処かの故買屋(けいずや )から買ってきたことが解るものです。

先日も書きましたが、家系と遠祖の祭祀は別物ではありません。本家に一族として認めて
貰えていない家もあります。現在でも、相続が発生した時に民法に基づき平等に配分せよ
と迫った兄弟姉妹などは、分配が終わればもう本家へ寄り付かないでしょう。

それから何代か後になって、子供たちが先祖は○○だったと吹聴しても、本家からすれば
祭祀を継承してこなかった者達として絶縁されているでしょうし、系図を見せて欲しいと言って
こられても、今更何を言っているのかということになります。

せめて年一回くらいは本家へ行き、仏壇に香華料を供えておけば、何の問題もなっかった筈です。

拙家の丹波に残った一族の墓は江戸期の菩提寺の裏山の上部にあり、墓石は数十を超えています。
江戸初期に拙家が人質のように出仕させられてから、藩主の転封により各地に移住しましたが、江戸
中期以降は大和におりましたので、手紙のやり取りはありましたし、丹波から大和へ何度も来て頂いて
おりました。

拙家は在地の本家と大事にし、在地に残った家は武家となってくれた一族として大事にしてくれて
いました。そうやって互いに尊敬し合って今日まで関係が続いているんです。

皆さんは家系を調べて、解ったらどうされますか。今後子々孫々に遠祖の祭祀を継承させますか。

つまり、本家に対し頭を下げて長年の無沙汰を詫び、本家だけに負担させてきた遠祖の祭祀に関
する費用の一部にと、少しは纏まった金額を包んでご仏壇にお供えになる気持ちはありますか。
今後、毎年供養の費用にと、幾分かの金額を本家に必ず送られますか。

家系を伝承してきている者はそれだけのことをしてきたという事です。


3124.Re: (untitled)
名前:doritoru    日付:2016年6月11日(土) 6時52分
私は本家ではないのですが、自分のルーツというか、だれの血を引き継いでいるかを知った
ことで十分です。

ある方に戸籍と、図書館所蔵の資料で きれいにつながっているのはすごいといわれました。
公の脂漏で、鍋島勝茂につながっていることが証明されているということで満足です。

おっしゃっている本家ですか?史実に残る人物の墓があり開基の寺があれば
まぎれもないでしょうが。


3125.Re: (untitled)
名前:doritoru    日付:2016年6月11日(土) 7時35分
江戸時代の図書館所蔵の武家の家系図しか見たことないし
現物を見たわけでもありません。コピーです。
同じ紙に代々書き加えられたものか、どこかできれいに
整理されたものかもわかりません。
桓武天皇にまでさかのぼれるものもありました。
誰に聞いても 何を書いてもよかったのだからと言ってました。
嘘だとはいうこともできないかもしれません。

私の場合は、藩主鍋島勝茂から息子鍋島直弘そして
幕末家老鍋島直章までは史実でわかっています。
私が入手した原戸籍と家族家系大成で空白が埋まりました。

寺に訪れた時は、お布施をわたし、墓に手を合わせ 感謝しています。

教えてください。
先祖には父方、母方がいますね。鍋島以外に 1584年に竜造寺軍士で
竜造寺隆信とともに 沖田畷の戦いで戦死した 石丸弥次郎がいます。
ネットで知り合った方に隆信の法要の際の参列者名簿に曾祖母の弟の名があると聞き
この石丸弥次郎を知りました。
北肥戦史という書物にも名が載っています。
鍋島直弘の墓のある寺は、もともと竜造寺胤家を祀る寺です。胤家の子孫の1家が
石丸家で胤家の墓の横に並んで墓があります。しかし 他家とは違い、後で子孫と判明したような
ことがネットでも見受けられます。

かつて我が家の石丸と、この竜造寺の子孫の石丸と関係あるのかどうか調べたいと
思いましたが何せ、資料がありません。
隆信が筑後へ逃避していた時に、救出に向かう郷士に石丸氏があると
胤家は家中のもめごとで廃嫡します。もしかして、その時に石丸氏のところへ身を
寄せていたのかなと思ったこともありました。

神社等に 石丸弥次郎の碑があるかもしれないと、ネットで知り合った方に
言われました。どうしてもわかりませんでした。

小次郎様は何年あたりまでさかのぼって資料が出てきたのでしょうか?
そればどんなものなんでしょうか。


3126.Re: (untitled)
名前:小次郎    日付:2016年6月12日(日) 2時18分
今晩は ドリトルさん

うろ覚えですが、母方の遠祖が石丸だったのでしたね。
よく調べられたと感心しておりますが、石丸氏には祭祀継承者がおられると思いますので、これ以上はネットにお書きにならない方が良いと思います。

ご分家なら今日まで本家に祭祀の費用を全部負担させてきたと言いますが、嫁に出られたのですから今後の交流をも求められることで良いでしょう。まずは当主に頭を下げて挨拶する処からです。

その後は、遠忌のご連絡を頂ければお参りしたいとお伝えになっておけば、連絡頂けるかもしれません。

今後は、年一回くらい 香華料をお供えされたら如何でしょか。ちょっと良いお線香を送るのも良いでしょう。また、年末に新年用のお酒を送られるのも良いと思います。縁を絶やさないことでですね。

でも、貴方が継承しなければならないのは、現在の父方の家系ですから、出過ぎた真似はなさらずに、仲良く交流してください。

さて、拙家の歴史史料は頼朝の上洛期が最初です。中世の城が落ちるまで、約800点近くの歴史史料を探し出しました。

読みこなすためには漢文の知識が必要ですので、高等学校の漢文からやり直しました。また、文書が見つかってもそれがその時代どういう立場で発給されたものなのか、全解らず、猫に小判状態でしたので、日本史の通史(中央公論者 日本の歴史)は全館読破してます。他に、古文書学の勉強も相当やりましたので、今ではくずし字でも時間をかければほぼ読めるようになっています。

先日の鳥越氏家系に関することで、少々思うことがありしたので、例のブログにちょっと書いておきました。参考になれば幸いです。ブログ名は宣伝してなどという方もおられますので、内緒にしておきます。
以前一度コメント頂きましたので、探し出せると思います、名は変えてませんは、以前のものは一度全部削除しましたので、雑文中心で、時々(いまは半分くらい)が歴史です。


3127.Re: (untitled)
名前:doritoru    日付:2016年6月14日(火) 8時1分
祖父の母が石丸で、その母が鍋島です。
石丸の家には時々いきます。
調べたことは、石丸家に、教えてあげました。
聞き伝えがあったくらいでしたから。
祖父の実家 長男の家とは 戦後の生活が大変な時の
行き違いから 絶縁になってましたが
一昨年訪ねて行くことができました。
ルーツをたどって 良かったことですね。


3129.Re: (untitled)
名前:doritoru    日付:2016年6月18日(土) 7時29分
小次郎さんのお宅は本家ではなく
分家なのですか?
お宅に残る家系図は、それぞれが書き加えていった
ものなんですか。
私は誰かが、新たに作り直したものばかりだと思っていました。
作り直したものでも、それまでに記録されたものですから真実に
ちかいものでしょうが。
公の記録に残らない人物名の場合、家系図に書かれていたとしても
それを証明するものはどんなものですか。
代々寺に墓石がある本家ならまぎれもないでしょうが。

私の場合先にも書きましたが、鍋島初代藩主から幕末までは、県立図書館が
編纂した資料でつながりかわかり、昭和新制家族家系大成と、明治の戸籍で
完全につながりました。苗字も全く違いますし、何も残るものはありません。
ただ 藤山財閥からの手紙が残っているだけです。

小次郎様の菩提寺は、本家と同じ寺ですか?


3130.Re: (untitled)
名前:小次郎    日付:2016年6月18日(土) 20時1分
ドリトルさんへ

私のブログにある程度書いてます。そこでお察し下さい。
分家してから400年近く経ってます。

3119.鳥越俊太郎氏家系とNHKの大失態 返信  引用 
名前:小次郎    日付:2016年5月23日(月) 15時23分
昨日ネットでジャーナリストの鳥越俊太郎氏の家系を調査報道したNHKの番組に痛烈な批判が寄せられている。何年か前より「ファミリーヒストリー」という番組名で時々報道されていたのを知っていた。
今回の鳥越俊太郎氏の放送も見ていた。

この報道があって以来、本系の当主からNHKに鳥越氏は同姓ではあるが、本系とは全く血縁関係がないものであると抗議が寄せられていたらしい。
そんな経緯もあって再放送は中止になったが、俊太郎氏は先々で遠祖は大友宗麟の有力武将であたと吹聴しておられたらしい。
それがまた、本系の当主の耳に入り、再度NHKに抗議されたが音沙汰がなかったので、今回週刊新潮が報じる事になったらしい。

家系の伝承と遠祖の祭祀は別物ではないと私は何度かこのサイトでも申し上げてきた。

今回の鳥越氏の家系報道について、鳥越氏は番組作成に携わっていないと逃げておられるようだが、番組に出演されてから報道まで時間はあった筈である。
なぜご自分で在地へ赴きNHKが調査したものを確認されなかったのだろうかと、不思議である。

ジャーナリストとして著名な方であるだけに残念である。

在地へ赴けば直系当主とお目にかかることも出来たであろうし、今回のいい加減な家系遡及番組が出鱈目であったことは直ぐに解った筈である。

家系を研究されているこの掲示板に私は時々コメントを入れてきた。その都度本家を探し、当主に受け入れてもらうことの必要性も書いてきた。

もしNHKの記者が真摯に史学研究としてこの番組に取り組んでいたら、本系当主を訪ねることを飛ばすことはなかった筈である。

どうか皆さん、今回の鳥越氏家系の調査報道を心に留めて頂きたい。



3122.Re: 鳥越俊太郎氏家系とNHKの大失態
名前:小次郎    日付:2016年5月31日(火) 13時47分
今回の鳥越氏家系図に関して週刊誌等が取材を進めているが、先ほど下記の記事が掲載されていたので参考のため転載する。

/------------------ 転載開始 ----------------------------------------------------------------------/
http://www.excite.co.jp/News/society_g/20160531/DailyShincho_508735.html

■家系図は俊太郎氏の父、伯父が作成か
 では、なぜ、こんなデタラメな家系図が番組で紹介されたのか。カメラの前で家系図を示した鳥越市治氏はこう語る。

「昨年の5月くらいでしたか、NHKから取材協力の依頼がありました。…それで繁喜さんから生前『もし、何かあったらこれを出してほしい』と託されていた家系図を出しました。どういうものか何も知りません。NHKの方が自分で調べたんじゃないでしょうか。まさかこんなことになろうとは」

 旧吉井町の歴史に詳しい地元の老人は、こんな話をする。

「私はNHKに、鳥越興膳から俊太郎さん、つまり鳥越製粉への流れについて取材を受けました。彼らは最初から興膳と鳥越製粉を結びつけているみたいでしたね。私は興膳については説明しましたが、その先についてははっきりしたことが分からないと述べたんです。そうしたら、私の発言は一切番組で使われませんでしたね」

 光氏も記憶を辿りながらこう話す。

「今から40年程前、俊太郎さんの伯父、繁喜さんの依頼で郷土史家の熊谷光雄さんという方がうちに来て、興膳などについて色々話したことがあります。『私が家系図を作ります』と言っていたので、その時調べたことが今回の家系図に繋がっていると思います。それから、30年位前、俊太郎さんの父親、俊雄さんと母親、綾子さんが、うちに『先祖が分からないので協力してほしい』と来たこともあったな。その時は、こちらの家系図を見せました。二人で指さしながら色々話し込んでいましたから、その時、うちの家系図をメモでもしたのかもしれません」

いずれにせよ、NHKで紹介された家系図は俊太郎氏の父親や伯父が調べ、作成したものと思われる。

/------------------ 転載終了------------------------------------------------------------------------/

この熊谷光雄さんという郷土史家が鳥越俊太郎氏の父・叔父に依頼され、系図作成に拘わっておられたようで、この時に本家を訪ねてこられている。

この時点で本家と関係ないという説明に為に本家が見せられた系図を基にして、鳥越俊太郎氏の父・叔父たちが系図を偽装したことが判明した。

私は以前より「家系のことは他に対しては絶対秘である」と言い続けている。

どんな歴史研究家が来られても、家系図は見せない。しかし、大学の教授や研究者と名乗ってこられれば、普通の方はそこまで警戒しないだろうし、安易に見せられることも多々ある。

現在地方の郷土史、○○町史、○○村誌など、今日のように個人情報の保護が公で話題になっていない時代に作られて市史・誌史などには著名な家の系図が載っているのが多くある。

私もそれで研究してきたので有り難いことであるが、家系を著名な一族に繋げて系図を作りたい人にとっては格好の餌食になってしまう。

何度も申し上げて誠に恐縮であるが、この掲示板は家系を遡及する為に苦労されている方へ、研究のための資料・史料を紹介するに処で留めて頂けないだろうか。

歴史に詳しくない方がご自分の先祖のことを知りたいを思われるのは良く理解できる。

それらの方の参考になればと思うので、私も時々コメントを入れさせて頂いてきたが、コメントに対してレスが帰ってきた覚えがない。

痛い処を突かれたと感じられるからであろうか、嫌味を書き込まれえることは何度かあった。

今回の鳥越氏家系調査報道が呈した問題を考えると、家系に関することを「線を繋げて」書くことは考え物である。

最後にもう一度書かせていただく。

「家系のことは他に対しては絶対秘である」 家系を継承する者が知っておれば良いことであり、他に対して吹聴することではない。

どうかご理解頂きたいと思う。

3116.片平和泉守綱成と安積伊東氏について 返信  引用 
名前:片平記央    日付:2016年4月27日(水) 3時22分
re.tw様、本当にご親切にありがとうございます。私も、伊東下野守祐氏という名の人物は、複数いたのではないのか、と思います。そうではないと、片平和泉守綱成との関係が、説明出来ません。ですから、安積の伊東下野守祐氏という人物をはっきりとさせないといけないと思います。本当にどうもありがとうございました。

3113.波多野出雲守五郎義重の嫡男宣時の子孫の系図を探しています 返信  引用 
名前:千葉の波多野    日付:2016年4月18日(月) 9時51分
十数年波多野氏族の研究をしていますが、初めてお尋ねします。私の先祖は越前国志比庄地頭職・六波羅探題評定衆・永平寺開基と言われる波多野出雲守五郎義重で、その嫡男宣時の流れをくむ子孫にあたります。志比庄地頭職・家督は次男時光が継いでおりその子孫の方は永平寺開基家として現在も続いています(「波多野家血統鑑全」の系譜)。宣時の子孫の系図は、諸系図では宣茂・式宣・上野前司宣通(相模国大名という)・三郎信通(丹波国大名という)までで終わっており、その子孫の世代の系図は見当たりません。我家伝来の系図によれば、三郎信通より若狭守某(北条家没落〜徳川幕府初期に当る)までの間の世代は「戦国期故系譜書、或いは過去帳等史料散逸、焼失し」不明とあります。国立国会図書館等各地図書館や東京大学史料編纂所等所蔵の諸系図など探しましたがまだ見つかっておりません。どなたか情報をお持ちでしたらご教示ください。



3115.Re: 波多野出雲守五郎義重の嫡男宣時の子孫の系図を探しています
名前:TW    日付:2016年4月26日(火) 23時21分
波多野三郎信通以降の系図は、一般的に公開されている活字本などには無いかもしれません・・・???
個人的な自家に伝わる系図などは有るかもしれませんが・・・???

嘉暦元年(1326)吉田郡志比荘地頭波多野出雲次郎左衛門尉通貞の名が有り

深谷記に波多野若狭の名が有り(深谷城は上杉氏に関係する)
深谷城を継いだ松平忠輝は下総佐倉(千葉県)へ転封、同じく、松平忠重も上総国佐貫(茨城県、千葉県に近い)へ移封

波多野備前守の子、波多野与兵衛晴通・・・天文22年4月25日、丹波の八上城・・・と有り

天正7年6月1日、丹波八上城、波多野秀治、秀尚兄弟・・・と有り

千葉県在住との事なので、

安房国館山尾形分限帳
三百五十石五斗七升九合 波多野庄左衛門

里見分限帳 
千四百石 波田野庄助

上杉氏、小田原北条氏、里見氏、関東周辺の諸大名等の分限帳などを調べてみてはいかがでしょうか?
小田原衆所領役帳、系図纂要などは確認していません。 御参考まで。


3118.Re: 波多野出雲守五郎義重の嫡男宣時の子孫の系図を探しています
名前:小次郎    日付:2016年5月20日(金) 0時25分
遠祖は丹波波多野と同郡におりました。永正年には細川の内紛に巻き込まれ、波多野と戦い、一族には戦死者も出ております。
細川の内紛が決着してからは互いに緊張しながらも、小領主的大名として生きていたようで、明智の丹波攻めには波多野と共に協力して戦い、そして殆ど時を同じくして(1〜2年の間)落城しています。
こんな経緯がございますので、八上の波多野氏史料は手元にございますが、出身地を相模というのは史料が見つかっていないようです。
京都建仁寺の僧が書いた賛が残っているようで、そこには石見の国出身と書かれているそうです。

尤も、丹波守護が在所した八上の領主ですから、それなりの家系だと思います。

鎌倉幕府幕僚・室町幕府初期の幕僚に波多野氏があります。室町期の波多野が鎌倉期に波多野氏の後胤であろうとは推察できますが、八上波多野との関係を証明する史料は見つかっていなかったと思います。

さて、家系の研究をされておられるとのことですが、お手元の系図の作成時期が江戸期であること。
鎌倉後期から江戸初期まで全く不明であることに、私は大きな疑問を持ちます。

決して伝承を否定する訳ではございませんが、家系の遡及はひとつづつ丁寧に検証して行かねばなりません。

貴方の家が江戸期に何をしておられたのか、何処にお住まいになっていたのか、菩提寺はどこか等々、丁寧にお調べになられたら如何でしょうか。一代でも墓所が判明しなかったら、その家系は遡及出来ないことになります。

江戸初期に作られた系図は同姓の著名人を引くことをよくやりますので、相模の波多野氏出身地と言われている場所に残っておられるだろうと思う家と、代々にわたり交流がないのであれば、その系図には一応疑問符をつけておくことも必要かと思います。

私は伝承してきた系図を検証する為に中世史に入り込み、古文書学もやりました。今ではくずし字もある程度読めます。今は見つからなくても、何年か後に何処かで史料が発見されることもあります。
既に書物として刊行されているかもしれません。それに気づいておられないだけかもしれません。

私が辿り着いた結論は、自分のことは自分で研究するしかないということでした。

どうも愛想のないことを書きますので、お叱りも頂戴しているようですが、拙家遠祖の後胤という偽系図が江戸中期以降に流行ったようで、
未だにそれを基にして子孫だという方がおられ(別姓)、地方の歴史愛好家が発刊しておられるものに文章を投稿したりされますので、今日でも困っております。

新たな史料が発見され、研究が捗りますことをお祈り致します。

3110.片平和泉守綱成と安積伊東氏について 返信  引用 
名前:片平記央    日付:2016年3月17日(木) 5時13分
初めてお尋ねします。二つお尋ねしたい事があります。一つは、私の先祖は、片倉小十郎景綱の家臣片平藤太郎綱安なのですが、ただ片平綱成男とだけあり、母親がわかりません。これが一つで、もう一点お尋ねしたい事は、この片平和泉守綱成は、伊達世臣家譜などによれば、伊東下野守祐氏二男と書かれていて、それ以上遡る事ができず、どのように安積伊東氏に繋がるのかが、わかりません。この二つの事を、どなたかお詳しい方がおられましたら、お教え下さい。よろしくお願いいたします。



3114.Re: 片平和泉守綱成と安積伊東氏について
名前:TW    日付:2016年4月26日(火) 23時19分
片平氏は伊達氏に仕える以前は芦名氏などに属していたようなので? 芦名氏などの文献を調査する価値も有るかもしれません・・・???

A系図
工藤祐経−安積祐長−祐能−祐家−祐宗−祐政−祐朝−祐治−祐信−祐時−氏祐−宗祐−祐里−祐重−伊東重信−重綱(仙台藩士)=重義(養子)=重門(養子)=重定(養子)−重直−祐栄−祐寿−祐喜−祐則−祐英−祐休

B系図
工藤祐経−伊東祐時−祐光−祐宗(1266〜1349)−貞祐−祐持(1336日向国に移住、1348没、弟に祐藤有り)−氏祐−祐安

C系図
工藤祐経−安積祐長−祐政−祐藤−祐高−祐顕−祐氏(伊東下野守祐氏同人か?)−持氏

D系図
伊東下野守祐氏−片平和泉守綱成−綱治−綱行=親綱(養子、大内備前守義綱次男、多々良?)−重綱(大阪の陣(1614〜1615)に参陣)

片倉小十郎景綱(1557〜1615)

上記、諸系図は、典拠もはっきりせず、重複、混同、誤記の可能性が考えられる・・・???

B系図の祐宗、祐持、祐藤(祐持の弟)、虎夜叉丸(祐持の子)、祐熈(祐宗の養子)などが、日向国の伊東氏の惣領の地位の相続争いをしていた時(祐持が亡くなった1348年頃)に、一時的に実質的な惣領は伊東下野守祐氏だったとされるが?、C系図の祐氏とD系図の伊東下野守祐氏が同一人物だとすると、年代的にムリが有るように思われます・・・???

伊東下野守祐氏―――片平和泉守綱成ではなく、伊東下野守祐氏・・・(数代略)・・・片平和泉守綱成の可能性も有るかも知れません・・・??? 

伊東下野守祐氏の生没年、活動時期などを確定し、片平和泉守綱成、片倉小十郎景綱、などの生没年と照合すれば、正否が推測出来ると思います・・・  
展望社の藤原氏系図などは確認していません・・・ 御参考まで。

3096.我家に伝わる書付の行方 返信  引用 
名前:小林隣太郎    日付:2015年12月11日(金) 22時27分

私が1888年に分家に預けた書付の行方が不明なっていましたが分家が所有しているのではないかと思われるのですが分家はさらさら戻す気持ちがないので、その書付を持って自分がこ本家になれると思っているのではないかと感違いをしている。



3102.Re: 我家に伝わる書付の行方
名前:神山    日付:2016年2月3日(水) 17時19分
申し訳ありませんが、字の色が明るすぎて読みにくいです。できれば、もう少し暗い色[例:黒など他の掲示版投稿者に合わせた色]に代えてもらえませんでしょうか。

3092.Re: 姫路藩根岸家について 返信  引用 
名前:伊勢崎市の根岸です。    日付:2015年12月1日(火) 22時15分
ぐんまちゃんさん写真を拝見させて頂きました。
本当に御先祖様の名前があったので、感動しました!!

>なぜここに重兵衛が登場するのか未だに疑問です。
 もしわかりましたら、逆に教えてくださいませ。
この写真から私なりに推察しますと、御先祖様は
東国定元祖と書いてありますので、博徒の元祖??
と言う事でしょうか??
もしかしたら、国定忠治の頃より昔の方かもです。

>代々、根岸重兵衛を名乗っていたとしたら
 忠治は「1810−1851年没」なので、
 忠治が子分を引き連れて元気だった全盛期頃を想定すると、
 今から約170〜180年前の根岸重兵衛になりそうですね。
以前私も国定忠治に関する事をインターネットで調べた時に
当時の住民の名前が記載されていた物がありまして、
1852年の住民に根岸重兵衛、惣次郎、三代蔵とありまして
3人共、名前が家系図に載っていたので
その頃の時代かと推測していました。
因みに、3人共私の直系の御先祖様ではありませんが。
貴重な情報有難う御座いました。

姫路藩根岸家とは関係無い事で使用させて頂き、申し訳御座いません。

3091.(untitled) 返信  引用 
名前:伊勢崎市の根岸です。    日付:2015年12月1日(火) 22時13分
ぐんまちゃんさん写真を拝見させて頂きました。
本当に御先祖様の名前があったので、感動しました!!

>なぜここに重兵衛が登場するのか未だに疑問です。
 もしわかりましたら、逆に教えてくださいませ。
この写真から私なりに推察しますと、御先祖様は
東国定元祖と書いてありますので、博徒の元祖??
と言う事でしょうか??
もしかしたら、国定忠治の頃より昔の方かもです。

>代々、根岸重兵衛を名乗っていたとしたら
 忠治は「1810−1851年没」なので、
 忠治が子分を引き連れて元気だった全盛期頃を想定すると、
 今から約170〜180年前の根岸重兵衛になりそうですね。
以前私も国定忠治に関する事をインターネットで調べた時に
当時の住民の名前が記載されていた物がありまして、
1852年の住民に根岸重兵衛、惣次郎、三代蔵とありまして
3人共、名前が家系図に載っていたので
その頃の時代かと推測していました。
因みに、3人共私の直系の御先祖様ではありませんが。
貴重な情報有難う御座いました。

姫路藩根岸家とは関係無い事で使用させて頂き、申し訳御座いません。

3084.家族という病 返信  引用 
名前:どりとる    日付:2015年11月23日(月) 15時44分
家族という病 下重暁子作 p61に男の中に自分の家族や家柄しか話題にしない鼻持ちならないやつがいる。
いかに他人をバカにしているか自分の家柄を誇示したいのかfが見て取れる。最低だと書いているのを見て
ちょっと前の自分はその物だったなあと、反省している。
しかし 私の場合、45歳になって初めて知った鎮事実に驚いたせいでもあった。

金輪際、興味のない人には話さないようにしようと思う。

3067.源 重廣について 返信  引用 
名前:宮本昌俊    日付:2015年9月21日(月) 9時51分
私の直系のご先祖様です。天正16年の丹波の生まれ。豊太閤の家臣。大坂落城で浪人となり、元和の初め頃に仙台に来たとのこと。そして、宮本正兵衞又は五郎右衛門、のち左平次と称したとのこと。
重廣から上に全く逆上れません。どなたかヘルプお願いします。



3068.Re: 源 重廣について
名前:宮本昌俊    日付:2015年9月21日(月) 10時33分
> 私の直系のご先祖様です。天正16年の丹波の生まれ。豊太閤の家臣。大坂落城で浪人となり、元和の初め頃に仙台に来たとのこと。そして、宮本正兵衞又は五郎右衛門、のち左平治と称したとのこと。
> 重廣から上に全く逆上れません。どなたかヘルプお願いします。


3070.Re: 源 重廣について
名前:小次郎    日付:2015年9月24日(木) 17時1分
今日は 宮本さん

丹波ご出身との事ですので、少しコメントします。

拙家は丹波△△庄、□□庄の地頭出身で、一族からは室町幕府幕僚も出していました。
そんな経緯がございますので、丹波諸地域の主だった豪族のことは一応頭の中に入って
います。

ご質問は「源重廣」の出身地、それ以前の家系についてとのことですが、もう少し何か
手がかりになるものはございませんでしょうか。

抑々、「源」を姓として名乗っている者など、当時の世の中には居りませんでした。
足利尊氏でさえ、源尊氏とは名乗らないのです。
拙家も源氏ですが、○○備前守、○○左衛門尉とか名乗ります。
(公家の日記に拙家の事を「源掃部允」と少々持ち上げて書いて下さっているものもございますが、これは例外です)

私が存じ上げている限りでは、天正の少し前永禄年間頃、丹波で源氏を名乗って、一応の家格を持っていたのは拙家以外にはありませんでした。

他には、多田院御家人は代々源氏の傍流ということになっていますが、彼らの所領は北摂ですので、丹波出身という貴方のご質問の回答とはならないと思います。

尤も、彼らの所領は丹波と国境を接していますので、或いは一部丹波へ入った処にも所領があり、そこのご出身ということでしたら、可能性がないとは言い切れません。

何れにせよ、貴方は直系にご子孫とのことですので、系図や位牌・菩提寺の過去帳・墓石等、どれ一つ欠けても遠祖には繋がらないのですから、それらも含めて、もう一度ご質問戴けませんでしょうか。

1 系図や伝承書・由緒書きのようなものがあるか
2 室町幕府や、当時仕えていた豪族からの感状などの文書かあるか
3 代々の位牌、伝来の過去帳(これは貴方の家の仏壇にあるはずです)があるか
4 菩提寺はどこか、石碑はあるか、菩提寺の過去帳と貴方の家の過去帳と照合出来るか5 仙台で代々何を職業としてこられたのか
6 戸籍謄本は明治初期まで全部所得してあるか
7 その他 ヒントとなりそうなものがあるか


3071.Re: 源 重廣について
名前:小次郎    日付:2015年9月28日(月) 14時53分
今日は 宮本さん

家蔵の豊能町史史料編に多田院御家人の記事があったように記憶して
いましたので少し探してみました。

明治初期のものしか史料にはありませんが、丹波に居住している者は
2名。そのうち1名は拙家の□□庄地頭の後裔で、摂家の一族。
もう一人は○田氏。この2名は京都府下に居住と呼ばれます。
大阪府下は55名、兵庫県下は24名。合計81名でした。

残念乍ら「宮本」さんはございませんでした。

他に亀岡市史にも在地史料が多く採集されていますので、それらも
ざっとですが調べましたが、「宮本」さんのお名前は見つけられませ
んでした。

まあ、在地の庄屋クラスでないと史料には名が残りませんので、そう
悲観することもないのですが、余り期待は出来ないと思います。

兵庫県史、川西市史 川西市史 豊能町史 亀岡市史 福知山市史
綾部市史 夜久野町史 氷上郡誌 など、歴史史料は多くありますので、
あとはご自分で調査して下さい。

良い結果が出ますよう、祈っています。


3083.Re: 源 重廣について
名前:馬原 浩一@管理人    日付:2015年11月14日(土) 18時35分
3078で誹謗中傷にあたる書き込みがありましたので削除しました。
この掲示板はご意見を戦わせることは歓迎しますが、
相手の人格や家柄などを中傷する書き込みを見つけたときは理由を問わず
削除いたしますので、そのような発言はされませんようご注意ください。
これからも皆さんで楽しく家系について書き込みいたしましょう。


3085.Re: 源 重廣について
名前:通りすがり    日付:2015年11月25日(水) 1時49分
小次郎さんという人、アク禁にしたほうが掲示板も健全化して盛り上がると第三者から見ても思いますが。。。
中途半端な家系を鼻にかけてつまらない蘊蓄ばかり。家系に興味を持つ人の大半は純粋な興味だと思いますが、こういう人がいると雰囲気が悪くなるし、先祖に興味を持つこと自体が実に卑小な、低劣なことのように感じられてしまいます。

3066.読み方について 返信  引用 
名前:瀬下    日付:2015年9月17日(木) 13時50分
私の姓は瀬下ですが、せしたと読みます。元々瀬下姓は群馬県甘楽郡瀬下村が発祥と聞いていろいろと調べておりますが、せしも、せのしもなどの読み方が多くせしたと読むところはあまりありません。埼玉の寄居というところにせしたと読む瀬下姓があると聞きました。私の先祖で戸籍で確認できる最古の先祖が文化年間西暦1800年代で、九州、鹿児島市の北西部に位置する現薩摩川内市東郷町というところです。その地域の瀬下姓は多くはなく我が親戚のみです。せしたと発音する発祥をご存じある方はいらっしゃらないでしょうか?


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