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家系研究協議会掲示板

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2561.兵部少輔雅明 返信  引用 
名前:神山    日付:2013年6月30日(日) 11時29分
平家壇浦戦で源氏捕虜になった人の一人で兵部少輔雅明の正体を御存知の方は御教授をお願いします。

姓が分かればありがたい。



2603.Re: 兵部少輔雅明
名前:馬原 浩一@管理人    日付:2013年9月15日(日) 13時1分
神山さん、こんにちは。

平家物語では兵部少輔雅明とか正明とか書かれていますが、実際の名前は藤原尹明が正解のようです。
Wikipedeiaにも書かれていますので、ご参照ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%B0%B9%E6%98%8E

壇ノ浦の後、平家物語には隠岐に流されたように書かれていますが、吾妻鏡には5年後に出雲から帰洛したと書かれているので、平家物語の記述は少し間違っているのかもしれないので、一語一句信じるのは問題かもしれませんね。


2631.Re: 兵部少輔雅明
名前:神山    日付:2013年10月30日(水) 15時34分
そうですか。
平忠盛の子に兵部少輔正明というのが系図に載っていたのでその人を指すとか思っていました。

違うのですかね。役職と時代も忠盛の子なら清盛の弟ということになり、合うと思ったのですが、人違いですか。

それとも多少時代のずれる別人ですか。

まあ系図には配流までの記事はないので単純あてはめはまずいのですかね。まさか養子にして姓を変えたということもないかね。

2555.埼玉県比企地方の市川氏について 返信  引用 
名前:市川(滑川町)    日付:2013年6月13日(木) 21時40分
以前、埼玉県の市川氏について投稿させて戴いた者です。
比企郡の小川町に旧家の市川氏が存在すると申し上げましたが、小川町教育委員会によりますと、現存する市川氏の集落地から有力農民のものと思われる古い居館跡が出土し、遺物は1500年代後半から1600年前半のものが中心であると判明しているそうです。さらに、一部からは12世紀後半の遺構や出土物があるとのことで、非常に興味深く思います。小川町にこうした遺構は例がなく、現地に中世から存続する一族は市川氏しかありませんので、この居館が小川町市川氏のものである可能性は高いと思います。
居館廃絶時期を考えると松山城廃城と無関係ではないでしょうし、それより数百年遡って大蔵合戦の頃既に存在していたならば、小川町の市川氏と都幾川の市川氏との関係に手がかりを与えるものであり、松山城落城後帰農したと思われる嵐山や滑川の市川氏とのつながりにも示唆を与えるように思います。



2559.Re: 埼玉県比企地方の市川氏について
名前:市川@武州荒木    日付:2013年6月28日(金) 20時16分
家協研の皆様、既に馬原様には、連絡させて頂き、ご承諾いただいたのですが、高齢の母の急病に伴う介護と、今夏は仕事に全力で集中しなければならない状況となってしまったため、東京例会における講演を辞退させて頂きましたこと、御報告申し上げます。



市川(滑川町)様

今も変わらずに、地道に自家系のご研究を進められておられること、大変喜ばしく存じます。

小川町の市川氏のものと思われる居館遺跡が松山城落城の時期まで遡り、一部は大蔵合戦あたりまで遡る古いものであるとのこと、文献のみならず、考古史料からの方面からの研究をもなされておられるのは、正に慧眼であると存じます。

単純な推測をすれば、源義賢に味方した市川氏は、最初、大蔵合戦までは、小川町に居館を構え、大蔵合戦後、都幾川に遷住したという可能性もあると思います。後の時代、中世の都幾川市川家からの分家筋が、小川町に居住したという可能性もあるやに思いました。

少なくとも、大蔵合戦辺りまで、比企郡の市川氏の居住が確認出来るとなれば、少なくとも、比企郡の市川氏は、松山城主上田氏とともに多摩郡から遷住した一族ではなく、萩日吉神社等の伝承の様に、平安時代からの比企郡の豪族であったことになりますね。そうなると、やはり甲斐の市川氏に繋がる可能性が高い一族であり、曽我物語に記述のある、鎌倉時代における甲斐市川氏の勢力範囲として挙げられる「坂東」が、やはり武蔵国比企郡である可能性を高めるものになると思いました。


今後とも、ご研究の御成果をご教示頂ければ幸甚です。


2566.Re: 埼玉県比企地方の市川氏について
名前:市川@武州荒木(神奈川県在住)    日付:2013年7月15日(月) 16時36分
武蔵国比企郡市川氏に関する史料を以下に纏めてみます。

1、萩神社山王宮伝来書記「舒明天皇御宇、正二位上曽我伊奈免大臣・舒明帝三十代の臣也。大臣は三芳野里に奉建立す。伊藤・市川の両家伊奈免の諸臣にて依之両家奉守者也」

この本文中の舒明は欽明の誤りですが、萩日吉神社の社伝では、比企郡の市川氏の先祖は、蘇我氏の家臣であったという伝承を伝えております。

2、同じく萩日吉神社の古文書・木曽家引略記

「源義仲妾桜木局之腹生所木曽義次郎三歳之時、父義仲江州粟津之戦場亡命給(中略)然則義次郎母諸共馬場文吾召連木曽落居干栗本村其後文治三年丁未八月有二日桜木局病死依之義次郎成孤十三歳之時改苗氏号馬場文治郎義綱也(中略)従是以前武州比企郡慈光山内敗卒小林軍平勝義、市川兵蔵森光、伊藤喜八郎清春、横川金右ヱ門直時、萩久保源助豊広、加藤甚内忠親等之六騎籠居之由伝之間馬場文治郎義綱使之同郡明覚落留也」

この木曽家引略記は文禄元年四月の成立。文中、鎌倉時代初期の比企郡の市川氏として“市川兵蔵森光”を挙げています。光字の諱からすれば、甲斐市川氏の内、方原次郎師光の子供の市川別当大夫高光系統の市川氏との関係を想定出来ますし、明覚市川氏の霊會日鑑には、同家の系図の市川新十郎諸義を諸光とも記録しておりますので、森光(もりみつ)と諸光(もろみつ)は諱の読みが近似しますので、明覚市川氏の系図の市川諸義の初名は諸光(木曽家引略記では市川兵蔵森光)であった可能性が高いと思います。



3、明覚市川氏の系図及び霊會日鑑

系図では、新羅三郎源義光の子供の覺義の名乗りを市川十郎文殊院別当、或いは市川別当文殊院阿闍梨民部卿とし、霊會日鑑では民部卿覺義・市川別当民部卿覺義としておりますが、園城寺文書では、覺義は源義光の長男であり、民部卿ではなく、花林房・刑部禅師または刑部卿阿闍梨と称したとあり、真野信治氏という方がネット上に公開した系図によりますと、覺義の子供に市川太郎別当文殊院律師民部卿頼圓と名乗りや事績は不明ながら頼儀という二人の子供と新十郎覺光を挙げますので、明覚市川氏の初代の“民部卿”は覺義ではなく頼圓であろうと推測されます。つまり、明覚の市川氏の出自が覺義系統の市川氏であった場合は「源義光―覺義―頼圓―倶義―諸義(初名ハ諸光カ、木曽家引略記ノ市川兵蔵森光ト同人ナラン)」の系譜が想定されます。

4、慈光寺縁起抄(慈光寺百四世岡見瞬雅撰、成立は明治四十四年)「元来三津氏に七士及び獨りの侍士あり、最澄師享年二十歳の御時当山へ登れるとき比枝の山王の分殿を守護せしめ師にこ従して当国に下降せしむ謂ゆる七士の名は、市川憲嗣・横川澄世・小林恒住・伊藤 守・加藤守昌・馬場幸宅・荻窪利久と呼び侍士は坂本藤苗と称す実に延暦五年寅正月十六日なりき」同書では、鎌倉時代初期の七騎については、木曽家引略記を引用している。


2571.Re: 埼玉県比企地方の市川氏について
名前:市川@武州荒木(横浜在住)    日付:2013年7月31日(水) 18時17分
以上は、明覚郷の市川家に関するものですが、小川町は、古来より和紙の生産でも有名ですが、市川三郷町の郷土史研究家の中倉茂先生の玉稿によりますと、小川町の歴史研究家の方が市川三郷町を訪れたおり、小川町の和紙の生産技術は甲斐の市川から伝わったと仰ったそうです。となると、小川町の和紙の技術は、源義光の子供の覺義系または義清系(方原師光系・曽根厳尊系・奈古義行系の市川氏など)の市川氏を通じて、現在の小川町域に甲斐国市川庄の和紙の生産技術が伝わった可能性も高そうです。

このことから推測しますと、平安末期頃の市川氏の居館跡と見られる遺跡が小川町にあるとなると、甲斐の市川氏は、平安末期には、比企郡の小川町域で活動を開始していたことになり、小川町の市川氏に関しては、覺義系の市川氏のみならず、義清系の市川氏を出自とする可能性も視野に入れた方が良いかもしれません。明覚郷の市川氏は、源義賢に与力したため、大蔵館の合戦の敗戦により、小川町の居館からの撤退を余儀なくされ、明覚郷に蟄居した一族とも見られます。


甲斐の市川と小川町の関係から推測すると、萩日吉神社の社伝の市川家は蘇我稲目の家臣の末裔との伝承は、以前の投稿で記したように、やはり甲斐市川上野の表門神社の神主家の古代の家系伝承を反映している可能性もあると推察している次第です。


3054.Re: 埼玉県比企地方の市川氏について
名前:市川@奈良広陵町経由大阪在住    日付:2015年6月21日(日) 5時10分
はじめまして。埼玉に市川氏がたくさんあるのには驚きました!山梨の方くらいしか多い地域はないと聞きましたので。

私は大阪育ちですが、市川家の先代が奈良の広陵町(昔の百済村)にいたそうです。これは埼玉の市川氏と何ら関わりはあるのか気になるところですが、先日地元を訪れたときに家系を知るための情報は得られませんでした。


3098.Re: 埼玉県比企地方の市川氏について
名前:市川@武州荒木(横浜在住)    日付:2016年1月7日(木) 20時48分
市川@奈良広陵町経由大阪在住様

仕事やプライベートが忙しく、長らく此方のホームページをチェックしてなかったので、失礼ながら市川様の投稿を見落としてしまい、失礼しました。

奈良県の市川家の方ですか、当方は、ハンドルネームからも分かる通り、埼玉県行田市大字荒木字元宿の出身で、父の代から横浜市に在住しております。

埼玉県の市川家については、上記の通り、比企郡に古い市川一族があり、室町初期に上州(群馬県)の市川氏の一部が、秩父半沢(榛沢)郡に土着しているので、北武蔵の市川家は、この系統だと思います。山梨の市川家も、一昨年、鎌倉幕府に属した市川別当源行房の正嫡である、市川三郷町の表門神社の宮司家を訪ねさせて頂き、系図を拝見させて頂き、行房系統の市川家の歴史は分かりました。

関西方面の市川家については、勉強不足で存じ上げないので、是非ご教示ください。

2554.(untitled) 返信  引用 
名前:小次郎    日付:2013年6月12日(水) 11時30分
今日は皆さん、最近私のコメントばかりになってしまい、心苦しく思っております。

この1年以上馬原さん(管理人)のコメントがありませんので、ご健康が如何なもの
かと心配しております。

さて、またご質問が来ているようですので、幾つかアドバイスをさせて頂きたく思い
ますが、この掲示板の管理について少々心配なこともありますので、私が使っている
サーバーに掲示板システムを組み込みました。
まだシステムのチューンアップが十分ではありませんが、動いてはおりますので、
ご質問下されば結構です。

http://nakasawa.net/bbs/joyful.cgi

なお、馬原さんのご健康が回復し、掲示板へのコメントが再開されましたら、私の
ほうは閉鎖致しますので、ご了解の上でご利用下さい。

2553.愛媛の氏族について 返信  引用 
名前:うめ    日付:2013年6月12日(水) 0時48分
母方の祖母(北海道生まれ)の実家について調べているのですが、さっぱり手がかりがなく困っております。藤枝という苗字の士族で、明治になり北海道に入植するまで愛媛に居り、愛媛の家屋敷は周囲から何故か「近江屋敷」と呼ばれていたそうです。愛媛の何藩かもわかりません。祖母は母の若い頃に亡くなり、親族も離れ離れになり行方もわかりません。
どなたか何かご存知でしたらお教えください。



2965.Re: 愛媛の氏族について
名前:TW    日付:2015年1月8日(木) 17時1分
屯田兵名簿
氏名 藤枝幸次郎
兵村 北湧別
兵屋番号 220
原籍 愛媛県宇摩郡
入植年月 明治31年9月
識別番号 6815

宇摩郡(うまぐん)は、伊予国・愛媛県にあった郡。
柏村の庄屋藤枝家の当主が書き継いだ「藤枝雑記」(川之江市立図書館蔵)有り。
柏村=愛媛県四国中央市上柏町、下柏町
藤枝家文書【伊予三島市】市指定有形文化財[古文書](昭和37年4月1日指定)
三島陣屋跡【伊予三島市中央】今治藩三島陣屋跡であることを示す石碑が建っている。

藤枝姓は愛媛県四国中央市、新居浜市、大洲市などに数軒程度。

名主(庄屋)の藤枝氏が存在するので、今治藩士ではなく、以前は武士だったが戦国期以前に、合戦に負けて落ち延びてきて土着、主家が滅び、親類縁者などを頼り移住などをしたと考える方が妥当だと思います。
全国の名主(庄屋)などの家系の大半は元は武士で、戦国期以前などに土着した家がほとんどです。
ただし、一族の中に今治藩士になった者が居た可能性は多少は有るとおもいますが・・・?
御参考まで。 2015.1.8

2552.皆藤氏の由来について 返信  引用 
名前:皆藤    日付:2013年6月11日(火) 23時42分
いつも参考にさせていただいております。
表題の皆藤氏について、由来などご存知の方がおられましたら、
ご教示ください。
一説には、二階堂氏の末との伝承もありますが判然としません。
よろしくお願いします。

2550.新潟小須戸の木伏姓 返信  引用 
名前:駿河木伏    日付:2013年5月30日(木) 21時1分
以前に駿河の木伏姓について質問いたしました
岩代の木伏の流れという御示唆をいただき
昨夏実地調査いたしました
木伏という地名に惹かれて南会津町まで行きましたが
直接の関係がないようです
会津美里町に木伏姓があることまでは突き止めましたが
それはまたの調査にしたいと思います
さて表題の新潟小須戸の木伏姓ですが
むしろこちらのほうが直接関係がありそうです
ですので
この新潟小須戸の木伏姓についてご存知の方がありましたらご教示願います
ちなみに永禄年間には庵原郡松野に住み着いていて
今川氏関連の文献にも松野五人衆として出てきます
家紋は四ツ目菱です
菩提寺が火災で過去帳を亡くしています
http://news.ap.teacup.com/gosenzosama/?guid=on



2557.Re: 新潟小須戸の木伏姓
名前:駿河木伏    日付:2013年6月22日(土) 14時28分
11月にお返事いただいたTWさん
ありがとうございました
こちらを見ていなくて大変お礼が遅れました
また地道に調査してみます
参考になるコメントありがとうございました

2548.(untitled) 返信  引用 
名前:どりとる    日付:2013年5月23日(木) 8時24分
下記の様に我が家の先祖をたどっていった時に、白石鍋島の家臣で深堀家に興味が出て追跡調査しています。恕助 28石が嘉永年間の着到帳にのっています。佐賀県立図書館所蔵の藩に提出された深堀家系図を調べると その中に、嫡男でないものが 新しく25石を山城守(白石鍋島)より頂いた と書いているのを見つけました。
禄高が近いことを考えると、この人物が恕助の前の世代の人物だと思うのですがどうでしょうか。
この系図を見ると、ネットで出てくる三浦氏深堀の系図と全く同じで
善時のあと直時から続く家のようです。
恕助の長男豹蔵はの妻は 須古鍋島家の分家 須古宮内家の二女とあり
(佐賀県白石町教育委員会が保存している資料にもそのことが記載されていました)禄高の割には、家系がいいようにありますから、私の推理は正しいでしょうか?明治になって佐賀の乱ののち転居していて、それまでの墓所がどこだかわからないので、系図の中にあるお寺を散策して、墓を探し出すことができれば と思っています。

何か御教示いただけるとうれしいです。メールお待ちしています。



2549.Re: (untitled)
名前:どりとる    日付:2013年5月28日(火) 6時16分
長崎喧嘩騒動の深堀家の子孫の方と話しましたが
佐賀の深堀家との関係はわかりませんでした

2547.西伯の豪族、紀成盛の家紋・旗印について 返信  引用 
名前:海六    日付:2013年5月13日(月) 12時45分
鳥取県の大山寺に家祖の紀成盛と代々の先祖供養に行ってきました。
成盛は紀長谷雄の後裔で、平安時代末期から鎌倉時代にかけ西伯で一大勢力を持っていたということでした。
治承寿永の乱で源氏方につき、なぜか戦に敗れ一族が九州へ落ちたといいます。
そこでですが、成盛には家紋・旗印はあったのでしょうか?
私達には伝わっておりません。
私なりに書籍等で調べてみましたが、わかりませんでした。
多くの家紋は保元・平治の乱以降の公家や一部の武家が使用し始めたと知りましたが、その頃なので家紋は無く、源氏の白旗を掲げて戦っていたのでしょうか?
「木瓜紋」が紀氏の代表家紋と知りましたが、成盛もそれを使っていたのでしょうか?詳しい方、ご存知の方お教えくださいませんか?お願いします。



2551.Re: 西伯の豪族、紀成盛の家紋・旗印について
名前:小次郎    日付:2013年6月11日(火) 20時49分
源平合戦時に旗指しが家紋の旗を持っていたかどうか、何度も平家物語を読んでいます
が、記憶にありません。もう一度読めば良いんでしょうが、手間ですのでこれはご自分
でなさって下さい。源平合戦絵図を見られたら何処かにヒントがあるかもしれません。
ただ、この絵巻は後年になって描かれたことは間違いありませんので、確実な証拠とは
なりえません。吾妻鏡の建久元年 頼朝上洛の行列を見ても、旗のことは書かれていま
せんね。(この先陣に中に私の遠祖がおります)

私は先祖を同じくするのではありませんか・・・・と尋ねて来られる、受身の立ち場に
おります。

一族が本領とした場所の近郊には同姓の方が多くおられます。しかし、室町時代後期、
織豊時代に城郭が落城後、一族で生き残った家系はわずかしかありません。そして近郊
に逃げ伸びた一族も遠祖を同じくする一族だとの意識はございました。江戸期には別の
藩になりますので、交流は途絶えがちでしたが、確りと意識しておりました。従って、
同姓の方が尋ねて来られましても、それらの家系と結びつかない方については全く判ら
ないというのが、正直な処です。一族の方が尋ねて来られたとは思いません。

家紋が伝わっていないというのは理解出来ません。紀成盛が遠祖だとの確証は何かお持
ちなのでしょうか。この処をもう少し詳しくご説明頂けませんでしょうか。


2936.Re: 西伯の豪族、紀成盛の家紋・旗印について
名前:平井(鳥取県出身)    日付:2014年7月7日(月) 18時59分
紀成盛の子孫は、伯耆国の南条氏に仕えています。
平安末期に小鴨氏(平家方)との合戦(ツカホミ山)に敗れた後、
相見(あいみ)と進氏に別れ伯耆国人(伯耆衆)として、両志とも
紀海六成盛を始祖としているようです。
戦国末期まで栄て毛利氏の旗下となり、伯耆国より去ったと地史で見た
記憶があります、鳥取県伯耆町の地史を確認されれば紋が解るかもしれ
ません。

2546.人物調査 返信  引用 
名前:神山    日付:2013年4月6日(土) 12時11分
明治の系図学者と思うのですが、明治31年頃の人で松平次郎・小澤隆八という人物を御存知の人はご教授をお願いします。

2542.祖父伊藤榮履歴 返信  引用 
名前:伊藤榮嫡孫    日付:2013年2月28日(木) 22時17分
神戸地方裁判所書記正八位勲八等兵庫縣士族伊藤善太玄孫

大正十五年一月十日、寺前尋常高等小学校准訓導となる。

昭和五年三月三十一日、同校訓導に補任。

昭和七年三月三十一日、飾磨城陽尋常高等小学校に赴任。

昭和九年、飾磨尋常高等小学校に改称。

昭和十五年、飾磨尋常小学校に改称。

昭和十六年、国民学校に改称。

昭和二十二年、学校教育法施行、姫路市立飾磨小学校に改称。

昭和三十二年四月一日、砥堀小学校に赴任。

昭和三十三年四月一日、同校において教頭職を拝命。

昭和三十五年四月一日、船津小学校に教頭として赴任。

昭和四十一年四月一日、教職員在職勤続四十二年間、姫路市立船津小学校教頭職を以って退官。

本籍姫路市北条口

2540.松平頼譲 返信  引用 
名前:ユウチャン    日付:2013年2月12日(火) 12時44分
水戸藩家老松平頼譲について教えてください

2535.(untitled) 返信  引用 
名前:どりとる    日付:2013年2月1日(金) 6時15分
以前から白石鍋島についてお聞きしているものです。私のご先祖のひとりであります、石丸家ですが、最近新たな資料を手にしました。祖父の書置きに、この石丸家は竜造寺家臣と書いています。白石鍋島の墓所佐賀市の本行寺は14代で廃嫡になった竜造寺胤家の墓所として創建された寺です。その子孫は改姓され藤井、倉富など名のっていますが石丸もその一家だそうです。私の先祖の石丸もこの家につながるだろうと推測しましたが分かりませんでした。明治政府で活躍したの石丸安世は養子でつながっていますがこの家の家督を継いでいます。
新たな資料とは、私の先祖が、竜造寺隆信とともに沖田畷の戦いで戦死した者の名簿の中に、石丸彌次郎の名があり、その子孫に、戸籍と祖父の書置きで確認した石丸力太郎の名がその資料に書かれていて、石丸彌次郎が確認できる一番古い時代の人物でした。
胤家廃嫡 数代あとの当主が隆信ですが、胤家の子孫は家臣という立場になるんでしょうか。私の先祖もその胤家の御末だと記載されている本行寺の石丸と本を同じとするんでしょうか?



2536.Re: (untitled)
名前:小次郎    日付:2013年2月1日(金) 22時57分
こんばんは どりとるさん
何か急に私の書き込みだらけになってしまいますが、皆様ご勘弁下さい。

所要がありますので、3月18日〜21日まで佐賀へ行きます。
龍造寺家のことは全く存じませんが、家系の繋がりということについては、
40年ほど研究しましたので、幾分か知識はございます。
佐賀に在住されているようでしたら、駅前のサガシティーホテルへ来られませんか。
ここでは本名をかけませんので、奈良県からこられる方で、3泊される方に
と封筒にメッセージを託けて下されば、連絡つくと思います。
お役に立てれば幸いです。


2537.Re: (untitled)
名前:どりとる    日付:2013年2月6日(水) 20時36分
ありがとうございます。
佐賀ではないのです。北九州です。メールアドレス載せました。


2538.Re: (untitled)
名前:どりとる    日付:2013年2月7日(木) 6時17分
本行寺は竜造寺胤家のために建立されたのは間違いなく、白石鍋島の墓所となった理由は、養父で名将成富兵茂安が本行寺に埋葬されていたからです。直弘公の希望だそうです。
それで鍋島家の墓所 高伝寺ではないのです。

葉隠れに直弘公側付き 石丸安之あと石丸采女が殉死禁止令にしたがうように進言した・・とあります。
白石鍋島家の着到帳で幕末、私の先祖 石丸弥六(妻は白石鍋島家の娘) 95石 石丸喜左衛門60石で もう一人8石の石丸左八というものがいます。

佐賀本藩の藩士の中で、本行寺に墓のある、石丸備後守六兵衛の系図には、住職も言うように、竜造寺胤家の子孫と書いています。
大代名に安の字がつき、安之というものが系図にいますが、葉隠れにある安之とは ひと世代違うようです。

こういう風に関係がありそうで、なさそうですが 側付きというか家禄からすると、白石の分家筋 成富家に次いで4番目ですから、何かしらの家だとは思うのです。


2541.Re: (untitled)
名前:神山    日付:2013年2月27日(水) 22時40分
http://www.kakeiken.com/index.html
というホームページに行ってみてはいかがでしょう。
役に立つか責任は持てませんがね。

「肥前の龍と遠山桜」という本にこの問題を解くヒントがあるかもしれませんが、見当違いならごめんなさいね。

2531.市川香舟先生 返信  引用 
名前:溝口美沙子    日付:2013年1月23日(水) 20時25分
私の妹、石川早智子が市川先生の織田信長・家系と家族の謎を拝見し、是非とも市川先生にお目にかかりたい、お電話ででもお声をお聞きしたいと夢中でございますと申しますのも本人は中根家の家系図に夢中になり桓武天皇につながるところまでたどり付きました、色々の参考資料を調べておりましたところ、全く市川先生の仰られます様な疑問にぶつかり頭を抱えていたところで御座います、およろしければお電話番号をお聞かせいただけますれば幸いに存じます、石川早智子ので電話は03.3336.6912でございます。 もしもお電話番号をお教え頂けましたらこちらから掛けさせて頂きたいと存じます。突然大変失礼を致しました、何卒宜しくお願い申し上げます。石川早智子の姉溝口美沙子



2532.Re: 市川香舟先生
名前:市川@武州荒木    日付:2013年1月25日(金) 23時11分
溝口様

申し上げるのは、大変心苦しいのですが、市川香舟(実名、長谷川順音)先生は、西暦2009年1月13日に、八十歳を一期とされて、御逝去なされました。

妹様におかれては、このことをお知らせすると、さぞ大変がっかりなされることと存じますが、お伝えいただければ幸いです。

妹様は、家の歴史を含めた日本の歴史に大変興味をお持ちの様ですので、さらなる御精進のほど、お願い申し上げます。


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