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家系研究協議会掲示板

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2530.(untitled) 返信  引用 
名前:甲斐菊陽    日付:2013年1月23日(水) 12時53分
TW様ご回答ありがとうございます。甲斐氏は菊池本家同様、戦国期以降は急速に衰退して、延岡藩時代は全く歴史に登場しません。幕末に勤王家として、肥後の甲斐到敬や西米良の甲斐右膳甲斐大蔵父子、神風連の甲斐武雄らがかろうじて名を残すくらいです。やはり、帯刀尉としての使用例は見当たりませんよね。これについては帰省時に詳しく親族に聞き回りたいと思います。石工の事情という可能性もありますよね。わかり次第、ご報告させていただきます。ありがとうございました。

2529.先祖について 返信  引用 
名前:小宮    日付:2013年1月20日(日) 21時59分
はじめまして。
お忙しいところ失礼いたします。
私の名字は小宮です。
家紋は下がり藤なのですが、これだけで先祖は誰か特定できますでしょうか?
本家には家系図があるようなのですが、行く機会もないので詳しい方にお聞きしたいと思いお邪魔しました。



2533.Re: 先祖について
名前:小次郎    日付:2013年1月30日(水) 22時45分
こんばんは 小宮さん これだけではどうにもなりませんね。
ご本家へ行く機会がないとのことですが、それを飛ばしてどうしますか。(笑)

私の従兄弟達また姉妹達も、遠祖の遠忌(50年毎の追善法要)をすると連絡しても、
生きている人間にお金を使いたいといって、鐚一文送ってきません。
そうなりますと、もうこの一族とは言えないんです。

遠祖を同じくすること、即ち何代前のご先祖であっても、50年に一度なんですから、
血の繋がっている子孫で集まって、追善法要を営み交流することが大切です。

そこを飛ばしてしまうと、ご本家へ聞きに行ってもちゃんと答えては頂けないと
思いますよ。

縁が切れてしまっているなら、せめてその間ご先祖を守って頂いてきたご本家の
仏壇に、それなりの金額のお供えを持って行かれたら如何ですか。

菩提寺の修理費・住職の晋山式(しんざんしき)、春秋彼岸会・盆の施餓鬼法要など、
ご本家だけに負担をさせておいて、良い所だけ教えて欲しい・・・・とはチト虫が
良すぎると思いませんか。

まずはご本家へ無沙汰の挨拶をすることが最初でしょう。それから考えましょうね。

2525.『帯刀尉』について 返信  引用 
名前:二郎右衛門尉    日付:2013年1月16日(水) 14時50分
甲斐菊陽様お答えになるか解りませんが多分「尉」についてお調べと存じます。
「 尉 」について
■軍隊における尉官の階級のこと、大尉・中尉・少尉の三階級がある。
■中国の王朝における官職。〜校尉などという。
■日本の律令制下における官職。五衛府(えふ)の判官で従六位相当。
 例:遠山左衛門尉景元、次郎右衛門尉とか
■朝鮮王朝における国王の婿の爵号。
 時代小説 上田秀人著 「将軍見聞役 元八郎」(五)より抜粋した 部分から其の五摂家の家司ともなると数も多い禄はそこそこ十石〜三 十石程度でも官位は守(かみ)までいかずとも、介(すけ)や尉(じ ょう)と従六位相当にあたる高い地位をもつ、二条家の家司は本庄家 は従六位で織田信長も長く上總介であったことからもわかるが、かな りのものである。  



2527.Re: 『帯刀尉』について
名前:甲斐菊陽    日付:2013年1月19日(土) 18時20分
二郎右衛門尉様、ご回答ありがとうございます。
『尉』の意味自体は辞書で見てはいたのですが、地位までは存じませんでした。
どうもありがとうございました。
私なりにも、よく高千穂や領主の三田井家などの資料を調べてみます。
何か分かりましたら再度投稿させていただきます。

2524.『帯刀尉』について。 返信  引用 
名前:甲斐菊陽    日付:2013年1月15日(火) 19時31分
初めて投稿させて頂きます。礼を欠く部分もあると思いますが、どうかご容赦いただきますようお願いします。
私の祖先は宮崎県西臼杵郡日之影に住む甲斐姓で、紋は丸に違い鷹の羽です。
ここから本題です、古い墓石に『甲斐帯刀尉』と刻んであるため、読み方や役職など調べようとしたのですが、小松帯刀のように『帯刀』はあっても『帯刀尉』というのは出てきません。私個人の解釈としては頼母や一学のような擬似官名のひとつではないかと思っていますが、他の『帯刀尉』の使用例を知らないため、もやもやしています。
諸先輩方でお詳しい方がいましたら、どうかご教授いただけますようよろしくお願いします。



2528.Re: 『帯刀尉』について。
名前:TW    日付:2013年1月20日(日) 0時40分
本来は、「帯刀左衛門尉」、「帯刀兵衛尉」などの略称、通称などから来ていると思われますが、代々、「帯刀尉」を称していた場合なども有ったかもしれません・・・?
単なる通称などで・・・

墓石の銘を刻むスペースの問題や石工の手間の関係などから、省略した可能性も有るかもしれません・・・?
古文書や古い墓石銘などの誤記、誤字、脱字なども多々あります・・・

既に御存知だと思われますが、肥後国住人の藤原姓菊池氏流甲斐氏の流れのようですね・・・?
延岡藩領の郷士で酒造業の甲斐家などが有ります。 御参考まで。


2534.Re: 『帯刀尉』について。
名前:小次郎    日付:2013年1月30日(水) 23時29分
帯刀尉との記述は初めてお聞きしました。当家の遠祖に帯刀左衛門尉を名乗っていた
者がおります。彼に関する歴史史料は結構沢山残っており、帯(刀)左衛門尉と書き
誤っているのもあります。
手紙の中での誤りは考えられますが、墓石となりますとやはり首を傾げざるを得ませ
んね。

室町時代後期ですが、当家の同族の某氏は左近助に任ぜられておりました。
左近衛府の武官ですと左近将監になるはずですが、何故か左近助でした。
こんな官職はありません。でも、ちゃんと朝廷から任命されていまして、
文書も現存しています。

時代と共に朝廷も適当な官職を濫造したような気もしますので、帯刀尉も
無いとは言い切れません。
恐らく帯刀左衛門尉のことだと思います。墓石が小さければ書ききれないで
省略したとも考えられますが、まあ、戦国期になりますと地方の領主が在地
の土豪に適当な官職を勝手に与えたことも多々ありますので、其の辺に答えが
あるのかなと思います。

帯刀(たちはき)左衛門尉は元々院御所の北面の武士の官職ですから、普通の左衛門尉
よりは幾分か値打ちがあったのでしょうね。

従六位の官職であるあことには違いありません。


2934.Re: 『帯刀尉』について。
名前:柿駄馬男    日付:2014年7月6日(日) 21時35分
天文年間に、二上神社の西宮の宮司職で原城主の甲斐重次は帯刀亮だったようですね。
墓石の文字は、誤字、脱字、が多いと思います。私も小次郎さんと同じ意見です。
地方なので、官位というより官途なのでしょうが。
http://dabaolife.blog89.fc2.com/

2519.旗本曽根五郎右衛門について 返信  引用 
名前:TS    日付:2012年12月25日(火) 16時7分
市川@武州荒木(横浜在住) 様宜敷御教示下さい。
いつも拝見し参考にさせて戴いております有難う御座います。
甲斐源氏武田支流 「曽根五郎右衛門」の姓名が除籍謄本に記載が
ある場合は、寛政重修諸家譜第百六十七 清和源氏 義光流武田支流
曽根 之次―金次(五郎右衛門)―直次(五郎右衛門)―演次(五郎右衛門)―次欨つぐよし(五郎右衛門)―女子、次浴iつぐしげ)、知次、女子→の系統で考えて宜しいのでしょうか?



2521.Re: 旗本曽根五郎右衛門について
名前:小次郎    日付:2012年12月28日(金) 12時31分
後で市川さんからコメントがあるでしょうが、少しアドバイスをさせて頂きます。

・系図・遠祖代々の墓石・菩提寺の過去帳はお調べになりましたか?
・ご分家にあたるのでしたら、ご本家にお尋ねになりましたか?
・遠祖代々の遠忌(50年ごとの供養)をご一族でされてきましたか?
・旗本ですと江戸から駿府へ移住された方もおられます。明治期のご住所は何処でしたか?

いくら立派な系図が伝承されていようとも、代々の遠祖が葬られている
墓所が不明では全く信用おけません。
まずは墓所のことをちゃんとする事から始められたら如何でしょうか。

尚、武田支流曽根氏は大和郡山藩 柳澤家の重臣にもおられます。


2522.Re: 旗本曽根五郎右衛門について
名前:市川@武州荒木    日付:2013年1月1日(火) 9時49分
年末の忙しさにかまけて、返信が遅くなり、申し訳ございませんでした。

さて、お尋ねの件ですが、残念ですが、ご投稿の文面だけでは何とも言えません。

家系調査も、あくまで学術的に、実証主義に基づいてしなければなりません。小次郎様の仰せの通り、除籍謄本を取得したら、その先は、御先祖様の位牌・墓石の記録と菩提寺の過去帳との照合、まあ、お寺によっては災害などで過去帳が失われている場合もありますが、これで、スムーズに行けば、江戸時代の1600年代迄は遡れる筈です。

この辺は、当会の理事であった故・長谷川順音氏が市川香舟のペンネームで書かれた著作に家系調査のコツを書き遺されております。県・市クラスの中央図書館にあると思いますので、ご一読ください。

実地調査をしてみて、家伝系譜の通りでしたら、大変よろこばしいことですし、いわゆる偽系図や初期の部分が不正確な系図であっても、成立の背景や、郷土史料を含め周辺史料の調査により、真系が分かる場合がありますので、ぜひ、市川香舟氏の著作を参考にされて、改めて実地調査に挑戦なさってみてください。


2539.Re: 旗本曽根五郎右衛門について
名前:市川@武州荒木    日付:2013年2月7日(木) 11時9分
先日のコメントだけでは、みもふたもないので、追記いたします。

甲斐源氏流の曽根氏は、逸見冠者清光の子供の一人である曽根九郎禅師厳尊が祖ですが、曽根厳尊の事績は八代家系譜によりますと「居八代郡曽根村、奉仕高倉宮、治承四年五月宇治合戦討死」とあります。子供は、青木家譜系図・新羅義光末裔之系によりますと、曽根太郎遠頼・曽根二郎長資・曽根五郎朝資・曽根七郎義直・小曽根八郎清之・女子(小笠原播磨守室・曽根河内守貞直、また、まだ文献史料としてはまだ未確認ですが、真野信治さんという方の調査・公開された系図によりますと、市川太郎別当文殊院律師民部卿頼圓の子供の市川別当大夫頼尊は養子で、実父は曽根厳尊であるとのことです。

要するに、上記の系図史料によりますと、曽根厳尊には女子を含め八人の子供がいたことになります。

ですので、一口に甲斐源氏系の曽根氏と言いましても、江戸幕臣の曽根家ばかりではなく、上記の厳尊の各子供の子孫の系統が居られる筈でしょうから、裏付ける史料がありましたら別ですが、裏付ける史料がないのでしたら、江戸幕臣の系統の曽根氏と断定するのは早計であると思います。

ですので、裏付ける史料がないならば、安易に幕臣の系統に繋げるのではなく、矢張り、実際に御先祖の故郷を尋ねられて、地道に実地の調査・研究されて、真系を詳らかにされる方が正確な御家の歴史を将来に残せるものと存じます。

2517.水戸藩下館藩下妻藩谷田部藩の町田姓の藩士 返信  引用 
名前:町田武示    日付:2012年12月19日(水) 4時38分
TW様貴重な情報をいただきましてありがとうございます。何かほかに関連する資料等ございましたらご協力よろしくお願いします。今回いただけました情報を元に調査していきたいと思っています。ありがとうございました。

2515.長野氏の謎 返信  引用 
名前:神山    日付:2012年12月10日(月) 15時39分
平忠正の子の長盛の子孫とされる九州の長野氏は弟の伊勢三郎義盛が義経の家来でその子の直盛を養子にして後継ぎにして九州の豊前を治めたことになっていて、忠正と長盛は清盛に殺されたはずであるが、なぜか長盛は生きていて平家の都落ちに同行して壇ノ浦で鎌倉軍に捕まり、頼朝の責めを範頼の懇願で許されて本領安堵されたことになっているが、その意味では矛盾である。そういう謎の人物を先祖に戴く長野氏というのもおかしな氏族といえる。この疑問をうまく説明できる方がいたらご教授をお願いしたい。

2512.織田親実の父 返信  引用 
名前:神山    日付:2012年12月4日(火) 17時19分
織田親実は50代で死んでいるので平資盛の子ということはありえない。ということは資盛が父というのは織田信長の権力のなせる技による偽系図という気もする。
ただ資盛が屋島の戦の後、少しして壇ノ浦で偽装自殺してどこかの浜に上陸、源氏に見つからないように生きていて、親実の生まれるすこし前まで生きていれば、父と主張することは可能だろうか。
この疑問に答えられる方は教授をお願いしたい。

2510.三田藩士 和久山家のルーツ 返信  引用 
名前:土屋弥曾平    日付:2012年11月25日(日) 23時19分
三田藩士 150石取り和久山氏の三田藩に仕官する前はどうしていたのでしょうか?多分地侍ではなかったと。



2516.Re: 三田藩士 和久山家のルーツ
名前:小次郎    日付:2012年12月10日(月) 22時49分
三田藩 綾部藩は九鬼氏が藩主です。九鬼氏が入部した頃抱えられた丹波和久氏の一族と考えるのが妥当かと思います。和久氏をお調べになられますように。

参考 綾部市史 福知山市史 亀岡市史など

2503.新潟の木伏姓について 返信  引用 
名前:駿河木伏    日付:2012年11月20日(火) 18時34分
今夏会津まで木伏姓ルーツの旅を致しましたが
会津の木伏という地名に木伏姓はいないことが判明しました
地理的なことからしても
駿河の木伏姓は新潟の小須戸からきたのではないかと思われます
今川氏関係の年表に永禄年間に松野7人衆として出てきます
我が家のルーツ探しに役立つ情報はないものでしょうか
家紋は四つ目菱です
http://news.ap.teacup.com/gosenzosama/?guid=on



2509.Re: 新潟の木伏姓について
名前:TW    日付:2012年11月24日(土) 13時39分
木伏(キブシ)姓は、新潟県小須戸町、新潟県新津市などに多いようです。

会津芦名氏家臣の河原田氏に属した木伏領主(南会津町木伏)の木伏紀伊は、伊南合戦(1589)で河原田氏を見限り長沼氏(佐野氏、小山氏などと同族)の元へ走り、伊達氏に属したようです。 この木伏氏は菊池氏の一族とされているようです。
河原田氏は敗北後に芦名氏をたよって落ち延びたようです。
芦名氏は伊達氏に滅ぼされています。

四つ目菱の紋から考えると、奥州に多い源姓佐々木氏などに関係するのか・・・?
越後国奥山庄内に佐々木氏が所領を有しています。(鎌倉時代)

駿河国伊達氏の伊達景宗は駿河国守護の今川範国に属しています。伊達景宗は戦功の賞として駿河国有度郡入江庄(清水市)を拝領しています。 その後、子孫が駿河国山名庄諸井郷(袋井市諸井)を本領としています。

1)河原田氏を見限り、伊達氏に属した木伏氏
2)河原田氏と供に、芦名氏をたより、会津へ逃れた木伏氏(後に伊達氏に属したか?)
  芦名氏の家臣に木伏藤馬があり。(藤原姓菊池氏か・・・?)
3)戦国時代に入る前(鎌倉時代?)に、伊達氏に属し、駿河国伊達氏と供に駿河国に移った木伏氏

などが考えられます・・・? 

駿河国伊達氏、今川氏などの分限帳や会津付近の郷土資料、古文書等を地道に調べてみては如何でしょうか・・・
御参考まで。


2558.Re: 新潟の木伏姓について
名前:駿河木伏    日付:2013年6月22日(土) 14時34分
大変ご参考になるご意見をコメントしていただきながら
無理かと見ずに放置していたことお許しください
ありがとうございました
これからまた地道に活動していきます
ほんとうにありがとうございました

2501.平範国と平経方の母の父の家名 返信  引用 
名前:神山    日付:2012年11月14日(水) 22時33分
桓武ー葛原ー高棟ー惟範ー時望ー貞材ー親信ー行義ー範国ー経方

と来て、範国の母の父である致明の姓?、

および経方の母の父である章任の姓?

これについて答えられる人は教授お願いします。



2508.Re: 平範国と平経方の母の父の家名
名前:TW    日付:2012年11月24日(土) 13時37分
文徳天皇−源能有−源当季−源仲舒−源致明

藤原章任(丹波守)
藤原頼任(丹波守)、藤原公任、藤原章信、などの一族か・・・?

2500.小宮氏累重孫である佐賀県の光増家 返信  引用 
名前:光増勝    日付:2012年10月9日(火) 2時24分
私は福岡県大牟田市に住んでいる小宮一族の末裔の光増です。1500年前後から南一揆などの文献に出てきます。 誰か、いつ 小宮から… 光増に変わっていったのか 知っている人はいますか?。ぜひよろしくお願いします。



2520.Re: 小宮氏累重孫である佐賀県の光増家
名前:ぽむ猫    日付:2012年12月28日(金) 11時17分
私は趣味で家系研究をやっているので参考程度ですが。
ご存知の通り、小宮氏は武蔵七党のひとつ、日奉姓の西党の別れと言われています。武蔵国秋留郷地頭・小宮経廣の4人の息子(景廣・経行・左衛門五郎ら)が肥前国に下向したようです。この流れのいづれかがあなた様の御先祖にあたるわけでしょうが、詳しい資料が私には無い為にこれ以上はわかりません。ただ「肥前国川副庄の光益名(みつますみょう)」が光増姓の発祥らしいです。上記の小宮氏のいづれかが(または分家して)川副庄光益に居住し、姓を光益(増)に改めたというのが妥当ではないでしょうか。
「佐賀県資料集成 古文書編第4巻」「諸富町史」などに小宮氏の活動が
記載されているらしいので、まず小宮姓を軸に佐賀県立図書館などを利用して調べられてはいかがですか?
あと最終的な手段ですが現在東京に「小宮氏系図」をお持ちの光増家の方がいらっしゃいます。「小宮氏系図 光増」でググればそのあたりに
触れているページが見つかると思います。このスレのタイトルからして
多分、ご存知かとは思いますが。御当主のお名前、お住まいの町名を
さらにググれば住所も見つけることができますので
いきなり聞くのではなく、まずは突然の非礼を詫びてから、自分なりにこれだけ調べた(佐賀県立図書館などを利用した自分の調査結果)のですがと前置きして、自分の尋ねたいことを聞いてみるという方法もあります。もちろん返信用の葉書、または切手を貼った封筒を同封することは
当然のマナーです。


2523.Re: 小宮氏累重孫である佐賀県の光増家
名前:光増勝    日付:2013年1月3日(木) 20時57分
ぽむ猫さん。御返事ありがとうございます。 前回、掲示板に書き込みをしたあとに 佐賀県の役所、東京都あきる野市の役所に連絡したら 文献の資料のコピーを送ってもらいました。 佐賀県の光増さんも小宮家系図を所持されていることは分かりました。 北海道の光増さんは 二世代前に 長崎県から移り住んだらしいですが、佐賀県の光増さんの家系の事は知らないと聞きました。 私も一応 全国の光増さんとやり取りしていたのですが 東京都にいるとは 知らなかったです。 是非東京都の方と連絡してみます。また分った事がある時はお願いします。 ※もしかしてモバゲ―してます? 似た名前を見た事があるので 三国大戦で(笑)。


2586.Re: 小宮氏累重孫である佐賀県の光増家
名前:羅陵王    日付:2013年8月18日(日) 16時14分
はじめまして。
ちょっと興味がある話題だったので投稿します。
あきる野市に問い合わせをされたのでしたら、そこでの話の佐賀県の光増は私ではないかと思います。
以前祖父が家系を調べていて、系図のコピーを入手していましたので、それを元に東京出張の際、あきる野市へ出向き尋ねた事がありました。
そこで発行されている会報に小宮氏の系図が初めのところだけ載っていましたが、祖父のコピーと同じものでした。
東京で系図をお持ちの方は私の曽祖父の代で分かれているようです。

私にも情報がありましたらご教授ください。


2605.Re: 小宮氏累重孫である佐賀県の光増家
名前:羅陵王    日付:2013年9月15日(日) 17時2分
すみません。情報がありましたら・・・では漠然としていますね。
既に、いつ光増を名乗ったかはお調べになったかも知れませんが、ぽむ猫さんの指摘の通り、私の系図では、経廣の子、経行が肥前國河副庄へ下向し、それから5代下った光益右近将監経起が初めて系図で光益を名乗っているのが分かります。その前の代でも、光益村知行とありますから、地名からである事もぽむ猫さんのご指摘の通りです。いつから、名乗ったかは、経行の2代後の背振山治部卿阿闍梨 榮海の所に延慶3年(1310年)の年号があるのと下記の記事から予想して下さい。
榮海は傍系で光増の系図には繋がっていませんが。
前掲の光益右近将監経起の孫が、光益九郎右衛門光廣で、九州治乱記(別名:北肥戦誌、肥陽治乱記、九州軍談)には明応7年戊午2月、千葉胤繁が大内勢と争った時に、旧好の武士を語らい馳せ集ったと龍造寺豊前守胤家と共に光益出雲守光廣の名が見えます。
江戸時代まで、ずっと光益のままですが、明治になって、光増と変わっています。文書では、室町時代から光増とも使っていたようですが・・・
ここまでは、私が知っている事です。
私がお聞きしたいのは、武蔵國から新補地頭として小宮氏が来たのは分かるんですが、日奉氏の西党であるらしい、だけで、西党に繋がる正確な小宮氏の系図が無いと聞いたからです。秩父平氏とも何かの本にもあったようですが・・・
佐賀藩の名前も祖先は平氏を名乗っています。家を継ぐため養子に入ってるので、そこで姓が変わっているかも知れませんが。
武蔵七党に詳しい方宜しくお願い致します。

2496.家系、家紋調査 返信  引用 
名前:長坂    日付:2012年9月22日(土) 21時30分
祖父、高祖父が長野県更級郡桑原村無番地が本籍だったようです。
無番地だと現地に行ってもわからないでしょうか?
家紋だけでも知りたいです。



2507.Re: 家系、家紋調査
名前:TW    日付:2012年11月24日(土) 13時36分
住所が無番地と表記される場合は多々有ります。
離島、山間部、公共施設などが有る場所など・・・
戸籍謄本等の取得は可能だと思います。
現地の役場、寺、旧家などを訪ねれば分かるのでは?
土地台帳から調べる方法も有ります。


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