[ ホームページ ] [ 携帯用URL ]
古代史掲示板2(荊のキシ)
みなさんのご意見お待ちしています。

[ EZBBS.NET | 新規作成 | ランキング | オプション ]
iモード&(絵文字)、au対応!ケータイからも返信できる無料掲示板!
名前
 E-mail 
題名
内容
投稿KEY    タグ有効 改行有効 等幅フォント
URL



343.三内丸山遺跡の謎 返信  引用 
名前:石橋みどり    日付:2007/5/9(水) 15:34
ついに明かされた三内丸山遺跡の謎!
縄文土器・縄文人のルーツが知りたい人は必見!!
日本人のDNAをもっている人なら必ず納得いきます。
知りたい人は、み・て・ネ!
      ↓
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/?blog_id=2098137
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/?blog_id=2098137
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/?blog_id=2098137

154.キトラの壁画 返信  引用 
名前:    日付:2006/5/13(土) 13:11
管理人様、皆様、      姫です。

こんにちは。

MLに加入させていただき、ありがとうございます。
MLに書き込もうと思うのですが、どういうわけか、送信が
できないのです。

昨日偶然に、飛鳥資料館でキトラ古墳の白虎が展示されていると
カーラジオで聞きました。

写真で美しい壁画を見ていますので、実際に見る必要も
ないかな、と思いましたが、やはりこんな機会はもうあるまいと
思い、直ぐ見に行くことにしました。


目の前に白虎を見たとき、その優しさに心が打たれました。
色が白いので筆の運びがよく見えます。
写真ではわからない熱い息吹が感じられ、これを描いた工人達の
被葬者への思いの深さが、ひしひしと伝わってきました。


この繊細な優しさが、発掘に携わった人たち、明日香村の人たちを
して、失わせてなるものか、という思いに駆らせているのだと
思います。

確かに歴史的、芸術的な意味で、キトラや高松塚の絵画は貴重な
ものですけれども、それだけではない、古墳を造った人たちの
被葬者への愛を論じるべきかな、と、これは私の過剰な思いこみ
ですけど・・・・


昨日は金曜日でしたが、各地から観光バスで乗り付けてくる
人たちもいて、いつもは静かな飛鳥資料館も大賑わいでした。
絵を見た人たちは、一様に声も出ない感じで、ただためいきだけを
ついていました。

壁画は単に美しいというだけのものではありません。
おそらく明日香村の人たちは、思い切って壁画を公開することで、
多くの人たちにそのことを伝え、これからの保存について、一緒に
考えてもらいたかったのではあるまいかと思いました。

網干先生は壁画を剥がすことに猛反対です。
一旦剥がすともう二度とはもとに戻らないことは、素人の私
にもわかります。
だからと言って、このまま放置しても、壁画の消失は必至です。
なかなか難しいものですね。



155.Re: キトラの壁画
名前:管理人    日付:2006/5/16(火) 20:23
姫さんこんばんは。書き込みくださっていたのですね。MLの件、ちょっと調べてみます。古墳壁画をどう保存すべきか、おっしゃるとおりですね。被葬者への工人の思いが壁画に刻まれているのですね。キトラはまだなのでいつか近いうち現場で見てみたいですね。いろいろ考えさせられます。


342.「キトラ古墳 玄武 特別公開」
名前:イベント    日付:2007/5/8(火) 13:54
「キトラ古墳 玄武 特別公開」(奈良県明日香村)
http://kitora.nabunken.go.jp/
2007年5月11日(金)〜27日(日)、飛鳥資料館にて公開予定です。

http://weeklyinfo.seesaa.net/article/41154039.html

341.渡来人について 返信  引用 
名前:山田 由香    日付:2007/5/2(水) 20:6
渡来人は、日本語が話せたんですか

98.慰安婦の記述 その2 返信  引用 
名前:グリーン中山    日付:2005/11/1(火) 14:44
Original Size: 1280 x 960, 279KB

仁林文化出版企業股(イ+分)有限公司

 國中・社會 第三冊 第二本 (2上)
  指導教授 呉連賞 他
  出版日期 中華民國九十二年六月 初版
       中華民國九十三年六月 二版

  5 民國建立的擾(みだれる)攘(ぬすむ)
   第3節 戰爭(戦争)與(与)和平
    抗日戰爭(戦争)的擴(拡)大
p83 
   日本曾(すなわち)誘騙臺灣(台湾)婦女充當(当)軍中慰安婦,這些(チョーシエ)都是
   日本侵華過程中悲慘(惨)的事件。
  
   (大意)
   日本はすなわち台湾婦女を誘い騙し軍中慰安婦に充当した、これらはすでにこれ
   日本の中国侵略過程の悲惨な事件である。
http://www2.ezbbs.net/36/underbranch/



336.先住民の慰安婦について
名前:みや    日付:2007/4/3(火) 19:59
「台北市婦女救援基金會」の慰安婦に関する報告書に、
先住民の慰安婦について書かれた箇所が
ありましたので
簡単に翻訳してみました。
よろしければ、ご参照ください。


http://taiwan.yam.org.tw/womenweb/conf_women/conf_japan2.htm
 日本應負法律賠償責任
 −台灣慰安婦對日求償記

 王清峰、江美芬 *
 台北市婦女救援基金會
 (現 財団法人 台北市婦女救援社會福利事業基金會)
 1997.10.31

 一、台灣慰安婦之調査與現況


 當年她們的丈夫或兄長大多被徴召到海外當軍伕,
 (当時彼女たちの夫あるいは貴兄は、
  大部分が召集されて海外で軍夫にさせられていた。)

 而她們則被日本警察利用沒有男性在家照顧她們的時候,
 (彼女たちは、家にいて彼女たちのを配慮する男性がいない時期を
  日本の警察に利用された。)

 以到日本軍隊縫衣服、奉茶、打掃等名義騙到軍隊,
 (以って、日本の軍隊に行って衣服を縫ったり、お茶を出したり、掃除する等の名義で
  騙して軍隊に到らしめた。)

 經過一、二個月後,
 (1,2ヶ月過ぎて、)

 強迫她們成為日本軍官或日本兵的性玩物,
 (彼女たちに日本の将校・士官あるいは
  日本の兵士の性の玩具になるように強制した、)

 嚴重傷害她們的自尊與名譽,
 (彼女たちの自尊と名誉を深刻に傷つけ、)

 也破壞她們的族規
 (彼女たちの一族のおきてをも破壊した。)
http://taiwan.yam.org.tw/womenweb/conf_women/conf_japan2.htm


338.Re: 慰安婦の問題
名前:岡本豊    日付:2007/4/4(水) 15:42
グリーン中山さん、みやさん

お二人がご提供になっている資料は大変に貴重です。一口に「台湾婦女」と言ってもいろいろありますよね。中国本土と違って台湾の場合は複雑な人種構成と政治的な色分けがあるにも拘わらず、「従軍慰安婦問題」に関しては全島的に被害者意識が共有されているのは大切なポイントです。

特に台湾の先住民族の婦女の場合の、いたわりの無い日本側の態度は許せません。彼らの間には、南から太古に日本列島に移住してきた人たちの子孫であり、日本人と血を分かつ人たちがいるのです。いわゆる「天孫族」の子孫とその周辺の支配諸族を頂点とする人種的支配構造のピラミッドを構築した大和政権の文化は、アマテラス位階神話と共に、戦前はおろか、戦後以来今日に至るまで存続しているように見えます。

天孫族は、その系譜がいわゆる「塞外の地」を出自に持つ種族のそれであり、北方騎馬民族的な文化の継承者でもありました。彼らはまた、日本列島の支配的政治勢力となる過程で、南から北上して伝播した水田稲作文化をその経済基盤に取り込むことによって強固な勢力基盤の構築に成功したのでしたが、故地に残った諸民族を見下す傾向を持ったのでした。

日本の社会と文化は、南から伝播した米作文化と北から伝播した牧馬畑作文化との融合過程から生まれた独特の複合文化だったのでしたから、近代日本の陸軍が本能的に北進政策(満蒙地域)をとり、海軍が南進政策(東南アジア)をとったのは故なしとはしません。しかし、口に平和と共栄を唱えながら、その実は欧米帝国主義に倣った植民地支配を目指す進出政策をとったのは致命的な失敗であり、いわゆる「従軍慰安婦問題」は、この過程で不可避的に日本が犯した不幸な事件の一つでした。

私の歴史観については、以下の掲示板をご覧ください。台湾を中国本土からの参加を前提にした東アジアフォーラムを私たちで立ち上げませんか?

http://www2.ezbbs.net/10/oiarijapan/

岡本 豊
http://www2.ezbbs.net/10/oiarijapan/

335.宗教と商人・・・・裏に破壊と創造の利益が、 返信  引用 
名前:uzu    日付:2007/4/3(火) 4:52

「大政奉還などしても徳川を徹底的に潰したい存在は、龍馬の徳川慶喜を入れた. 議会制度など論外。 ・大政奉還という龍馬の起死回生の案を自分の手柄にしたかった存在。」
一介の脱藩浪人である龍馬が、薩長にグラバー商会
を通じたにせよ、あんなに迅速に武器の調達ができ
るはずがない。背後にフリーメーソンがあり、龍馬
は傀儡に過ぎなかった・・・
http://blog.livedoor.jp/jyukutyou1/archives/50828837.html

「武力倒幕を推進しようとする薩摩と長州にとって、大政奉還を行った龍馬が非常に邪魔な存在であった。
闇の商人は世界平和を唱える者達を暗殺し戦火の火種に風を送る・・・・・徳川は火種を抑えていたと思います。
1867年10月将軍徳川慶喜は大政奉還案を受諾する。

江戸城総攻撃が回避された、大政奉還成立しなかったら江戸は総攻撃を食らって、火の海になり 多くの民がまた犠牲に・・・・

階層社会 格差社会 悲惨な民の減少を「一握りの富裕層」に願います。
               (^.^)(-.-)(_ _)<(_ _)>

334.平和への宗教観とは? 返信  引用 
名前:岡本豊    日付:2007/4/2(月) 11:31
uzuさん

「母系氏族の原始宗教の伝統や巫史文化を奪った道教(巫女 巫覡[祈祷師]から奪った神道と同じか?)」というのは興味深いテーマですね。
大和朝廷によって組み立てられたアマテラスを主神とする「位階」神話とそれに基づく神道は、古代日本の歴史でまさにそのような役割を果たしたようです。

これtじょの関連でちょっと面白いのは、東日本に興った武家社会の基層部分では、古代中国文化の影響が少なかったせいで、単純な「イエ」単位の先祖崇拝が重視されていました。「何々家」の先祖様が祀られた「イエ」単位の小さなほこらは今でも数多く残っています。中世後半に始まった日本の戦国時代は、この「家=イエ」を基礎とする武家社会の構成単位が御家人、地頭、守護から「守護大名家」に成長し、更には「領国大名家」にまでのし上り、あたかも独立国のような形でお互いに勢力拡大の闘争にのめり込んだ結果生まれたのだと思われます。それが織豊時代に入って全国統一の気配が出てくると、再び位階神話を背景とする京都朝廷の宗教的・文化的権威が必要とされ始めたのでした。

戦国時代の終焉はしかし、果たしてuzuさんの言われる「平和への宗教観」を生み出したのでしょうか?武家社会と京都朝廷との間の安定した宗教的・制度的融合と共生は徳川幕府の確立で達成されましたが、この時代の「太平の世」はあなたの言われる平和への宗教観に裏打ちされていたのでしょうか?

岡本 豊
http://www2.ezbbs.net/10/oiarijapan/

333.「道教が生まれた原因」 より 返信  引用 
名前:uzu    日付:2007/4/1(日) 9:26
母系氏族の原始宗教の伝統や巫史文化を奪った道教(巫女 巫覡[祈祷師]から奪った神道と同じか?)
「後漢の時代に、黄老学は神仙家・陰陽家・五行家・方技家・術数家と融合し、やがて黄帝や老子を祭祀する黄老道に変わった。I
「秦・漢の時代、中国は一つの封建帝国に統一されていた。」
「政治的な必要性からまず周代の伝統だった宗法礼教を復興することに力を注いだ。続いて神をでっちあげ、儒家を宗教化していった。」
「孔子を教主として奉じ廟を建てて祭った。「忠孝」を官吏を選抜する尺度とし、全国で家長制を推し進めた。秦の始皇帝や漢の武帝は封禅を行い仙道を求めて古い宗教の精神を復活させ、漢代の政治・学術は宗教という濃い霧に覆われた。東漢の時代には讖緯神学が儒家の正統派となり、儒家と伝統的な宗法礼教との結び付きはどんどん緊密になった。古代の宗教の亡霊は完全に儒教に取り付いたのである」
「道教は封建皇帝のための「第2の儒教」として機能したのである。 」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX1-3.htm
「人類は生活の中では理性による社会規範や倫理道徳で自分自信を抑制する必要があるが、同時に理性によらない情感を刺激して自分の苦悩を晴らす必要もある。中世の世界は宗教によって統治された時代であり、科学や哲学は宗教の下女にすぎなかった。宗教に対する免疫力のある国家は世界のどこにもない。」・・・・だからこそ、平和への宗教観を養いたい。

332.書き言葉なき民の歴史 返信  引用 
名前:岡本豊    日付:2007/3/28(水) 8:25
uzuさん

参考文献ありがとうございました。なかなか包括的な研究をなさっている方ですね。
近年私は、奈良から平安にかけてのエミシの実態の解明に一番個人的情熱を感じています。
書き言葉のないアルタイ系の人々が辿った運命と生活の実態は「征服者」の側の記録からしか辿れません。
東日本以北では、平安の末期になると北族系(ツングース系)エミシの形式的な「皇民化=公民化」は急速に進み、多くの場合かれらは東国の騎馬武者集団の事実上の中核的構成部分に転化する過程で日本人化し、平安末期には京都朝廷側の歴史の記録から「あずまエミシ」は忽然と姿を消します。
いまちょっと新しい国際NGOの立ち上げ準備に忙しいので、またの機会にぜひこの問題に触れたいです。

岡本 豊
http://www2.ezbbs.net/10/oiarijapan/

331.参考?HPかな? 返信  引用 
名前:uzu    日付:2007/3/27(火) 15:39
岡本さんこんにちは、この様なHPがございました。

「従って、一国の古代史であっても、その国の史料だけで古代社会の様々な事象を解明できるほど単純ではない。 ... 古代中国にトルコ語? ... 同様に北魏武将の賀伐(がばつ)も「雄猪」のことである。 異民族として中国の史籍に登場する ...
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/tungus-tsusi/tungus-tsusi-1-gaiyou.htm

330.騎馬民族と農耕民族 返信  引用 
名前:岡本豊    日付:2007/3/26(月) 22:1
uzuさん

騎馬民族と農耕民族とは一体どのように定義されていて、ある時代の「ある民族」が騎馬民族だったか農耕民族だったか、という判定にはどんな基準が使われるのが妥当なのか、といった問題はまだまだ未解決と言わざるを得ないでしょう。
例えば、江上波夫さんは、「騎馬民族国家」-日本古代史へのアプローチで、「東方」では匈奴や突厥を典型的な遊牧騎馬民族国家だが、鮮卑や烏垣は「主要な生業はもちろん牧畜であったが、それに副業として、狩猟と農耕が加わっていたのが、匈奴や突厥などとはやや異なるところであった」とされ、更に、「東北アジアには、農主牧副民系、あるいは半農半狩猟民系の騎馬民族が少なくなく、扶余、高句麗、靺鞨、渤海、女真、満州などが主要なもの」であったと述べられております。

私の場合はしかし、これと少々違う定義の区分を使っていて、「牧主農副」の鮮卑や烏垣までが「騎馬民族」の限界と考えており、独自の「農主牧副」の文化へ限りなく傾斜してゆく扶余、高句麗、靺鞨、渤海、女真、満州の歴史的系列を「牧馬畑作農耕文化」と呼んでいます。前者は華北の農耕文化への憧れと収奪に分裂症的傾斜を持っておりましたが、後者の場合は万里の長城以北の地域で自ら独自の牧馬畑作農耕文化を創造し、持続可能な独自の非中国的定着農耕文化への指向が次第に見られるようになります。そして、この非中国的な独自の北族系文化の伝統は、日本列島に開花した飛鳥・奈良時代に引き継がれ、鎌倉時代以降の武家社会文化の全国規模での成立とともに高い安定度と持続性を持った混合北族系文化を生み出したのだと考えています。従って、この系列の文化は「騎馬民族」と「農耕民族」という二分法には馴染まないと考えています。

岡本 豊
http://www2.ezbbs.net/10/oiarijapan/

328.RE「日本には、この意味での騎馬民族文化の伝統は殆どありません。」? 返信  引用 
名前:uzu    日付:2007/3/24(土) 15:24
RE「日本には、この意味での騎馬民族文化の伝統は殆どありません。系列から言うと、扶余、高句麗、百済、新羅、大和といった流れであり、生活文化の共通要素は定着性の「牧馬天水畑作農耕文化」であり、日本の場合はこれが南から来た水田稲作と深く、広く融合したという点で大いに異なります。」

雄略天皇 - Wikipedia
対外関係では、雄略天皇8年2月(464年)に日本府軍が高句麗を破り、 ... この他、呉国(宋)から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して、養蚕業を奨励したことも知られる。 ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%84%E7%95%A5%E5%A4%A9%E7%9A%87

秦氏
日本古代に朝鮮半島から渡来した氏族。秦始皇帝の裔を称し,後帝の子孫という漢氏(あやうじ)と勢力を二分した。《日本書紀》には応神天皇のとき弓月君(ゆづきのきみ)が〈百二十県〉の〈人夫〉をひきいて〈帰化〉し,雄略天皇のとき全国の〈秦民〉を集めて秦酒公に賜り,酒公は〈百八十種勝)ももあまりやそのすぐり)〉をひきい朝廷に絹を貢進したとある。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/hata.htm
「秦氏一族」はユダヤ人か?
騎馬民族説によれば、紀元前2世紀から5世紀にかけて、東北アジアで活躍した騎馬民族「夫余(ふよ)族」である。
秦氏がユダヤ人というなら、そのカギは古代のユダヤにあるはずだ。ピラミッド説の酒井勝軍も、古代イスラエルから始まっている。はたして、何が飛び出してくるのか。時空を越えて、草創期の日本にさかのぼる。実は・・・・、いる。古代イスラエルに、疑わしい集団がいるのだ。しかも二つ、である。古代イスラエル史モーゼ出現前722年・北朝滅亡前605年・南朝滅亡紀元前6世紀・十支族が消えた前2世紀・ハスモン朝ユダヤ建国キリスト出現復活原始キリスト教・エルサレム教団イエスを殺したのはユダヤ人紀元一世紀・エルサレム教団失踪世界宗教へ伸びたキリスト教俑(よう)
中国の遺跡から発見される等身
大の人形。馬や馬車もある。第5章 その4・亡国のイスラエル日本人のルーツ
江上波夫氏の騎馬民族説によれば、紀元前2世紀から5世紀にかけて、東北アジアで活躍した騎馬民族「夫余(ふよ)族」である。 三国志・魏志韓伝によれば、 1〜2世紀頃の朝鮮半島に、馬韓(ばかん)があった。 
そこへ、秦の役を避けて多くの秦人(しんじん)が来た(秦人とは漢民族以外の北方・西域の異民族のこと)。 彼らに西の土地を分け与え、 秦韓(辰韓ーしんかん)と弁韓(べんかん)が出来て、三韓になった。 
辰韓と弁韓は、弁辰と称して、一人の王を推戴、辰王(しんおう)と称した。これが前述の夫余(ふよ)族の一派である。3世紀後半、朝鮮半島の情勢に異変が起こり、馬韓が百済(くだら)、辰韓が新羅(しらぎ)、弁韓が伽那(かやー日本では任那ーみまなと云う)になる。

天皇家のルーツは大陸の夫余系騎馬民 族で、百済の王家と同族だったことになる。
http://www.kitombo.com/mikami/0709.html

秦韓新羅. 弁韓伽耶. 伽耶にいた、騎馬民族の大王「辰王」(=応神天皇)の集団が、九州に上陸し、大和へ侵攻、「大和朝廷」を打ち立てる。 ... 流浪の民「秦人」は、中国から朝鮮半島へやってきて、秦韓、弁韓を建国します。
http://plaza.rakuten.co.jp/kotoha/diary/200607310000/



329.UZUさんの2つの記事の移動
名前:管理人    日付:2007/3/25(日) 23:53
UZUさんの2つの最新記事は、歴史問題と関係の薄い内容でしたのぜ、情報掲示板へ移動いたしました。ご了承ください。

327.生活文化と環境破壊の歴史 返信  引用 
名前:岡本豊    日付:2007/3/23(金) 18:49
uzuさんこんにちわ

「神」という日本語の言葉は「上」に通じますよね。おっしゃるように、中東の砂漠の遊牧民や商人の神とはユダヤ教、キリスト教、イスラム教と言った一神教を指していられるのでしょう。あなたのメッセージの中に:

「遊牧民は適地を求め移動するので環境の悪化などは、さほど気にならないのでしょう。農耕・漁民は定住するので、環境を大切にし自然界のバランスを大切にします。古代、狩猟民族は獲物を求め移動を繰り返しましたが家畜(育成)に辿り着き遊牧民と成りました」とあります。


確かに人間は環境を破壊して生きてきましたが、自然環境の破壊は宗教や生活文化とはあまり関係がなく、道具を作ることを覚えた人類という種の生き物にとっては、自然破壊という行為は不可避で普遍的な習性(原罪?)であると私は考えます。

(1)遊牧民について

遊牧民、例えば現存する蒙古に人たちがそうですが、広大な平原や丘陵の広がりの中で生きる彼らには、季節ごとの明確な移動パターンが存在していて、毎年繰り返して同じ場所に帰ってくるのですから、自然環境の維持と保護には細かい注意を払っています。

あなたが言われているのは遊牧民ではなくサルマチア、スキタイ、匈奴といった「騎馬民族」やジンギスハーン時代の蒙古族のことです。彼らの生活文化には定住農耕はありませんから他の農耕民族からの収奪と交易以外には生きる術がないのです。

日本には、この意味での騎馬民族文化の伝統は殆どありません。系列から言うと、扶余、高句麗、百済、新羅、大和といった流れであり、生活文化の共通要素は定着性の「牧馬天水畑作農耕文化」であり、日本の場合はこれが南から来た水田稲作と深く、広く融合したという点で大いに異なります。朝鮮半島の大部分はその昔モンゴリナラ林で覆われていたのですが、今日ではナラ林はすっかり姿を消し一部が赤松の二次林に変わり(日本に輸出する松茸の産地)、日本人の目から見ると恐ろしいほど岩肌が露出した禿山が各地に連なっています。


(2)農耕・漁労民につして

日本列島の植物相の歴史を見ても、森や水の恵みに依存して森や林で住んだ縄文時代には人は、自分たちの住居周辺以外は自然(森林や河川)を大事にしましたが、農耕文化の展開が始まると世界各地で森林破壊は急速に進みました。日本では、水田稲作文化が普及した弥生時代以降は、沖積平野周辺の平地林の伐採と破壊が続きましたが、家畜を伴はない日本の稲作農耕文化の場合は、いわゆる「里山」が農村の大事な構成要素となって維持されてきました。しかし、関西以西に多い松茸の生える赤松林はやはり繰り返して破壊された照葉樹林跡に生成した二次林なのです。

しかし中国は大きく違います。華北の落葉樹林地帯では巨大な黄河文明を支える畑作農耕の拡大の結果早くから森林破壊が進み、すでに春秋戦国時代(BC770−BC221)には、孟子が死者への丁重な葬礼に必要な木棺を作る木材を確保するために森林の保護を説いたとの記録がある位です。万里の長城以南の黄河文明を支えた中国の農耕文化は華北一帯から北東に広がる広大な落葉樹林(遼東ナラやモンゴリナラ林)を殆ど破壊しつくして、現在では東北地方(旧満州)の北東部からロシアの沿海州やハバロフスク州に残っているだけなのです。


といったわけで、日本などは、東アジア全体の中では「瑞穂の国」と自称しただけのことはあって、規模は少々ミニでも、美しい箱庭のような山河と豊かな地域社会毎の生活文化を持つユニークな国だというのが、各地を回った経験のある私の実感です。

以上、私の見た実感から整理してみましたが、狭い日本がなぜこのような美しい自然を維持できた上に、世界第二の規模のGNPを持つようになれたのかは私にとっては「歴史の不思議」です。

岡本 豊
http://www2.ezbbs.net/10/oiarijapan/

326.ある神の・・・ 返信  引用 
名前:uzu    日付:2007/3/21(水) 0:37

神は人類の繁栄を約束されましたが、それが自然界のバランスを崩し地球環境の破壊を促進することを予見出来ませんでした。
それは、神が中東の砂漠の遊牧民や商人の神だったからです。
遊牧民は適地を求め移動するので環境の悪化などは、さほど気にならないのでしょう。
農耕・漁民は定住するので、環境を大切にし自然界のバランスを大切にします。
古代、狩猟民族は獲物を求め移動を繰り返しましたが家畜(育成)に辿り着き遊牧民と成りました。
放牧の適地 平原を広げる為に森林を焼き払いました、森を失った環境には「雨」降水量が激減し砂漠化し牧草を求め 定住農耕民のテリトリィーを侵いました。
人間の営みには、二つのタイプが有ると思います。
定住型と移住型です、定住型は環境を大切にしき共生コミニティーの構築に努力します。
移住型は、移動・侵略 戦いを好みます。
資本主義経済は逆肉強食、強いもの勝ち 資本を奪い蓄積し攻めの策略 マネーゲーム に固執します。
お金は経済の血液と思います、停滞(溜める)させてはいけませんし偏ってもいけません。
お金が溜まると、マネーゲームに走ります、マネーゲームは資本力を有する者が勝ちます(金に物を言わせルールを自分の都合良く出来るからです。)
お金が有る人は、格差社会を好みます 優越感を味わいたい 格差がなければ 金持ちが崇拝されねば 意味が無いからです。
安住の地を持たない者はど、お金を大切にします、愛されない人ほど物欲・権威・地位に執着します。
人類の繁栄を約束された「神」?は、寂しい方だったのでしょう その神の教えには温かさに欠けています。
その神は、見返りとして忠誠(見返り)を求めました ・・・愛とは見返りを求めない只与える呑みなのです。

322.中国の歴史教育政策の新しい方向 返信  引用 
名前:岡本豊    日付:2007/3/10(土) 12:26
歴史問題にご関心のある皆さん:

昨日京都の小堀さんから中国の歴史教育界の新しい動きに関する貴重な資料とご意見をいただきましたので原文のままで下記のサイトに掲載させていただきましたのでぜひご覧ください。
21世紀の最初の10年を生きる上で、私達日本人にとっては大変に重要な変化が中国で起こっているのが注目されます。

2007年3月10日
岡本 豊
http://www2.ezbbs.net/10/oiarijapan/

321.歴史はウソだkらけ 返信  引用 
名前:平和ボケ    日付:2007/3/10(土) 2:11
天皇の歴史は、偽りだよ。

ウソと思う人は、古(いにしえ)の時代に100歳以上生きた天皇が何人いるか?調べたら判るよ。
150歳生きた天皇もいるよ。
まぁ、宮内庁が必死になって古墳を管理している事からも判るね。
古墳調査したら天皇制が偽りって判るからな。

天皇は、戦争する時にその戦争を正義にする為の道具なのよ。
可哀想だよね、天皇って、人権も無いみたいだしね。


ページ: |< << 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 >> >| 

無料アクセス解析

アクセス解析の決定版!無料レンタルで最大100ページ解析!

   投稿KEY
   パスワード

EZBBS.NET produced by InsideWeb