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GONchan's 掲示板 @
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せっかく訪れて頂きましたのですから、何か足跡を記して頂けましたら幸いです(^-^)/
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> 「見戸代緑地」内の散策を終えまして、2番目の「蒲刈大橋」へと向かっておりますと、途中に『←天神鼻公園・丸谷城跡(まるやじょうせき)』の案内表示が… > で、道路脇のチョッとしたスペースに車を駐め、案内表示に従って「天神鼻公園・丸谷城跡」へと向かって行きますと、途中で行き止まりと言うか手入れしてありません山道へと(^-^; > う〜ん、天神鼻公園・丸谷城跡に向かいますには、このルートではなく海岸沿いを入って行きますようでありました。 > …と言う訳で、今回はパス(^-^) > 後日、WEB上で「天神鼻公園・丸谷城跡」を検索してみましたら、こんな記載がありました(^.-)☆ > > ◆天神鼻公園 > > --- https://tabetainjya.com/archives/cat_15/post_4517/ --- > > 安芸灘大橋を渡り、大崎下島に入ったところにある大津泊庭園と天神鼻公園。海に向かって歩いて行ける散歩道がとても気持ちよく、時間を忘れそうです。 > 大津泊庭園(おおつどまりていえん)は、広島県呉市川尻町から安芸灘大橋を渡ってすぐの所、下蒲刈島(広島県呉市下蒲刈町)の大きな公園。天神鼻公園は、大津泊庭園の海側に細長く伸びている半島部分を指します。 > > ◆丸屋城(蒲刈城) > > --- https://proto.harisen.jp/siro1/kamagari-maruya-jou.htm --- > > 古くから瀬戸内海交通の要衝であった下蒲刈島・三ノ瀬の北側の天神鼻という岬に築かれた海城。南北朝期、下蒲刈島に進出した蒲刈多賀谷氏によって築かれたのが始まりとみられ、近世編纂の『芸藩通志』にも「多賀谷式部景茂、始めて城く」と記されている。 > > ・蒲刈多賀谷氏の水軍基地 > 蒲刈多賀谷氏は、同族の倉橋多賀谷氏や呉衆、能美氏らとともに「三ヶ島衆」と呼ばれ、芸南における大内水軍を構成していた。丸屋城は航路の要衝を押さえる機能とともに、同氏の水軍基地を担っていたと思われる。 > > ・尼子氏に降伏 > 大永三年(1523)六月、出雲の尼子経久は安芸に侵攻し、安芸国人たちを糾合して同国における大内氏の重要拠点・東西条鏡山城を攻略する。尼子勢はさらに黒瀬川沿いを南下して蒲刈城(丸屋城)を攻撃。蒲刈多賀谷氏も降伏したとみられる。多賀谷氏の「譜録」は、多賀谷興景について、蒲刈城で尼子氏と戦って戦死したとし、父の景時については「尼子家に属し、後大内氏家に属す」としている。 > > ・蒲刈多賀谷氏の衰退 > その後、城主であった多賀谷氏の勢力は衰退し、天文年間には竹原小早川氏の勢力が蒲刈に及んでいる。主家・大内氏の衰退が決定的となった厳島合戦の後、多賀谷武重は毛利氏から所領を安堵されている。以後、蒲刈多賀谷氏は毛利氏の警固衆として活動するが、多賀谷元重が朝鮮出兵後、仕えていた毛利秀元から長門の知行地を得て長府に移る。 > 『芸藩通志』も、丸屋城最後の城主を元重としており、元重の長府移住にあわせて丸屋城も廃城になったとみられる。 > > > > > > > > > > > 人気blogランキングへ(^.-)☆ 日本全国通過旅へ(^-^)/
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不動院から福山への帰路は、呉線沿いを竹原方面に走行でした(^.-)☆(5)
名前:
GON
日付:2020/12/16(水) 12:17
「見戸代緑地」内の散策を終えまして、2番目の「蒲刈大橋」へと向かっておりますと、途中に『←天神鼻公園・丸谷城跡(まるやじょうせき)』の案内表示が…
で、道路脇のチョッとしたスペースに車を駐め、案内表示に従って「天神鼻公園・丸谷城跡」へと向かって行きますと、途中で行き止まりと言うか手入れしてありません山道へと(^-^;
う〜ん、天神鼻公園・丸谷城跡に向かいますには、このルートではなく海岸沿いを入って行きますようでありました。
…と言う訳で、今回はパス(^-^)
後日、WEB上で「天神鼻公園・丸谷城跡」を検索してみましたら、こんな記載がありました(^.-)☆
◆天神鼻公園
--- https://tabetainjya.com/archives/cat_15/post_4517/ ---
安芸灘大橋を渡り、大崎下島に入ったところにある大津泊庭園と天神鼻公園。海に向かって歩いて行ける散歩道がとても気持ちよく、時間を忘れそうです。
大津泊庭園(おおつどまりていえん)は、広島県呉市川尻町から安芸灘大橋を渡ってすぐの所、下蒲刈島(広島県呉市下蒲刈町)の大きな公園。天神鼻公園は、大津泊庭園の海側に細長く伸びている半島部分を指します。
◆丸屋城(蒲刈城)
--- https://proto.harisen.jp/siro1/kamagari-maruya-jou.htm ---
古くから瀬戸内海交通の要衝であった下蒲刈島・三ノ瀬の北側の天神鼻という岬に築かれた海城。南北朝期、下蒲刈島に進出した蒲刈多賀谷氏によって築かれたのが始まりとみられ、近世編纂の『芸藩通志』にも「多賀谷式部景茂、始めて城く」と記されている。
・蒲刈多賀谷氏の水軍基地
蒲刈多賀谷氏は、同族の倉橋多賀谷氏や呉衆、能美氏らとともに「三ヶ島衆」と呼ばれ、芸南における大内水軍を構成していた。丸屋城は航路の要衝を押さえる機能とともに、同氏の水軍基地を担っていたと思われる。
・尼子氏に降伏
大永三年(1523)六月、出雲の尼子経久は安芸に侵攻し、安芸国人たちを糾合して同国における大内氏の重要拠点・東西条鏡山城を攻略する。尼子勢はさらに黒瀬川沿いを南下して蒲刈城(丸屋城)を攻撃。蒲刈多賀谷氏も降伏したとみられる。多賀谷氏の「譜録」は、多賀谷興景について、蒲刈城で尼子氏と戦って戦死したとし、父の景時については「尼子家に属し、後大内氏家に属す」としている。
・蒲刈多賀谷氏の衰退
その後、城主であった多賀谷氏の勢力は衰退し、天文年間には竹原小早川氏の勢力が蒲刈に及んでいる。主家・大内氏の衰退が決定的となった厳島合戦の後、多賀谷武重は毛利氏から所領を安堵されている。以後、蒲刈多賀谷氏は毛利氏の警固衆として活動するが、多賀谷元重が朝鮮出兵後、仕えていた毛利秀元から長門の知行地を得て長府に移る。
『芸藩通志』も、丸屋城最後の城主を元重としており、元重の長府移住にあわせて丸屋城も廃城になったとみられる。
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「8954.
不動院から福山への帰路は、呉線沿いを竹原方面に走行でした(^.-)☆(5)
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