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685.藤原北家中条家中条筑前守家次は櫛田宮にも名前  
名前:児島宮歴研会    日付:2011/10/11(火) 20:10
明応二年(1493)六月に完成した猿投神社の棟札に「大施主三宅筑前守家次」とある。また、この年の10月、伊保城主三宅伊賀守が金谷城主中条出羽守・寺部城主鈴木日向守・上野城主阿倍孫左衛門らと連合して、松平親忠と井田野で戦ったという<a href="http://www2.harimaya.com/sengoku/html/m_miyake.html">記録がある</a>。

筑前を守護していた中条筑前守家次は櫛田宮にも名前を連ねている。
この三宅筑前守は中条筑前守家次のことである。
出生は愛知?の佐々木流れになる。
「高徳は南朝の興国五年(1344)猿投に入って広瀬城を築き、のち隠居して広済寺を創建し、正平20年(1365)に没した」とある。

広瀬城は高徳胤、宮家流れで、佐久間氏の城でもある。
佐久間詮孝(佐久間信盛)の弟である。

挙母藩主となった三宅康貞の家系で、祖は三河に古くから三宅氏があり、加茂郡式内社の猿投神社の神主家などに見える。
三宅筑前守家次なる人物が猿投神社の棟札に名を残している。

中条氏(なかじょうし)は、桓武平氏越後和田氏の一族。
享徳3年(1454年)にこの地の領主中条房資が子孫に書き残した11ヶ条によると、房資の曾祖父・茂資(もろすけ)が南北朝時代の観応の擾乱の頃に鳥坂城を築いた。

中条氏の所領の一つに三河加茂郡高橋庄がある。鈴木氏・三宅氏を被官とし勢力を保っていたものの、明応2年(1493年)10月の井田野の戦いで中条秀章が松平親忠に敗北。

藤原北家長良流・中条家

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686. 藤原北家中条家中条筑前守家次とは
名前:児島宮歴研会    日付:2011/10/15(土) 21:2
中条筑前守家次明応二年(1493)の人
六月に完成
した猿投神社の棟札に「大施主三宅筑前守家次」とある。

佐々木児島佐久間、和田季房の次子筑前守家貞は伊賀国鞆田庄現地代官として在地に住み、嫡子家次は伊賀国山田庄平田に住んで平田冠者と称した。

東照宮御實紀卷一

擧母城主中條出羽守。伊保城主三宅加賀守。八草の城主那須宗左衛門などいへる輩。謀を合せて岩津の城をせめんとてをしよせけるに。親忠一門家兵を引率し井田のクに出張し。わづかに百四十餘の兵をもて三千にあまる寄手を散々に追ちらし。敵の首五十餘級を討とらる。

範季−季房を経て、季房の嫡子有兵衛季宗の子が宗清である。和田季房の次子筑前守家貞は伊賀国鞆田庄現地代官として在地に住み、嫡子家次は伊賀国山田庄平田に住み。

1493年井田野の戦いで、松平親忠と戦う三宅伊賀守がいる。
三宅伊賀守事、中条筑前守家次明応二年(1493)の人。

児島高徳の末裔たち、
三河三宅一族に、
秀満の父は遠山景行(明智光安)である。
秀満の母は三宅、愛知、広瀬城主の、高貞の娘である。

松平親忠の敵は三宅筑前守家次であった。
秀満は母方の姓三宅弥平次をなのる。後の天海のことなり。「兼実卿記」
秀満母父事養父は三宅大膳入道、長閑斎(出雲守)という。

擧母城主中條出羽守家次は児島高徳を祖としている。

土佐の長曽部元親の夫人が斉藤利三のむすめであった。福の父でもある。天海は福を補佐している。

三宅筑前守家次なる人物が猿投神社の棟札に名を残している。明応2年(1493年)の井田野の戦いに松平親忠と戦った武将に三宅伊賀守がいる。

徳川家譜代大名で挙母藩主となった三宅康貞の家系で、祖は三河に古くから三宅氏があり、加茂郡式内社の猿投神社の神主家などに見える
三河古族の衣君の一族で庵(イホリ)君という。備前三宅氏也。
三宅右衛門大夫高貞がその後に現れて清康に攻められている。
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687.三宅大膳入道、長閑斎(出雲守)
名前:児島宮歴研会    日付:2011/10/15(土) 21:38
三宅大膳入道、長閑斎(出雲守)
菅沼新八郎(改織部正)定盈妻。実三宅大膳入道長閑斎女。
坂本には光秀の子供三人と伯父長閑がいる。

明智秀満; 別名: 三宅弥平次,明智弥平次

十郎左衛門の父、長閑斎は明智光秀の伯父であった。
天正七年のある日、近江坂本の明智長閑斎、その子十郎左衛門光近のも
とに 柴田源左衛門と名乗る者が一族郎党百余騎随えた。

明智光近(?〜1582): 十郎左衛門。
光近は光忠の子である。
光近光忠子十郎左衛門
斎藤小十郎光近の墓碑文に「君姓斎藤道三山城守之裔也諱光
近通称小十郎 世世仕旧備前藩太夫池田勢州食禄百八拾石為鉄砲頭 自祖父嗜兵法」とある。

光秀(1528-82.6.13)
十兵衛。日向守。
安芸守光綱(光隆?光国)の長男。父光綱は若くして死に光秀は叔父光安に養育される。弘治二年、斎藤義竜の攻撃で落城し光安は戦死。光秀は諸国遍歴の後に越前朝倉氏に仕える。後に朝倉氏を頼っていた足利義昭と信長との折衝役を務め、義昭の上洛に尽力。元亀二年、信長より近江国滋賀郡を与えられ、坂本城主となる。

光安(?-1556.9.26)
兵庫助。宗宿と号す。
光秀の叔父。美濃斎藤道三に仕え、美濃国明智城主。道三と子の義竜の争いで道三方に与したため、義竜に居城を攻められ、甥の光秀を脱出させ自害した。
■光春(1537-82.6.14)
弥平次。左馬助。名は秀満と伝わる。妻は光秀の娘。
光安の子というが、光秀の甥とも女婿ともいう。はじめ三宅弥平次を称し、光秀の娘を妻とし明智姓を名乗る。光秀の丹波攻略に従い活躍し丹波国福知山城主。天正十年、本能寺の変では先鋒を務め本能寺を焼き討ちにする。資料元リンク
光久(1516-82.6.14)
次右衛門。長閑と号す。
光秀の叔父。光秀に仕える。天正十年、坂本城で戦死。享年六十七。

光忠(1540-82)
二郎四郎。次右衛門。治右衛門。妻は光秀の娘。
光久の子。光秀に従い丹波攻略に活躍。信長にその功を賞賛され脇差を下賜される。天正十年、本能寺の変では二条城の攻略を命じられるが、銃弾を受け負傷。治療のため知恩院に入るが、光秀の敗死を知り、自害した。享年四十三。子の十郎左衛門光近も父に従い二条城攻略に参戦。信長の五男勝長を討ち取ったという。


明智孫十郎(?〜1582): 本姓恩田で
光秀の義弟という。美濃衆。本能寺の変で本能寺攻めの先鋒を務める。
斎藤小十郎光近

明智治右衛門光忠、藤田伝五ら、光秀の一手は、明智十郎左衛門光近ら」
明智光近 (*〜1582)十郎左衛門。明智光秀の縁戚。

児島 高徳; 別名: 三宅備後三郎,志純.

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688.「藤原宇都宮、中条、佐々木、和田、三浦族流れ」
名前:児島宮歴研会    日付:2011/10/16(日) 11:43
伊賀国山田庄平田住筑前守家次

芭蕉翁
和田季房の次子筑前守家貞は伊賀国鞆田庄現地代官として在地に住み、嫡子家次は伊賀国山田庄平田に住んで平田冠者と称した。
擧母城主中條出羽守家次は児島高徳を祖としている?「藤原宇都宮、中条、佐々木、和田、三浦族流れ」

筑前守家貞や家貞の子の平田冠者家次・筑前守貞能 その祖を池大納言平頼盛の家人弥平兵衛宗清とすると伝える。
筑前守貞能は紀氏の(武蔵七党)成田流れである。

芭蕉の祖先と伝えられる弥兵衛尉平宗清も伊勢平氏正度の次子駿河守貞季流であり、貞季の次子正季から範季−季房を経て、季房の嫡子有兵衛季宗の子が宗清である。季房の次子筑前守家貞は伊賀国鞆田庄現地代官として在地に住み、嫡子家次は伊賀国山田庄平田に住んで平田冠者と称した。服部松尾氏のながれが父の興左衛門と考えられる。

「三宅家記」に、左馬助親三宅出雲と申者、天正之比丹波亀山の城ニ居申候、光秀之従類也、其子三宅弥平次 (明智秀満; 別名: 三宅弥平次,明智弥平次)後の天海僧正也。

尾張国山田庄(名古屋市北西部、瀬戸市、長久手町の一帯)の地頭
服部氏は伊賀国阿拝郡服部郷(現三重県伊賀市)を拠点とする有力御家人であり、阿拝郡・山田郡(伊賀国)など北伊賀を支配下に置いていた。
平安期〜室町期に見える荘園名伊賀国山田郡氏家人平田家継(平家貞男)の本拠。

ひらた・さだつぐ, 平田入道定次、家継, 父:平田家貞、甥又は弟
:肥後守貞能(神崎櫛田宮神主)

文明十一年(1479)頃〜長享元年(1487)頃の大和守家は海東郡と中島郡および山田郡の一部の山田庄を支配し、伊勢守家は葉栗 .... 清須より織田筑前守(良頼)・伊賀守・同名衆、小守護代坂井攝津守、新地の知行、祝言。」というから、松平与一内膳正信定は本拠三河(海 ...... 大介召し寄せられ、御弓御稽古、橋本一巴を師匠として鉄炮御稽古、平田三位不断召し寄せられ、兵法を御稽古、御鷹野(鷹狩)等なりとある。
文明十年(1478)十月十二日、大和守敏定は再び勢力を盛り返した伊勢守敏広と戦い勝利する。十二月四日、敏定支援の請文を幕府に提出したはずの土岐家臣斎藤妙椿が、自らの娘婿である岩倉を拠点とした織田伊勢守敏広を援助して清洲城を攻撃した。このため大和守敏定は、武田兵庫助を使者にして美濃を牽制するために信濃国・小笠原家長に援助を求めた『小笠原文書』。
(『大乗院寺社雑事記』の裏文書)に、清洲城が一時焼けて山田郡山田庄に退いたという記述があり、斎藤妙純(妙椿養子)と替わる文明十四年(1482)まで山田庄の代官職を幕府から任命されて務めていたという『蜷川家文書』。足利義政は南禅寺の僧を遣わして妙椿を説得したが不調に終わり、敏定はこの戦いで目に矢を受けたという。
資料リンク元↓

文明十一年(1479)正月十九日、大和守敏定は不利な状況で斎藤妙椿・伊勢守敏広と和睦し、敏定は中島郡・海東郡二郡を安堵されて尾張国は共同統治することとなった。『大乗院寺社雑事記』の文明十一年正月二十七日条は、「尾張国合戦、二郡分織田大和(敏定)安堵、持是院(斎藤妙椿)与和談之由」という。これによって、文明十一年(1479)頃〜長享元年(1487)頃の大和守家は海東郡と中島郡および山田郡の一部の山田庄を支配し、伊勢守家は葉栗郡と丹羽郡と山田郡と春日井郡と海西郡と愛知郡(但し、今川那古野氏が勢力を持っている)を支配した。

文明十三年(1481)三月、『梅花無尽蔵』は、両者は再び戦ったが、ここでも敏定が勝利したといいいその後伊勢守敏広は没っしている。

中世の尾張国は九郡からなり、丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡・海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡・山田郡がある。このうち、山田郡は愛知郡と春日井郡に分割されて大永年間以前に編入されたらしい。

http://kagiya.rakurakuhp.net/i_598161.htm Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.1; SV1; WPS; GTB7.0)


689.広瀬城は高徳胤、宮家流佐久間助安
名前:児島宮歴研会    日付:2011/10/16(日) 12:16
佐久間助安という人は、佐久間盛通の祖父にあたり、助安の父は美作守家勝で、御器所八幡宮の嘉吉の棟札に名が出。

「佐久間孫五郎助安、民部丞を申す事相違有るべから ず、宜しく口宣奏請の状、件の如し文安三年八月三日」
御器所の菩提寺・龍興寺に残る室町中期に書かれた吹拳状(推挙状)です。

この佐久間助安という人は、佐久間盛通の祖父にあたり、助安の父は美作守家勝で、御器所八幡宮の嘉吉の棟札に名が出ている人です。
民部丞の官位には、大丞(正六位)と小丞(従六位)があり

最初に見える花押は、熱田の大宮司・千秋持季のものだと言われます。千秋家と佐久間家の深い関係が見える。

孫五郎助安民部左近文安頃織田家 文安三年(1446)佐久間孫五郎助安は、民部丞の官途吹挙状を得ている。『龍興寺文書』 小川乾坤院(知多郡東浦町)蔵の「血脈集」文明十一年(1479)条に「誠栄 サクマ平右衛門 尾州御貴所(御器所)」とみえる。

これによると、三宅大膳入道、長閑斎(出雲守)頃「血脈集」文明十一年(1479)佐久間孫五郎助安は、民部丞の官途吹挙状を得ている。
天皇家に順ずる職の左近衛中将藤原助安文安三年(1446)佐久間孫五郎助安とある。

後鳥羽院後継で、知られる、皇孫は頼任親王ー(母加地信実娘)東寺長者道乗ー(母中条)頼宴ー(母和田範長娘)児島高徳頼宴子ー高光─正綱─正光ーー甚九郎満盛ー甚九郎助安ー甚九郎朝次ー甚九郎信晴(盛光改め)ー甚九郎佐久間信盛ー甚九郎正勝不干斎ー甚九郎正成児島宮 へと続く。

嘉吉元年(1441)の銘のある御器所八幡宮の棟札には「佐久間美作守上臈」とあり御器所八所大明神の社殿を造立したという。 文安三年(1446)佐久間孫五郎助安は、民部丞の官途吹挙状を得ている。『龍興寺文書』

児島高徳ー高光─正綱─正光ー甚九郎満盛ー甚九郎助安ー甚九郎朝次ー甚九郎佐久間信盛 ー甚九郎正勝不干斎ー甚九郎正成ー甚九郎岩蔵ー甚九郎弥蔵ー甚九郎弥平ー甚九郎喜平ー祖父甚九郎文八 ー甚九郎某. 甚九とは. 神とも、かみとも、音し女以(似姓)皇孫也。

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690.山崎砦(名古屋市南区岩戸町白毫寺の境内)は、佐久間信盛によって築かれた
名前:児島宮歴研会    日付:2011/10/16(日) 12:34
『三河海東記』には先の記事の後に、<戸部新左衛門難死之事>の条があって、そこには「去程に永禄元年四月下旬に尾州知多郡大高の城に、信長家人佐久間甚四郎七十騎にて押寄、鬨を上げ矢叫声、山河崩るゝ計也。

佐久間信盛の家系では、甚九郎助安―甚九郎朝次弥平次―甚九郎信晴―甚九郎信盛―甚九郎信栄というように甚九郎を継いでいるとも言うようです。

「此時、愛知郡山崎は佐久間右衛門尉信盛が領地なれは、定て、山崎の城ハ信盛守るべし、殊に、信盛は織田家の長臣にして人数持ちと聞へたり。此ノ節、彼が弟佐久間左京ハ善照寺の砦の主将に命セられけれハ、信盛か年齢、尤(モットモ)、壮盛なるべし、今川家の来敵大軍にして、主君信長大切の軍、殊更ニ我領地手筋の場なり、この度に於イてハ別して、諸将を抽んでゝ先手を乞ひ望むべき事にして、己か居城に守り居るべき事にあらじ、然るに此合戦の初中後、信盛が行跡、諸伝記にも、古老の語伝にも其名みへず。(中略)終に其ノ名の見へざるはハ不審なり。」としています。

山崎砦(名古屋市南区岩戸町白毫寺の境内)は、佐久間信盛によって築かれたと『尾張徇行記』ではいいます。

最初から御器所城主一族の佐久間信盛の城だともいう。しかし、最後は信盛が入城しており、信長に追放されるとこの城も破却された。佐久間信盛の支配地は、『尾張徇行記・巻二』が山崎村と御器所村、『尾張徇行記・巻四』が舟橋村と高木村とあり広範に散在しています。『寛政重修諸家譜』に「山崎城主」とあり、『寛文覚書』に「佐久間右衛門居城」とある。『尾陽雑記』『張州府志』にもある?(未確認)。『織田信長家臣団人名辞典』では信盛は「愛知郡山崎」の出身としている。
資料リンク元↓

龍興寺に残る文書は文安三年(1446)、佐久間孫五郎助安(美作守と同族と思われる)を民部丞にとの足利幕府に対する吹挙
状であり、吹挙者は文書の花押より熱田社大宮司千秋(せんしゅう)が出した文書。

佐久間信盛の和歌. 「みし秋の草葉は霜に枯れはてて 眺めにつらき野べの色かな」「冬野」と題
尚以御祓并山桃・尉(熨)斗五把送給之候、目出度令拝領、態斗(わざとばかり)御初尾三十疋令進覧候、尚■ニも可申入候、織田家は佐久間で持つとまで言われた。

尚以御祓并山桃・尉(熨)斗五把送給之候、目出度令拝領、態斗(わざとばかり)御初尾三十疋令進覧候、尚■ニも可申入候、
今度就合戦之儀、早々御尋本望存候、義元御討死之上候間、諸勢討捕候事、際限無之候、可有御推量候、就其立願之儀、委細御使与三郎殿江申候、聊不可有相違候、恐々謹言、
信盛(御書判)

六月十日

福井勘右衛門尉殿

御返報

「皇大神宮御師福井勘右衛門尉宛佐久間信盛書状写」
※皇大神宮は伊勢神宮のうち内宮を指す。 ここにも天皇一族の姿が出ている。

織田信長文書の研究 「皇大神宮御師福井勘右衛門尉宛佐久間信盛書状写」
お祓いと山桃、熨斗5把をお送りいただきまして、ありがたく拝領しました。少々ではありますが、初物献上として300文を進上いたします。

今度の合戦について早速お尋ねいただきましたが、義元が討ち死にしました。その軍勢も数え切れないほど討ち取っています。その様子は推量ください。願掛けのことは、お遣いの与三郎殿に詳細をお聞きください。少しの相違もないようにお願いします。


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691.明智光秀の母の父、広瀬城主三宅高貞(長閑斎・三宅出雲)
名前:児島宮歴研会    日付:2011/10/16(日) 14:15
三宅長閑斎の娘は土岐明智家へとついだ。
三宅長閑斎とは
丹波亀岡住三宅長閑斎は三宅大膳入道、長閑斎
(三宅出雲)六十三才
三宅一族は児の字とともに「輪宝紋」も一族共通の家紋として用いている。
「有」は無に対して実在するものの意であり、ものを取得する意味にも使われる。出雲大社が「亀甲に有文字紋」を用い、出雲大社とゆかりの神魂神社も「亀甲に有文字紋」
出雲のお国と関係か?大徳寺高東院内に墓あり。


明智光安の子という説と、三宅出雲の子という説がある。後者の説では、はじめ三宅
弥平次(『弥太郎』とも?)と称し、明智光秀に仕えてその女を娶り、姓を明智と改め、
秀満と名乗った。

光秀の娘・秀林院を娶ったことから 明智秀満姓を名乗った。

明智光廉(長閑斎・三宅出雲)の娘という。明智光秀の叔父なり
明智光秀の母の父、明智光廉。

三宅藤兵衛
熊本細川藩家老の三宅氏は、嫡男家のみ隠し紋として桔梗紋を持っています。島原三宅氏は、細川藩三宅氏に生まれた男子の一人が、島原天草の乱後の移民政策に応え(その男子は嫡男でなかった為)島原に移住したのが始まりです。

三宅重利(明智藤兵衛)もとはキリシタン島原天草の一揆軍と幕府側として戦って戦死しています。輪宝紋や引両紋の三宅氏の出自は、瀬戸内の備後。

明智光秀の叔父に三宅氏を名乗った明智光廉がいる。

(遠山氏→)三宅氏→亀岡出雲社明智氏ゆかり。
出雲大社が「亀甲に有文字紋」を用い、亀岡出雲大社とゆかりの神魂神社も「亀甲に有文字紋」出雲のお国と関係はここにある。

出雲神社 名神大. 出雲大神宮 京都府亀岡市千歳町出雲; 出雲神社にゆかり。

遠山光廉=土岐光廉=明智光廉

明智光秀の叔父にあたる明智光安が美濃国明知城主である遠山景行と同一人物

また遠山景行の妻が三河国広瀬城主三宅高貞の娘であるため、遠山景玄の母に相当する三宅氏の跡を継いだ。

三河国広瀬城主三宅高貞(長閑斎・三宅出雲)娘が、遠山景行の妻。

坂本城代とされる三宅長閑斎は、横山(福知山)で捕らえられ刑死した。
秀満(天海僧正)の子(後の三宅重利)は、その後寺沢堅高の家臣となり、天草富岡城代であったときに、天草の乱の際に天草四郎率いる一揆軍に殺されたという。

秀満こそ天海大僧正。

使用した家紋が遠山氏と三宅氏の家紋(丸に二引両と三宅輪宝)と同じである。

「三宅輪宝紋」は今日においても喜多院あるいは上野の輪王殿両大師堂、日光山輪王寺三仏堂で見ることができる。
秀満の庶子、太郎五郎が、幕末に活躍した坂本龍馬の先祖であるという説がある。

明智光秀の叔父に三宅氏を名乗った明智光廉がいる。

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692.佐久間全孝1533年三河加茂郡広瀬城主、広瀬城創建は児島高徳。
名前:児島宮歴研会    日付:2011/10/16(日) 14:48
佐久間全孝

遠山景行の妻が( )広瀬城主三宅高貞(長閑斎・三宅出雲)の娘である。

三宅高貞 (*〜*1561)東広瀬・右衛門大夫。東広瀬城主。1533年阿部、鈴木、中条家と連合し松平清康と抗争。

三宅光貞1554年佐久間家から西広瀬城を奪取。一門の三宅帯刀・高清を城主とする。

三宅高貞 (*〜*1561)東広瀬・右衛門大夫。東広瀬城主。1533年阿部、鈴木、中条家と連合し松平清康と抗争。1554年佐久間家から西広瀬城を奪取。一門の三宅帯刀・高清を城主とする。1558年今川家の将・松平元康に降伏。1558年に松平元康に奪取された広瀬城を再奪取。1561年広瀬城を再び失う。<1561年清洲同盟後の織田家の西加茂郡平定戦によるものか。><甥が三宅弥平次・明智光春。

三宅高清 (*〜*1558)西広瀬・帯刀。三河国人。1533年佐久間全孝が広瀬城奪取。1549年広瀬城主・佐久間全孝は松平広忠の家臣に討たれる。1554年三宅右衛門大夫・貞保が佐久間長七郎から広瀬城を奪取。以降、西広瀬城主。1558年織田信長に通じ今川義元に攻撃される。松平元康・酒井忠尚の攻撃を受ける。加茂郡西広瀬城主。<三宅貞保、高貞、光貞により広瀬城主に任命される。

佐久間全孝 (*〜*1553)九郎左衛門・重行。尾張衆。1533年三河加茂郡広瀬城主に抜擢される。1535年松平清康戦死。1549年岡崎城主・松平広忠を暗殺する。1554年息・長七郎の代に三宅貞保、高貞、光貞等の三宅一族の攻撃で落城。跡職は佐久間信盛の弟・信直佐久間全孝が継承。

松平清康 (1511〜1535)世良田・次郎三郎。
安城城主、松平信忠の息。1523年13歳で家督相続。山中城主・西郷信貞を破り、叔父・福釜親盛・桜井信定・東条義春・藤井利長を従え西三河の領主。1529年東三河の雄・牧野伝蔵を降し、田原城主・戸田康光、作手城主・奥平氏、長篠城主・菅沼氏を降す。1529年尾張岩崎城を落とす。1530年宇利城主熊谷忠重を降す。1533年東広瀬城主・三宅高貞、寺部城主・鈴木氏、金谷城主・中条氏、上野城主・阿部氏を降す。1535年12月美濃と結び尾張乱入。守山に向かうが「守山崩れ」事件で死亡。25歳。

佐久間全孝(信盛弟)の子長七郎居城の時、東広瀬城主三宅高貞、光貞らに攻められ、三宅帯刀が入ります。
織田家の家臣佐久間一族が西広瀬城に入る前、西広瀬城はおとなりの東

広瀬城の三宅氏に攻め落とされたのですが、三宅氏に落とされる前に城を支配していたのも佐久間氏。広瀬城創建は児島高徳。
)。「三河旧記」によると佐久間信盛、鈴木一党、三宅一党、三宅因播守、三河大樹寺へ寄進状をおくるとあるそうです。
佐久間氏は三河の豪族である。

1531年頃、松平三郎左衛門家範が城主となったが、1533年佐久間全孝(よしたか)なる人物が入る。
1549年全孝は岡崎に刺客岩松八弥(片目の八弥)を送り込み、松平8代目広忠が殺害される。

全孝の子長七郎居城の時、東広瀬城主三宅高貞、光貞らに攻められ、三宅帯刀が入ります。

1558年三宅高貞は今度は織田方に寝返り、松平元康に攻められます。1561年の再戦で再び敗北。

1576年頃、佐久間信盛も一時居城したが、当時織田家の出世頭信盛はあちこちに領地がり、西広瀬城は信盛の与力の佐久間一族が入ったようです。入城したのは佐久間信直。信盛の兄か弟らしい。やがて佐久間信盛は追放されます。その後、佐久間信直、甥の正勝は織田信雄に属し、1584年「小牧、長久手の戦い」で蟹江城にて手柄をたてます。

遠山景行(明智光安)、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘です。弟
の利景が旗本遠山の先祖で、金さんの先祖となります。

遠山景行妻:三宅高貞(三河広瀬城主)の娘 子供:男子…明智秀満、男子…遠山利景、女子…小里光次の妻 明知城主(遠山氏を継いで、遠山姓に改名). 小里光忠, 明智光継 四男,
別名:明智光久. 原頼房, 明智光継 五男. 明智光廉, 明智光継 六男, 別名:三宅長閑斉 。

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693.第12代明知城主(現在の恵那市明智町)遠山景行
名前:児島宮歴研会    日付:2011/10/16(日) 15:2
遠山 利景(とおやま としかげ、天文9年(1540年) - 慶長17年(1612年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。江戸幕府旗本。旗本遠山氏(明知遠山氏)の初代。父は第12代明知城主(現在の恵那市明智町)遠山景行、母は三河広瀬城主三宅高貞の娘。

天文9年(1540年)、明智に生まれる。兄に遠山景玄、姉妹に小里光次室など。正室の慈正院は、三河足助城主の鈴木滋直の娘で、その母は松平清康の妹で家康の育ての母である松平久子。子に遠山方景、阿茶局(須和)に使えた龍光院など。

佐久間全孝の子佐久間長七郎居城の時、東広瀬城主三宅高貞、光貞らに攻められ、三宅帯刀が入ります。1554年佐久間家から西広瀬城を奪取。

佐久間全孝「佐久間九郎左衛門」
三河 西広瀬城【愛知県豊田市西広瀬町城前】
1533年佐久間全孝が入る。

1554年佐久間九郎左衛門重行〔全孝〕の子長七郎居城の時
、御船、東広瀬城主三宅右衛門太夫貞保高貞、光貞らに攻められ、三宅帯刀が入る。1558年高貞は織田方に寝返り、松平元康に攻められ、1561年の再戦で大敗した。

「岩松八弥」の出自は新田氏末裔の岩松氏
実父・足利義純家祖・岩松時兼弟の田中時朝
弟と新田氏の一族と称して、後に新田氏に改める。新田本宗家の滅亡後、新田岩松氏と通称される。

村正の脇差をぬいて広忠を突いた。伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で活躍した刀匠の名。別称、千子村正(せんごむらまさ)。

徳川家康の祖父清康と父広忠は、共に家臣の謀反によって殺害されており、どちらの事件でも凶器は村正の作刀であった。
村正は天子の宝刀でもあった、これは天子に逆らう不忠の者を成敗するのに、使われた。

佐久間信晴====1542盛通子朝次子?甚九郎九郎左衛門朝信全孝
山崎城主討松平広忠?
佐久間全孝 (*)九郎左衛門・重行。尾張衆。1533年三河加茂郡広瀬城主に抜擢される。岡崎城主・松平広忠を暗殺する。息・長七郎の代に三宅貞保、高貞、光貞等の三宅一族の攻撃で落城。跡職は佐久間信盛の弟・信直が継承。

佐久間朝信

信盛15271581信晴子半羽介?出羽右衛門夢斎定盛宗祐山崎永原刈谷城主天王寺城番. 信栄
15561632信盛子甚九郎駿河信勝基栄定栄正勝不干斎

高徳ー甚九郎高光ー甚九郎正綱ー甚九郎正光ー甚九郎弥平次(近衛中将助安)ー甚九郎朝次ー甚九郎信晴始め左衛門尉盛光ー佐久間信盛ー信栄と続く児島宮流れ。
甚九=神子ナリ

佐久間信晴====1542盛通子朝次子?甚九郎九郎左衛門朝信全孝?
信盛15271581信晴子半羽介?出羽右衛門夢斎定盛宗祐山崎永原刈谷城主天王寺城番. 信栄15561632信盛子甚九郎駿河信勝基栄定栄正勝不干斎

殉死した三淵家

三淵家系図
持清 晴重 晴政 晴貞 晴恒 晴員 藤孝(細川元常嗣)
藤英 秋豪 藤利 尚正 ⇒
紹(大徳寺の僧。号玉甫)
元冲(南禅寺悟心院長老。号梅印)
長岡伊賀守好重
女子(号宮川尼。武田宮内少輔信重室)

女子(佐久間甚九郎妻)

柴田勝家略系図
女子(佐久間盛次室)
女子(吉田次兵衛室)
勝家 権六(於国丸。勝敏。寛永譜によれば養子)
勝政ー 勝重ー 勝興(三左衛門)
信勝(佐久間正勝養子。寛永14〔1637〕年9月23日卒)
勝利(半兵衛)
行重(源右衛門。会田資重養子)
勝忠(少五郎)
女子(佐久間甚九郎正勝妻)
女子(奥山重次妻)
女子(飯高貞勝妻)
勝次 男子(左近)
勝定 男子(小助)
女子
女子(堀田武助妻)
勝豊(実吉田次兵衛男。伊賀守。天正11〔1583〕年卒)
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694.三宅氏の出目?和田範長を祖とする三宅氏
名前:児島宮歴研会    日付:2011/10/16(日) 15:49
三宅氏の出目?
天台宗輪宝(てんだいしゅうりんぼう); 大日輪宝(だいにちりんぼう); 成田輪宝(なりたりんぼう); 三宅輪宝(みやけりんぼう)

祖は三河に古くから三宅氏が
あり、加茂郡式内社の猿投神社の神主家などに見える。
(三宅氏系譜)、15世紀末になってである。三宅筑前守家次なる人物が猿投神社の棟札に名を残している。明応2年(1493年)の井田野の戦いに松平親忠と戦った武将に三宅伊賀守がいる。

三宅氏の起こりは、南北朝時代に南朝方で活躍した児島高徳であるという。伝えには「
高徳は南朝の興国五年(1344)猿投に入って広瀬城を築き、のち隠居して広済寺を創建し、正平20年(1365)に没した」とある。

児島高徳の系に組み入れられ、たのは?
和田範長を祖とする三宅氏である。和田備後守範長の実子
和田範長(佐々木氏の庶流)である。

和田備後守藤原三宅範長は、備前源氏の佐々木盛綱→信実→加地次郎実秀→実綱 →加地源太左衛門時綱→綱秀の子として、建治二年(1275)備前の国邑久郡和田村に生まれる。本草は佐々木氏である。

藤原季範の娘(実は季範長男藤原範忠の娘=源頼朝の母の姪)を妻にしている。
和田備後守範長公、今木太郎範季公、今木次郎範仲公、中西四郎範顕公、松崎彦四郎範代兄弟が三宅氏祖である。

和田範長(わだ のりなが) ?〜1336 備前国の豪族。 児島高徳の養父。 お久馬(おくま) 生没年不詳和田範長の娘。
長男高秀(児島高徳の系の長男)児島高徳の叔父である。

佐々木盛綱ー 武田ー逸見冠者清光室は和田義盛ー逸見重氏盛綱女婿三宅定心ー玄孫家長ー紀家弘女婿児島範長ー女頼宴室

備前国 和田二郎範長 松崎・和田同族 和田は 佐々木氏流三宅氏
(三宅・和田・今木などの姓を名乗る)
紀家弘室の父東郷胤時ワ云エリ、家弘婿ワ、児島範長デ、範長ワ、今木範俊ノ子ナリトテ、大平記ニ児島し河野は一族ニテとあり。

義盛自身は三浦郡和田に移り住み、和田を称した。

五流尊龍院の由緒には次のようにある「頼仁親王の長嫡道乗大僧正に六子あって、澄意、頼宴、親兼、隆禅、澄有、昌範と言い、澄意は尊龍院を嗣いだのは宮家のことである。児島高徳は、後鳥羽天皇の玄孫、頼宴
大僧正の子。

三宅範長とは、坂越の領主として南朝方で戦った和田一族、和田範長である。


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「685.藤原北家中条家中条筑前守家次は櫛田宮にも名前」への返信

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