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家系研究協議会掲示板

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2555.埼玉県比企地方の市川氏について  
名前:市川(滑川町)    日付:2013年6月13日(木) 21時40分
以前、埼玉県の市川氏について投稿させて戴いた者です。
比企郡の小川町に旧家の市川氏が存在すると申し上げましたが、小川町教育委員会によりますと、現存する市川氏の集落地から有力農民のものと思われる古い居館跡が出土し、遺物は1500年代後半から1600年前半のものが中心であると判明しているそうです。さらに、一部からは12世紀後半の遺構や出土物があるとのことで、非常に興味深く思います。小川町にこうした遺構は例がなく、現地に中世から存続する一族は市川氏しかありませんので、この居館が小川町市川氏のものである可能性は高いと思います。
居館廃絶時期を考えると松山城廃城と無関係ではないでしょうし、それより数百年遡って大蔵合戦の頃既に存在していたならば、小川町の市川氏と都幾川の市川氏との関係に手がかりを与えるものであり、松山城落城後帰農したと思われる嵐山や滑川の市川氏とのつながりにも示唆を与えるように思います。



2559.Re: 埼玉県比企地方の市川氏について
名前:市川@武州荒木    日付:2013年6月28日(金) 20時16分
家協研の皆様、既に馬原様には、連絡させて頂き、ご承諾いただいたのですが、高齢の母の急病に伴う介護と、今夏は仕事に全力で集中しなければならない状況となってしまったため、東京例会における講演を辞退させて頂きましたこと、御報告申し上げます。



市川(滑川町)様

今も変わらずに、地道に自家系のご研究を進められておられること、大変喜ばしく存じます。

小川町の市川氏のものと思われる居館遺跡が松山城落城の時期まで遡り、一部は大蔵合戦あたりまで遡る古いものであるとのこと、文献のみならず、考古史料からの方面からの研究をもなされておられるのは、正に慧眼であると存じます。

単純な推測をすれば、源義賢に味方した市川氏は、最初、大蔵合戦までは、小川町に居館を構え、大蔵合戦後、都幾川に遷住したという可能性もあると思います。後の時代、中世の都幾川市川家からの分家筋が、小川町に居住したという可能性もあるやに思いました。

少なくとも、大蔵合戦辺りまで、比企郡の市川氏の居住が確認出来るとなれば、少なくとも、比企郡の市川氏は、松山城主上田氏とともに多摩郡から遷住した一族ではなく、萩日吉神社等の伝承の様に、平安時代からの比企郡の豪族であったことになりますね。そうなると、やはり甲斐の市川氏に繋がる可能性が高い一族であり、曽我物語に記述のある、鎌倉時代における甲斐市川氏の勢力範囲として挙げられる「坂東」が、やはり武蔵国比企郡である可能性を高めるものになると思いました。


今後とも、ご研究の御成果をご教示頂ければ幸甚です。


2566.Re: 埼玉県比企地方の市川氏について
名前:市川@武州荒木(神奈川県在住)    日付:2013年7月15日(月) 16時36分
武蔵国比企郡市川氏に関する史料を以下に纏めてみます。

1、萩神社山王宮伝来書記「舒明天皇御宇、正二位上曽我伊奈免大臣・舒明帝三十代の臣也。大臣は三芳野里に奉建立す。伊藤・市川の両家伊奈免の諸臣にて依之両家奉守者也」

この本文中の舒明は欽明の誤りですが、萩日吉神社の社伝では、比企郡の市川氏の先祖は、蘇我氏の家臣であったという伝承を伝えております。

2、同じく萩日吉神社の古文書・木曽家引略記

「源義仲妾桜木局之腹生所木曽義次郎三歳之時、父義仲江州粟津之戦場亡命給(中略)然則義次郎母諸共馬場文吾召連木曽落居干栗本村其後文治三年丁未八月有二日桜木局病死依之義次郎成孤十三歳之時改苗氏号馬場文治郎義綱也(中略)従是以前武州比企郡慈光山内敗卒小林軍平勝義、市川兵蔵森光、伊藤喜八郎清春、横川金右ヱ門直時、萩久保源助豊広、加藤甚内忠親等之六騎籠居之由伝之間馬場文治郎義綱使之同郡明覚落留也」

この木曽家引略記は文禄元年四月の成立。文中、鎌倉時代初期の比企郡の市川氏として“市川兵蔵森光”を挙げています。光字の諱からすれば、甲斐市川氏の内、方原次郎師光の子供の市川別当大夫高光系統の市川氏との関係を想定出来ますし、明覚市川氏の霊會日鑑には、同家の系図の市川新十郎諸義を諸光とも記録しておりますので、森光(もりみつ)と諸光(もろみつ)は諱の読みが近似しますので、明覚市川氏の系図の市川諸義の初名は諸光(木曽家引略記では市川兵蔵森光)であった可能性が高いと思います。



3、明覚市川氏の系図及び霊會日鑑

系図では、新羅三郎源義光の子供の覺義の名乗りを市川十郎文殊院別当、或いは市川別当文殊院阿闍梨民部卿とし、霊會日鑑では民部卿覺義・市川別当民部卿覺義としておりますが、園城寺文書では、覺義は源義光の長男であり、民部卿ではなく、花林房・刑部禅師または刑部卿阿闍梨と称したとあり、真野信治氏という方がネット上に公開した系図によりますと、覺義の子供に市川太郎別当文殊院律師民部卿頼圓と名乗りや事績は不明ながら頼儀という二人の子供と新十郎覺光を挙げますので、明覚市川氏の初代の“民部卿”は覺義ではなく頼圓であろうと推測されます。つまり、明覚の市川氏の出自が覺義系統の市川氏であった場合は「源義光―覺義―頼圓―倶義―諸義(初名ハ諸光カ、木曽家引略記ノ市川兵蔵森光ト同人ナラン)」の系譜が想定されます。

4、慈光寺縁起抄(慈光寺百四世岡見瞬雅撰、成立は明治四十四年)「元来三津氏に七士及び獨りの侍士あり、最澄師享年二十歳の御時当山へ登れるとき比枝の山王の分殿を守護せしめ師にこ従して当国に下降せしむ謂ゆる七士の名は、市川憲嗣・横川澄世・小林恒住・伊藤 守・加藤守昌・馬場幸宅・荻窪利久と呼び侍士は坂本藤苗と称す実に延暦五年寅正月十六日なりき」同書では、鎌倉時代初期の七騎については、木曽家引略記を引用している。


2571.Re: 埼玉県比企地方の市川氏について
名前:市川@武州荒木(横浜在住)    日付:2013年7月31日(水) 18時17分
以上は、明覚郷の市川家に関するものですが、小川町は、古来より和紙の生産でも有名ですが、市川三郷町の郷土史研究家の中倉茂先生の玉稿によりますと、小川町の歴史研究家の方が市川三郷町を訪れたおり、小川町の和紙の生産技術は甲斐の市川から伝わったと仰ったそうです。となると、小川町の和紙の技術は、源義光の子供の覺義系または義清系(方原師光系・曽根厳尊系・奈古義行系の市川氏など)の市川氏を通じて、現在の小川町域に甲斐国市川庄の和紙の生産技術が伝わった可能性も高そうです。

このことから推測しますと、平安末期頃の市川氏の居館跡と見られる遺跡が小川町にあるとなると、甲斐の市川氏は、平安末期には、比企郡の小川町域で活動を開始していたことになり、小川町の市川氏に関しては、覺義系の市川氏のみならず、義清系の市川氏を出自とする可能性も視野に入れた方が良いかもしれません。明覚郷の市川氏は、源義賢に与力したため、大蔵館の合戦の敗戦により、小川町の居館からの撤退を余儀なくされ、明覚郷に蟄居した一族とも見られます。


甲斐の市川と小川町の関係から推測すると、萩日吉神社の社伝の市川家は蘇我稲目の家臣の末裔との伝承は、以前の投稿で記したように、やはり甲斐市川上野の表門神社の神主家の古代の家系伝承を反映している可能性もあると推察している次第です。


3054.Re: 埼玉県比企地方の市川氏について
名前:市川@奈良広陵町経由大阪在住    日付:2015年6月21日(日) 5時10分
はじめまして。埼玉に市川氏がたくさんあるのには驚きました!山梨の方くらいしか多い地域はないと聞きましたので。

私は大阪育ちですが、市川家の先代が奈良の広陵町(昔の百済村)にいたそうです。これは埼玉の市川氏と何ら関わりはあるのか気になるところですが、先日地元を訪れたときに家系を知るための情報は得られませんでした。


3098.Re: 埼玉県比企地方の市川氏について
名前:市川@武州荒木(横浜在住)    日付:2016年1月7日(木) 20時48分
市川@奈良広陵町経由大阪在住様

仕事やプライベートが忙しく、長らく此方のホームページをチェックしてなかったので、失礼ながら市川様の投稿を見落としてしまい、失礼しました。

奈良県の市川家の方ですか、当方は、ハンドルネームからも分かる通り、埼玉県行田市大字荒木字元宿の出身で、父の代から横浜市に在住しております。

埼玉県の市川家については、上記の通り、比企郡に古い市川一族があり、室町初期に上州(群馬県)の市川氏の一部が、秩父半沢(榛沢)郡に土着しているので、北武蔵の市川家は、この系統だと思います。山梨の市川家も、一昨年、鎌倉幕府に属した市川別当源行房の正嫡である、市川三郷町の表門神社の宮司家を訪ねさせて頂き、系図を拝見させて頂き、行房系統の市川家の歴史は分かりました。

関西方面の市川家については、勉強不足で存じ上げないので、是非ご教示ください。


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